BBC ドラマを NHK BS でやっていたのを見たのを機に読んだ。『ABC 殺人事件』自体は
何度か違うバージョンで(漫画版なども含む)読んだことがあり、最初から犯人も大筋も知ってはいたが、
改めてドラマと対比しながら読むのも楽しい。BBC ドラマの特徴は後述。
文庫版の解説(法月綸太郎)に「ABC殺人事件」のポイントが2点要領良くまとめられていた。
この2つを上手に組み合わせて、推理小説史に輝く傑作となっているということだ。
- チェスタトンの有名な逆説(1911)「死体を隠したいと思う者は、死体の山を築いてそれを隠す」の連続殺人事件への応用。
- 記憶障碍を持つ男 (A.B. Cust) に対して、自分が犯人だと信じ込ませてゆくプロセス。
話の大筋として、殺人事件が起こった場所と日と殺された人を表にしておく。
なお、原作で事件が起こっているのは 1935 年、ドラマでは 1933 年である。
| 場所 | 被害者 | 日(原作) | 日 (BBC 2018) |
A | Andover | Alice Asher | 6/21(金) | 3/31 |
B | Bexhill | Betty (Elizabeth) Bernard | 7/25(木)[予告日], 7/24(水)[実際の殺害日] | 4/4 |
C | Churston | Sir Carmichael Clarke | 8/30(金) | 4/10 |
D | Doncaster | George Earlsfield (原作), Benny Grew (BBC 2018 では間違えて殺された),
Dexter Dooley (BBC 2018 におけるターゲット) | 9/11(水) | ? |
E | Embsay (BBC 2018 のみ) | Ernie Edwards (BBC 2018 のみ) | - | ? |
BBC テレビドラマ版の特徴
BBC テレビドラマ 2018 年版 (Sarah Phelps 脚本) の特徴は、『無実はさいなむ』
もそうだったが、何しろ暗い。原作は Poirot と Hastings の軽妙なやり取りもあるのだが、それもなく(そもそも Hastings が全く出てこない)、
むしろ Poirot の過去の回想シーンにおける暗い記憶を交えながら、心理劇としての側面が強調されている。
以下、ドラマ版の特徴をいくつか挙げてゆく。
- Poirot はかなり高齢になっており、Hastings もおらず、警察で気心の知れた Japp 警部も引退している上、
Japp は番組冒頭で心臓発作で死んでしまう。
原作では Poirot は Hastings や関係者との対話を進めつつ推理を進めてゆくのだが、それがないので、
ドラマでは、なぜか突然 Poirot が真犯人を当てる。かろうじてある手がかりは、
Poirot が以前から知っていた人物であるにちがいないという Poirot の推測くらいである。
つまり、このドラマでは推理の部分はほぼ放棄していて、
Poirot や Cust の心理的葛藤に重点が置かれている。しかし、こういう手法は、もともと心理劇である
『無実はさいなむ』には合っていた気がするが、
『ABC 殺人事件』ではちょっと違和感がある。
- Poirot のベルギーにおける過去が出てくる。原作では
警察官だったはず。ドラマ中では、自称は警察官だが、そんな記録はないと Crome 警部に言われる。
第3話になって、Poirot は、ベルギーでは教会の神父(ベルギーだからカトリックだと思う)で、
第一次大戦の 1914 年にドイツ軍に教会を焼き払われ、イギリスに亡命してきたという過去が描かれる。
口癖の mes enfants という呼びかけは、神父時代に信者に対して用いていたものだった。
- ドラマでは最初から Alexander Bonaparte Cust が登場して、彼の行動や心の状態を描くことがドラマの一つの軸になっている。
Cust は真犯人の Franklin Clarke が犯人役に仕立てる人物である。Cust が原作で登場するのは、C の事件が終わった後である。
Cust は原作では Andover 警察署で自首するのに対して、ドラマでは警察から逃げ回って、下宿の近くで追い詰められて逮捕される。
- 原作では 6 月から月1回くらいのペースで事件が起こるのに対して、ドラマは 3 月末からの数週間で立て続けに起こる。
ドラマで 4 月にしたのは April fool と絡ませたかったからのようだ。一方で、原作では Bexhill と Churston が
夏の盛りになっているのには理由がある。どちらもイングランド南岸なので、その時期だと夏休みでよそ者の行楽客が
たくさんいて、よそ者がいても目立たないという設定になっている。Doncaster が 9 月 11 日になっているのも
実際に St. Leger 競馬が行われた日に合わせてある。
ドラマで事件のペースが速いのは Cust の行動にリアリティを持たせようとしているのかもしれない。
売れないストッキング売りを何ヶ月も続けるというのは変といえば変である。
- 原作では D の Doncaster における殺人は、いい加減になされる(それも真犯人の手がかりの一つ)。これに対し、
ドラマでは、犯人はきちんと ABCDE の標的を決めている。
Doncaster で、犯人は腹話術師の Dexter Dooley を狙っていたのだが、間違ってコメディアンの Benny Grew を殺す。
さらに、原作にはない E の Embsay においてまで殺人を行っていて、
Earnie Edwards が殺される。
- 昨今の西欧における外国人排斥の傾向を批判するようなシーンが挟まれている。
外国人排斥のポスターが貼られていて、Poirot がそれを破るシーンが最後のほうにある。
Poirot がベルギー人であることを理由にして敵視される場面が出てくる。
とくに警察の Crome 警部は、Poirot がベルギー人であることを問題視して Poirot を嫌っている。
最後には Poirot の手腕を認めざるを得なくなるのだが。
イギリスファシスト連合のマークも出てくる。
ドラマの設定が 1933 年になっているのは、イギリスファシスト連合が影響力を持ち始めた年にしたかったということらしい。
- Harry Potter を連想させることが2つ。
(1) Crome 警部を演じている
Rupert Grint は、Harry Potter シリーズでは Harry の親友の Ron Weasley を演じていた。
(2) Sir Carmichael Clarke の夫人の名前が Hermione で、Harry の女友達の名前と同じ。
原作では Lady Charlotte Clarke なので、Harry Potter に合わせて名前を変えたのだと思う。
ドラマについて解説してある web pages: