『異人館村殺人事件』は前にも読んだことがあるのだが、 今回読んだバージョンの特徴としては、最初のところで、本作品のメイントリックは『占星術殺人事件』から取られたものであることが 明記されていることだ。たまたまなぜか私は『占星術殺人事件』も持っていたので、こちらも読んでみた。
このようにトリックのアイディアの元を明記するのは推理小説では異例のことである。 Wikipedia によると、島田氏が抗議したためこのようなことになったものだそうだ。 この件に関する私の考えとほぼ同じものを ネット上で見つけた(「三軒茶屋」氏)。アイディア自体を著作物というのには無理がある。 『異人館村殺人事件』では確かにトリックを借用しているが、筋書きは全く変えてあるので、著作権法違反にはならないはずだ。 翻って、科学の世界ではどうなっているかと考えると、科学というのはそもそも他の多くの人のアイディアの上に 自分のアイディアを少し乗せて新しい研究ということにするものなので、他の人のアイディアを使ってはいけないということにするとそもそも研究ができない。 ただし、その代わり、どういう他の人のアイディアを使ったかを引用するということになっている。これに準じれば、「三軒茶屋」氏が 書いているとおり、トリックの元があるならその旨を巻末に書いておけば良い、ということになる。 そのほうがアイディアの系譜も分かって面白いし、私のようにそのおかげでその元となる小説を読んでみようという人も出てきて、 トリックを借用されたほうの宣伝にもなる。学問の世界のような引用の習慣が小説の世界にも広がると良いと思う。
さて、それはともかく、このメイントリックは死体の数をひとつ多く見せる方法ということで、 言われてみればなるほどというパズルのような仕掛けである。私は、先に『異人館村殺人事件』を読んでから 『占星術殺人事件』を読んだので、『占星術殺人事件』を読んだときは犯人の見当をつけることは易しかった。 しかし、かといって、自信を持って真犯人がわかったかというとそうでもない。最後の種明かしを読まないことには、 真犯人に連続殺人をするほどの動機があるとはとても思えなかったからだ。 『占星術殺人事件』には、読者への挑戦のページが設けられていて、その段階では、メイントリックを知っていると真犯人の見当は付くのだが、 動機が最後まで伏せられていてよくわからない上、別のトリックを使った第1、第2の殺人を解くのはまた難しいので、 結局私には真犯人が確信できなかった。
『異人館村殺人事件』と『占星術殺人事件』にはもう一つ共通のトリックがある。それは、密室で、 被害者を眠らせたまま天窓までベットを吊り上げておいて殺害するというトリックである。 ネット情報だと(原作未確認)、このトリックのネタ元はロナルド・ノックスの『密室の行者』だそうだ。 『占星術殺人事件』においてはミスリードで実際には使われなかったトリック(犯人が誤った方向に推理を誘導をしたもの) として用いられており、『異人館村殺人事件』では実際に使われたトリックとして用いられている。
『占星術殺人事件』は長編で、その中にトリックやら占星術の話やら、まるで本筋と関係ない挿話やら いろいろなエピソードが詰め込まれていて、そこが魅力であり、犯人をわからなくしている目くらましにもなっている。 御手洗潔がホームズ役、石岡和己がワトソン役の探偵小説なのだが、ホームズをけなしているところもある。 御手洗のホームズ評は「あのホラ吹きで、無教養で、コカイン中毒の妄想で、現実と幻想の区別がつかなくなってる愛敬の かたまりみたいなイギリス人か」(p.225) である。著者が西洋嫌いである可能性もあるけれど、占星術にやたら詳しい (のかどうか私は占星術を良く知らないので本当は判断できないが)ところからみてもともと西洋好きだったが、 いろいろ勉強するうちにだんだん嫌いになったのか。ともかくこうしたエピソードが満載で絢爛豪華である。
『占星術殺人事件』は、今では名作とされているが、 最初は評判が悪かったという著者の述懐がある。 当時は社会派ミステリー全盛で、本作のような猟奇的な色が濃く、大がかりなトリックを用いたものは、 文壇からは批判されたそうだ。
『占星術殺人事件』を読んでいてちょっと困ることは、御手洗と石岡とのダイアローグの場面で、どちらの台詞か よくわからなくなることがしばしばあることである。戯曲ふうに御手洗:、石岡:とでも書いてあれば良いのだが、 小説ではそうもいかないし。まあどっちが喋った言葉であっても話の進行は追えるわけなので、たいして変わらないといえば 変わらないことではある。