三谷幸喜脚本によるテレビドラマ版 を見たのをきっかけにして読んでみた。三谷脚本版クリスティは『オリエント急行殺人事件』『黒井戸殺し(アクロイド殺し)』に続いて3作目だそうである。 私は『オリエント急行殺人事件』は見たが、『黒井戸殺し』は見ていない。いずれもポアロを勝呂武尊として 野村萬斎が演じ、舞台を日本の昭和時代に置き換えて翻案したものである。三谷幸喜らしく喜劇の味わいも加えてある。
この小説のポイントは2つある。
- 『オリエント急行殺人事件』 と共通点のある構図。いずれも周囲の人々から憎まれている人が殺される。だから容疑者が多数いる。 そして、周囲の人々はお互いをかばいあうような証言をするものだから、真相にたどり着くのが恐ろしく困難である。 そんな中、ポアロは容疑者を尋問していくことで、証言のわずかな綻びを手がかりに真相にたどり着く。 この解きほぐしの展開が、クリスティの真骨頂である。 『オリエント急行』との大きな違いは、『オリエント急行』では犯人が「みんな」であるのに対して、 『死との約束』では一人であるところだ。
- 殺人事件もさることながら、サディストとも言えるボイントン夫人(三谷版では本堂夫人) に抑えつけられた一家の心理を描くのも大きなテーマになっている。心理描写はやはり小説の方が映像より良いなという感じがする。 なにぶん異常な心理状態を描かないといけないので、普通の映像ではなかなか難しいところがある。ところで、サディスティックパーソナリティ障害は、 Wikipedia にも載っているが、それによると、余り研究が進んでいないので DSM(精神障害の診断と統計マニュアル)-IV からは除外されているそうだ。
上の 1 の点に関して補足をいくつか:
- 1928 年以降の中東旅行をきっかけに書かれた中近東シリーズの一つである。長編としては『メソポタミアの殺人』 『ナイルに死す』『死との約束』がある。
- 『オリエント急行』が 1934 年、『死との約束』が 1938 年の作品ということで比較的近く、 いずれも中東が一つの舞台になっている。『オリエント急行』の場合は、列車の出発地がアレッポだというだけだが、 『死との約束』では、中東の観光地であるエルサレムとペトラが舞台である。
- 『オリエント急行』と『死との約束』の共通点としては、やや人種差別的なところもある。 『オリエント急行』には中東の人々は出てこないし、『死との約束』では、アラブ人は召使と通訳くらいで、 あまり良く書かれていない。
- 現在のイスラエルとパレスチナは、当時はイギリス委任統治領パレスチナ、 現在のヨルダンは、当時はイギリス委任統治領トランスヨルダンだった。 つまりはイギリスの支配下にあったので、イギリス人が気楽に観光に出かけている。
クリスティと言えば、文学や古典からの引用があるのが特徴のひとつだけど、なかなか翻訳で読むとよくわからない。 わかるのは、エピローグで明示的に引用されているシェイクスピアの『ハムレット』と『シンベリン』だけである。 といって、原文に当たるほど暇ではないので、ネット上から探していたところ、 引用チェックをしている ブログがあった。その中の一部を含めて、そのほかのことも足してある程度の引用のチェックをしてみる。 こうした引用は本当は訳注を付けてほしいところである。パレスチナが舞台なので、聖書からの引用が多い。
- 題名:Appointment with Death
- この題名は、Somerset Maugham の戯曲『Sheppey』(1933) の中にある The Appointment in Samarra という挿話が元になっているものと考えられる。 その挿話の全文がここにある。その元はタルムードの中の物語だそうで、さらには Maugham の挿話に刺激されて、 1934 年に John O'Hara が Appointment in Samara という小説の題名で使っている(ただし、小説の内容と挿話とは直接の関係はない)。この Maugham の挿話は、物事の皮肉な流れで死神と会ってしまうというような話なので、 この『死との約束』のストーリーに通じるものがある。そう考えると、題名和訳は『死神との邂逅』みたいな感じの方が良いかもしれない。
- 第一部第十二章:新約聖書の中の「荒野の誘惑」
- 小説では、ペトラの赤い岩山の頂上に上ったジェラール博士がサラに向かって感想を述べている中で引用している。
- この高橋訳では「なんじもし降りてわれを崇めるならば、われはすべてをなんじに与えん」
- Wikisource によるルカによる福音書(口語訳)4:7では、 「それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」
- これは、悪魔がイエスを誘惑する場面における悪魔の言葉である。
- 第一部第十二章:大祭司カヤパ(カイアファ)のことば
- 高橋訳では「多くの人のために一人が死ぬということなら、われわれにとっては好都合ですがね」とジェラール博士が 言ったことになっており、引用であることがはっきりしない。
- Wikisource によるヨハネによる福音書(口語訳)11:50では、 「ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」 となっている。
- この犠牲になる一人は聖書の中ではイエスのことだが、小説のコンテクストではボイントン夫人のことである。
- この引用は、第二部第十五章で、サラの言葉の中で再び出てくる。第一部第十二章のが引用と分かれば、さらに強く印象付けられるはずである。
- 第一部第十二章:旧約聖書の伝道の書(コヘレトの言葉)からの引用
- 高橋訳では「わたくしはさかのぼって、白日の下で行われた迫害について考察した。(以下略)」
- 新共同訳コヘレトの言葉 04:01~04 では、 「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。(以下略)」
- 小説のコンテクストでは、ここの迫害を受けた人(虐げられた人)はボイントン家の子どもたちで、 圧制者(虐げる者)はボイントン夫人を暗示している。
- エピローグ:シェイクスピアの『ハムレット』より、オフィーリアの詩
- 高橋訳では「いずれを君が恋人と(以下略)」と引用されている。これは、 森鴎外訳とのこと。
- エピローグの最後:シェイクスピアの『シンベリン』より、葬送歌 (Act IV, Scene 2)
- この高橋訳では
太陽の熱も恐れず、
きびしい冬の嵐にもひるまず、
畢生の業を成し遂げた汝は、
家庭を失いて、その報いを得たり… - Jennifer Forsyth 編の modern version では
Fear no more the heat o'th' sun,
Nor the furious winter's rages;
Thou thy worldly task hast done,
Home art gone, and ta'en thy wages. - Wikipedia によると、 これは『シンベリン』の中でも最も知られた葬送歌だそうである。ジニーが、実の母親のボイントン夫人を悼んで小説の最後に歌うのに 相応しい歌である。
- しかし、ここで、高橋訳が正しいのかどうかが疑問である。私はシェイクスピアの古い英語はよくわからないのだが、 たとえばここにある訳だと、 3~4行目は「この世の務めを成し終えた汝は/故郷へと戻り 報酬を受け取るのだ」であり、死者が帰るべきところに帰ると言っている。 Home art gone は、現代英語なら You have gone home となるところの転置ととらえるべきだろうから、「故郷へと戻り」の方が正しそうである。 それでこそ葬送の歌である。
三谷版の特徴は、前述のように半分喜劇にしてあることだ。ボイントン夫人(本堂夫人)は、現実離れしている分、 大袈裟に描くと喜劇的存在になる。原作では、喜劇にならないよう表現は抑えてあるが、三谷版は意図的に半分喜劇にしている。 その分、三谷版では、原作のポイントであった暗い心理描写が薄まっている。 以下、三谷版と原作の異同のポイントをまとめておく。
- 原作がエルサレムが舞台なのに対して、三谷版は熊野を舞台に置き換えてある。
- 原作では、ポアロは前半(第一部)にはほとんど出てこないのに対して、三谷版の勝呂武尊は、原作のポアロ役だけでなくて、 原作のテオドール・ジェラール役も兼ねていて、ずっと出番があることになっている。テオドール・ジェラールは精神医学の権威で、 原作では異常心理の描写を強調する役割を担っている。たとえば、第一部第十二章ではサディスティックな人格の解説をしている。 三谷版では、勝呂は探偵なのでさすがにそこまではできていない。
- 原作では、ボイントン夫人が死んでいるのを見つけるのは召使で、サラは医師としてそれを確認するのだが、 三谷版では、本堂夫人が死んでいるのを見つけるのは、沙羅自身である。さすがに召使がたくさんいるのは日本風ではないという 判断だろう。テレビドラマでは召使は出てこない。
- 三谷版では、天狗や八咫烏が登場するのだが、さすがにそれに相当するものは原作には出てこない。 まず、三谷版では、犯人の上杉代議士は天狗の装束を着て本堂夫人を殺害するのだが、 原作ではウエストホルム卿夫人はアラブ人の召使の服を着てボイントン夫人を殺害する。 やはり召使は人種差別的でもあり日本版にふさわしくないということで天狗を出してきたのだろう。 次に、三谷版では、飛鳥の言うことが頼りなくて証言が信用できないことを示すために勝呂が八咫烏を持ち出すのだが、 原作(第二部第五章)では、ミス・ピアスの言うことが頼りないことを示すのにポアロが使ったのは「くしゃみ」である。 ここは三谷氏が喜劇性を出したということだろう。
- 原作では、ポアロが犯人とその犯行動機を指摘する根拠がやや弱い。そこが、この作品が『オリエント急行』ほど 有名ではない原因かもしれない。それでだと思うが、三谷版では、勝呂が犯人の上杉代議士の過去の犯罪歴を あらかじめ知っていることにして、その根拠を強化している。しかし、そのために、上杉の過去を知っている人が 同じ場所に二人もいる(勝呂と本堂夫人)というほとんど起こりそうにない状況設定になってしまった。
- 原作では、犯人が使った注射器と毒はテオドール・ジェラールが持っていたものだが、三谷版では、 テオドール・ジェラール相当の人が出てこないので、若い医師の沙羅が持っていたものになっている。