これまで仏教の本はいろいろ読んでみたけど、大乗仏教全体を俯瞰的に捉えたものはなかなかなかった。
本書は、大乗仏教全体を見渡す感じで書かれており、大乗仏教の思想がわかりやすかった。
とくに、最後の方で、仏教がヒンドゥー教化することで、インドでは仏教が埋没してしまったという解説は
なるほどと思った。日本仏教になぜあんなにインドの神様がたくさん登場するのか、なぜ仏教思想と伝統的インド思想が
すぐにぐちゃぐちゃに混ざって大混乱してしまうのかがわかった。
難しげな思想をばっさり斬っているところはさすがである。たとえば、
第二講の「般若経」で、龍樹の「空」概念を説明しているところがあるが、結局のところ
「レトリカルに説得力のあるかたちで、本来は違うものを「同じ」だと言っただけなのです。」とにべもない。
第二講の「般若経」の中で、釈迦の存在論が説明される。
これってマッハの感性的要素一元論
に似ていると思いながら興味深く読んだ。感覚の方が実在していて、たとえば「石」はそれらを組み合わせた架空のものだという
主張はマッハっぽいのである。
サマリー
第一講 「釈迦の仏教」から大乗仏教へ
「釈迦の仏教」と大乗仏教
- 「釈迦の仏教」と上座部仏教と大乗仏教を区別して説明する。
- 「釈迦の仏教」では、出家修行を最重要視する。修行に励んで煩悩を消し去ることでしか、人は真の安楽に達することができない。
出家者はサンガに所属し、生きていくのに必要なものは布施に頼る。
- 「釈迦の仏教」では、仏道修行によって輪廻を止め、涅槃に至ることを目標とする。
- 「釈迦の仏教」では、在家信者の善行は、世俗的な果報にしかつながらない。
- 大乗仏教では、外部に超越者や不思議なパワーが存在するとして、それに頼って涅槃に至ることを目標にする。
そのためには、仏たちを敬い、お経を唱え、善行を積んでゆけばよい。
大乗仏教の成立
- 釈迦の死後、教えは口伝で広がった。その後数百年経ってから経典が作られ始めた。
- 紀元前3世紀中ごろ、アショーカ王の時代に、仏教がインド全体に広まった。仏教が多様化し、いろいろな選択肢ができたのがその理由だろう。
このころ部派仏教が成立する。釈迦の教えに対する解釈が違っても、集会や会議に参加していれば「破僧」ではないという取り決めができる。
- 紀元前後、大乗仏教が部派仏教のどこかから生まれる。出家者だけではなく在家者にも悟りの可能性を出そうという動きが出てきたものと考えられる。
大乗仏教の考え方
- 「釈迦の仏教」では、悟りを開いた者は阿羅漢になる。これに対して、大乗仏教では、悟りを開いた者はブッダになることを目指す。
「釈迦の仏教」では、ブッダは現世に一人しかおらず、次のブッダは数十億年後の弥勒である。
大乗仏教では、この世界に何人ものブッダがいるという考えになる。
- 大乗仏教では、お釈迦様を次のように考える。お釈迦様はもともと凡夫で輪廻を繰り返してきた。あるときお釈迦様は一人のブッダと出会い、誓願を立てる。
そこで、ブッダはお釈迦様に授記を与える。お釈迦様は菩薩になり、輪廻を繰り返して修行を続けて、やがてブッダになったとする。
- さらに、話は変わっていって、お釈迦様は過去に何人ものブッダに会ったことになる。
- 大乗仏教では、輪廻の中で善行を積み重ねることがブッダになるための修行になる。善行とは、利他の行動である。
- やがて、ブッダに会って崇拝することが善行であるという考え方が出てくる。
- しかし、ブッダに実際会うことは出来ないので、どうやって会えるのかに関して様々なアイディアが出てくる。
第二講 般若経―世界は「空」である
般若経の特徴
- 般若経系統の経典は数多い。
- 般若経の特徴は、すべての人は過去においてすべてブッダに会って誓いを立てている、としていることである。
したがって、私たちは皆菩薩である。それで、善行を積めばブッダになれるとする。
- 「釈迦の仏教」においては、善行は悟りを開くのに役に立たない。「釈迦の仏教」においては、
修行によって煩悩を断ち切り輪廻を止めるのが目標になる。「釈迦の仏教」においては、善行も業のひとつで、
それによって「天」に生まれ変わるかもしれないが、輪廻を断ち切ることにはならない。
空
- 大乗仏教では、業のエネルギーを輪廻と別の方向に向けることを「回向」という。
- 般若経では、「空」という隠れたシステムがあって、それによって善行を悟りに結び付けられるという。
- 「釈迦の仏教」における「空」は、われわれが存在すると思っていると思っているものは本当は存在しなくて、
五蘊十八界といった構成要素のみが存在し、その組み合わせが世界であると考えることである。
- 般若経では、五蘊十八界は否定され、超越的な法則を「空」と呼んでいる。
六波羅蜜
- 般若経では、回向に向かうための修行として、布施・自戒・忍辱・精進・禅定・智慧の6つを挙げている(六波羅蜜)。
中でも「空」を理解する智慧を身につけることが重要である。「釈迦の仏教」よりはだいぶんハードルが下がっている。
- 般若経では、上の6つのほか、「般若経を讃えること」も重要である。写経も推奨されている。
- 『般若心経』は呪文である。般若経は、仏教に神秘的な要素を加えることで、「救い」を導入した。
第三講 法華経―なぜ「諸経の王」なのか
法華経の歴史
- 法華経は、般若経の 50~100 年後に成立した。
- 中国では大乗仏教が採用された。とくに、中国天台宗の開祖の智顗が『法華経』を最高位の経典であるとした。
- 日本では、最澄が『法華経』をあらゆる仏教の教えを統合するものとして受け入れた。そこで、日本仏教は
『法華経』に大きな影響を受けた。
一仏乗
- 法華経は、ベースの部分は般若経を引き継いでいる。われわれは菩薩で、善行を積めばブッダになれる。
- 法華経では、すべての人々は平等にブッダになれるとした。これを「一仏乗」という。般若経は「三乗思想」という考え方だった。
「声聞乗」(お釈迦様の教えを聞いて阿羅漢をめざす)、「独覚(縁覚)乗」(ひとりで修行して覚)、「菩薩乗」
(善行を積んでブッダになる)の3つがあって、「菩薩乗」が最もすぐれているとしていた。
- 一仏乗と「釈迦の仏教」の折り合いをつけるために、法華経では、「初転法輪」は方便であって、真実は一仏乗だと説いている。
- 一仏乗の考え方をわかりやすく説明するために、法華経には「三車火宅の喩」が書かれている。
善行
- 法華経の前半部では「仏塔供養」が善行として重視されている。
- 法華経の後半部では法華経自体を崇め奉ることが功徳であるとされている。法華経を崇めると現世利益まであるという話になっている。
久遠実成
- 法華経では、お釈迦様は永遠の過去から悟りを開いたブッダであり、現在も私たちの周りにいると考える。
これが「久遠実成」という考え方である。
- 法華経の前半では、お釈迦様は死んだことになっているが、後半になって久遠実成が加えられている。
- 江戸時代の富永仲基は、思想や宗教では考え方が上乗せされていくことを見出して「加上の説」と言った。
第四講 浄土教―阿弥陀と極楽の誕生
浄土教の成立
- 基本経典は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つ(浄土三部経)。
- 『無量寿経』と『阿弥陀経』は法華経とほぼ同時代の成立。『観無量寿経』はのちの時代の中国での創作と見られる。
- 浄土教のベースになっていると考えられるのは『阿閦仏国経(あしゅくぶっこくきょう)』
- 日本の浄土教のルーツは、円仁、空也、源信だが、人々に広めたのは法然と親鸞。
- 日本では、平安末期に末法思想が流行し、苦しみのない別世界に逃げる道を与えた浄土教が広がった。
阿弥陀信仰
- 浄土教は、一言で言えば、阿弥陀仏のいる極楽浄土へ往生することを説く。そのためには南無阿弥陀仏を唱えれば良いとする。
- 浄土教では、私たちはまだ菩薩にはなっておらず、これからブッダと出会って菩薩になると考える。
浄土教は、多くの世界があるとし、それらにはブッダがいる「仏国土」とそうでない世界があるとした。
一つの仏国土には一人のブッダしかいない。数ある仏国土のうち阿弥陀仏がいる極楽浄土が最高であるとした。
極楽浄土に行けば、ほかの仏国土にも自由に行けるので、簡単に多くのブッダを崇めることができて、スピーディーに成仏できる。
- 浄土教においては、お釈迦様は人々に阿弥陀仏のすばらしさを伝える役割のブッダであり、信仰対象は阿弥陀仏である。
- 浄土教においては、南無阿弥陀仏と心から念じれば、阿弥陀様が浄土に連れて行ってくれる(他力)。
救済としての極楽浄土
- 浄土宗・浄土真宗が大衆化するにつれ、次第に、ブッダになることよりも極楽浄土に往生すること自体が目標となっていく。
悟りよりも救済がゴールになる。
- もともとの浄土教では、極楽でブッダになれば別の世界に生まれ変わることになっていた。なぜなら、ひとつの世界には
ブッダは一人しかいないから。
- 浄土宗・浄土真宗は、修行をしたり善行を積んだりする余裕がない人々の救いとなった。
- 一方で、極楽浄土への往生を信じれば死ぬのが怖くなくなるので、一向一揆が起こった。
第五講 華厳経・密教―宇宙を具現するブッダ
一即多・多即一
- 『華厳経』は、紀元3世紀ころ、中央アジアで成立。浩瀚だが、そのうち基になっている部分は
「十地品(じゅうじぼん)」と「入法界品(にゅうほっかいぼん)」。
- 華厳経の魅力は、壮大で宇宙的な世界観にある。
- 華厳経は、多世界宇宙論である。他の世界にいるブッダは我々の世界に映像を送ってくれる。
宇宙にはたくさんのブッダがいるが、それらは毘盧遮那仏という一人のブッダにすべてつながっている。
したがって、一人のブッダを供養することと無限のブッダを供養することは同じことである。
こうした世界観を「一即多・多即一」という。
鎮護国家
- 華厳経には悟りへのルートが示されていない。そこが救いの宗教としては弱い。
- 奈良時代には、華厳経が中央集権思想に最もよく合っているということで、導入された。
が、平安時代以降は、ほかの学派仏教とともに衰退した。
密教
- 密教の最重要仏の大日如来は毘盧遮那仏のことである。
- 密教の最大の特徴は、教えを一般には公開しないことである。
- 真言密教の根本経典は『大日経』と『金剛頂経』である。
- 密教の世界観は、華厳経の多世界宇宙を受け継いでおり、曼荼羅に象徴される。
- 密教では、「三密加持の行」を行って「即身成仏(生きたまま仏の境地に至ること)」を目指す。
三密は、身密(手で印を結ぶこと)・口密(真言を唱えること)・意密(宇宙の真理を心に思い描くこと)の三つで、
今いる私が仏であることに気付くことを目標にする。密教においては、われわれはすでにブッダのいる世界に生きているので、
自分がすでにブッダであることを自覚しさえすればよい。
- ブッダであることを自覚すれば、加持祈祷などの活動を行う。そこで、真言宗は、現世利益に傾いて行った。
第六講 大乗涅槃経・禅―私の中に仏がいる
仏教のヒンドゥー教化
- ヒンドゥー教には「梵我一如」という考え方がある。宇宙原理である梵と個体原理である我が一体となった時に悟りに至る
ということである。一方で、「釈迦の仏教」の悟りは、自我と言いう錯覚を打ち消して、煩悩を断ち切ることである。
- 華厳経や密教の宇宙観では、宇宙仏のいる世界にわれわれが住んでいるのだから、梵我一如と似ている。
- 大乗仏教の『涅槃経』(これは、「釈迦の仏教」の『涅槃経』とは別のもの)には「如来蔵思想」が現れる。
これは「私たちの中にブッダがいる」という思想で、梵我一如とほぼ変わらない。
- 大乗仏教の『涅槃経』では、お釈迦様の入滅は方便で、ブッダは無限の過去から無限の未来までずっと存在することになっている。
これを「如来常住」という。
- 大乗仏教の『涅槃経』では、「一切衆生悉有仏性」としている。日々の規律を守り、自分の中に仏性があることを自覚すれば、
この世のすべての生き物はブッダになれる。
- インドの考えでは、一切衆生の中に植物は入っていないが、中国に入ると、草木も入ることになり、
さらに日本では無機物でも成仏できることになる。これが「山川草木悉皆成仏」もしくは「草木国土悉皆成仏」である。
禅
- 禅は中国で生まれた。開祖は五世紀後半の達磨大師で、日本には栄西と道元が導入した。
- 禅の特徴は、特定の根本経典を持たず、実践を重視することである。
- 禅では、「一切衆生悉有仏性」の考えを受け継ぎ、仏性に気付くために「坐禅」を重視する。
- 曹洞宗は只管打坐。臨済宗は公案という禅問答を重視する。
- 道元は、釈迦の教えと如来蔵思想の間で悩み、大乗仏教を選ぶ。坐禅は、煩悩を消すための修行ではなく、
自分がブッダであることを確認する作業だと考えなおした。
- 禅は茶の湯などを通して日本文化に大きな影響を与えた。
第七講 大乗仏教のゆくえ
律
- 禅宗と「釈迦の仏教」は似ているようで違う。たとえば、禅宗では自給自足を認めるが、「釈迦の仏教」では認めない。
日本には律が入ってこなかったことが最大の原因である。
- 日本の仏教は、最初鎮護国家を目的としていたので、律がどうでもよかった。鑑真も授戒のために招聘された。
日本の仏教の特殊性の最大の原因は律が伝わらなかったことにある。
鈴木大拙
- 鈴木大拙は、大乗仏教全体の解説書として『大乗仏教概論』を英文で出版するが、欧米の仏教学者から批判された。
鈴木大拙の解説は、「梵我一如」や「草木国土悉皆成仏」の世界観に基づいていたので、ヒンドゥー教に近いという批判である。
- 鈴木大拙は、こうした批判を受けて、後に『日本的霊性』を書く。この本には国粋主義的な傾きがある。
こころ教
科学技術の発展を受けて、すべての宗教は「こころ教」に近づくであろう。
補講 今も揺れる大乗仏教の世界―『大乗起信論』をめぐって
大乗仏教の基本典籍だとされる『大乗起信論』は、1~2世紀頃に最初に書かれたと言われていた。
ところが、1918 年ころ、望月信亨が、南北朝時代の中国において創作されたものだという説を出した。
その後大論争になったものの未解決問題とされていた。ごく最近(2017 年)、大竹晋が、『大乗起信論』は、
南北朝時代に中国人が先行文献をパッチワークして作ったものだと証明した。
参考:
石井公成による大竹晋『大乗起信論成立問題の研究』の書評