漫画『約束のネバーランド』を読破した記念に、
その研究書を読んでみることにした。さすがにプロの文学者の読みは深い。イギリス文学や文化、ユダヤ教やキリスト教との
さまざまなつながりを指摘している。『約束のネバーランド』の著者がどの程度こういったことを意識して書いたのかは
わからないけれど、少なくとも無意識的なつながりはあったのだと思う。読みの深さに驚くとともに、
『約束のネバーランド』がこういった読みに耐える作品であったことに舌を巻く。
ジェンダーの考察も興味深い。主人公のエマや準主人公のノーマン、レイが従来のジェンダーステレオタイプを打破した
存在であるということである。しかし、そうはいっても、エマが少女でノーマンが少年でなければならなかったのではないか
ということも考えないといけないと思う。子供たちも鬼も救おうとする太陽のようなエマは、女でないといけないような気もする。
これは(社会から押し付けられた役割としての)ジェンダーの問題ではなく、(自然に備わった)母性の問題であるように思う。
ノーマンも途中で冷徹なボスにならないといけないので、これも父性を与えたくなる。
エマとノーマンの男女が逆ということも一応想定できる気はするのだが、
観音菩薩が女性的な姿で描かれるのと同じような感覚で、あるいは「元始、女性は太陽であった」とされたのと同じような感覚で、
エマが少女として描かれたのだと思う。
サマリー
第1章 イギリス文学・文化とのつながり
ここでは、イギリス文学や文化とのつながりがまとめられている。
- J.M. バリー『ピーター・パン』
- 『約束のネバーランド』のネバーランドは、『ピーター・パン」のネバーランドの反転。
- 『約束のネバーランド』のネバーランドは、大人になれない世界。『ピーター・パン』のネバーランドは、大人にならない世界。
- 『約束のネバーランド』のピーター・ラートリーも『ピーター・パン』のピーター・パンもネバーランドを守る。
ピーター・ラートリーは悪人だが、ピーター・パンは正義。
- 『約束のネバーランド』のジェイムズ・ラートリーも『ピーター・パン』のジェイムズ・フックもピーターに敵対。
- 『約束のネバーランド』のスミーも『ピーター・パン』のスミーもジェイムズの部下。
- ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』
- 『約束のネバーランド』のリトルバーニーはエマたちに恐ろしい現実を突きつける。『不思議の国のアリス』の白ウサギはアリスを不思議の国に誘う。
- 大人対子供という構図が作られる。大人たちは理不尽な存在である。『約束のネバーランド』では、イザベラ、ピーター・ラートリー、鬼たちが大人。
『不思議の国のアリス』では、不思議の国の住人が大人。
- 『約束のネバーランド』のレウウィス大公は帽子をかぶっている。『不思議の国のアリス』で帽子と言えば、帽子屋(Hatter)。
レウウィスも帽子屋も頭がおかしい(as mad as a hatter)。
- 『約束のネバーランド』のバイヨン卿の角はうさぎを連想させる。『不思議の国のアリス』でうさぎと言えば、三月ウサギ。
- 『約束のネバーランド』のレウウィスは、『不思議の国のアリス』の作者の Lewis Caroll と音が通じる。
- 『約束のネバーランド』のエマも、『不思議の国のアリス』のアリスも、大人の理不尽に対する反逆者。
- 『鏡の国のアリス』では、アリスは鏡から幻想の世界に入る。『約束のネバーランド』では、エマはいわば「水鏡」を通じて
鬼の頂点がいる異次元の世界に入る。
- 『約束のネバーランド』で鬼の王国に君臨するのは女王レグラヴァリマ。『鏡の国のアリス』でアリスが最後に勝利する相手は赤の女王。
- 19世紀のロマン派作家たち~バイヨン卿とバイロン卿~
- バイヨン卿の名前の由来は、ロマン派詩人バイロン卿だと思われる。ともに貴族社会の退廃を生きている。
- J・R・R・トールキン『指輪物語』~エルフと鬼~
- トールキンの「エルフ」と『約束のネバーランド』の鬼には多くの共通点がある。エルフは堕落するとオークという鬼になる。
『約束のネバーランド』の鬼も「野良落ち」すると、姿も心も歪む。
- トールキンの物語でも『約束のネバーランド』でも「強欲」が一つのテーマである。
『約束のネバーランド』では女王レグラヴァリマが強欲を体現する。
- 『指輪物語』でも『約束のネバーランド』でも、最後に「王の帰還」によって王国が立て直される。
- 鬼社会とイギリス社会~階級、キツネ狩り、女王~
- 鬼の社会はイギリス社会を連想させる。
- 鬼社会もイギリス社会も階級社会である。
- イギリスの上流階級では、かつてキツネ狩りが行われていた。『約束のネバーランド』の鬼の社会では、人間の子供狩りが行われる。
- 鬼の女王レグラヴァリマは、イギリスに君臨した女王であるエリザベス1世とメアリ―1世(Bloody Mary)を連想させる。
第2章 原初信仰とユダヤ・キリスト教
ここでは、ユダヤ教・キリスト教徒の関連が議論される。
- ユダヤ教とは何か~原初信仰とソンジュ~
- ソンジュらが信じている原初信仰とユダヤ教には多くの共通点がある。
- 原初信仰もユダヤ教も食物規定を持っている。とくに、肉を食べる際に血抜きが必要である点は共通。
- ユダヤ人男性もソンジュも長く伸ばしたもみあげが特徴。
- 原初信仰にも『旧約聖書』にも蛇を忌避する部分がある。
- 鬼の言語は、文字の感じなどヘブライ語を思わせる。神の名を呼ぶことを避けている点も似ている。
- ソンジュとムジカもユダヤ人も迫害され放浪する民。
- キリストの奇跡~ムジカ~
- ムジカはキリストを彷彿とさせる。どちらも血を分け与えることによって民を癒すことができる。
- モーセと約束の地~エマ~
- エマが子供たちを連れてグレイスフィールド農園を脱出するさまは、モーセの出エジプトと似ている。
さらに、モーセが約束の地へ戻れなかったように、エマは人間社会に戻るときに代償を払う。
- 『新約聖書』(新しい契約)が『旧約聖書』(古い契約)を上書きするように、鬼と人間の間の1000年前の約束が
鬼の「あの方」とエマの間の新しい約束によって上書きされる。
第3章 ジェンダー(男らしさ/女らしさ)
ここでは、ジェンダーの観点から『約束のネバーランド』を読み解く。
- 女らしさの神話と男の世界
- グレイスフィールド農園は、疑似的な近代的核家族である。母親である「ママ」とその補佐役の「シスター」らが
一切を切り盛りしている。近代的核家族では父親が仕事で外に行くことと対応して、大人の男はいない。
大人になるには、「ママ」になる以外に道はない。
- 鬼の世界は、ほとんど男ばかりである。
- 「ジェンダー」からの解放
- エマは女性だが中性的に描かれている。少年たちよりも運動神経は勝っているくらいだし、勇敢だ。
- 男らしさの神話
- ノーマンは、前半のグレイスフィールド農園にいる頃はひ弱な感じで描かれているのに対し、
後半でΛ農園から戻ってきたときは男らしく変化している。しかし、最後の方で、ノーマンは責任や罪深さに押しつぶされて、
エマに「助けて」と言う。ここで「男らしさからの神話」からの解放も行われる。
『約ネバ』と『わたしを離さないで』と『アイランド』
日本の漫画『約束のネバーランド』とイギリスの小説『わたしを離さないで』とアメリカの映画『アイランド』は
似たような状況を題材にしているが、ストーリーの流れ方が全く違っていて、お国柄が現れている。
『わたしを離さないで』のクローンたちは、運命に対して受動的である。これはイギリスの階級社会を反映しているかもしれない。
『アイランド』のクローンたちは、施設を脱出し、オリジナルを殺害する。これはアメリカの国是である生命と自由の追求の反映である。
『約束のネバーランド』の子供たちは、全員で脱出にこだわる。これは日本の集団を重視する国民性の反映だろう。