若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱

著者内田 樹・石川 康宏
シリーズ角川ソフィア文庫 251-1 / 角川文庫 18168
発行所角川学術出版
販売KADOKAWA
刊行2013/09/25(初版)
底本刊行かもがわ出版 2010/06
入手札幌の紀伊國屋書店札幌本店で購入
読了2021/01/28

だいぶん前に買ってあって放ってあったのを、「100分de名著」で『資本論』が取り上げられたのをきっかけに、 読んでみようかなと思って読んでみた。この本は、『資本論』の紹介ではなく、20歳代の若きマルクスの著作を 著者二人の往復書簡の形で気楽な感じで紹介しようという本である。 読んでいくと、マルクスの気宇壮大なところが分かると同時に、若さゆえの単純なところとか甘いところがわかる。 「100分de名著」の『資本論』などの紹介と比べてみると、自分で読むとしたら、 壮年期以降のを読んだ方が良いのかなと言う気がした。石川氏は、マルクスの思想形成の過程を読み取ってほしいみたいだけど、 そんなことをしている暇はなさそうである。とはいえ、手に入れやすい岩波文庫や光文社古典新訳文庫に ここで紹介されている20代のマルクスの著作が収録されているところを見ると、20代の著作の人気はけっこう高いようだ。

往復書簡になっているので、内田氏の書評家としての上手さが際立つ。石川氏が書いている部分は真面目だけど、 現代的な視点から見た時の批判が無いし、マルクスの論理が頭に入ってこない。

以下はサマリーである。

『共産党宣言』(1847-48年執筆)

今や共産党と言うと、オワコンということになっているわけで、今から見ればマルクスの若気の至りということに なるのかもしれないが、一度は読んでおきたいというやつだろう。

『共産党宣言』で石川氏が感服している点は、マルクス29歳、エンゲルス27歳という若さで、これだけ大きな問題に取り組んでいるという点である。 確かにすごい、が、いわゆる共産主義国家が破綻したのは、若さゆえ世の中の悪を十分に分析しきれていなかったためだと思う。 もちろん、もとよりここで書かれている通り、マルクスが夢見た共産主義社会においては国家権力は無いから、 その意味では共産主義国家というのは自己撞着のようなものだが。

内田氏は、最後の部分のレトリックがすごいという分析をしている。ただ、これだけ分析されると、かえって中身が薄い部分が あらわになってしまう。で、最後に「万国のプロレタリア団結せよ」が、「決起せよ」でも「打倒せよ」でもなく 「団結せよ」であるところが人間的ですばらしいという評価である。 インターネットでドイツ語版英語版(Samuel Moore 訳)日本語版(堺利彦・幸徳秋水訳)が見られるので、 それぞれのこの最後の文を掲げておく。

[独] Proletarier aller Länder, vereinigt euch!
[英] Working Men of All Countries, Unite!
[日] 萬國のプロレタリヤ團結せよ!

この有名な一文にもあるプロレタリアという語の解説も内田氏はしている。プロレタリアは、もともと古代ローマの 最下層階級の人々のことで、子供 = prole を生むだけが仕事の人々という意味だ。そこで、マルクス主義では、 自分の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者のことを指す。個人を指すのがプロレタリアで、 階級全体を指すのがプロレタリアートだ。

最後のひとつ前の文の日本語訳がけっこう問題である。

[独] Sie haben eine Welt zu gewinnen.
[英] They have a world to win.
[日(堺・幸徳)] そして彼らは、獲得すべき全世界をもつてゐる。
[日(大内・向坂)] かれらは世界を獲得しなければならない。

ドイツ語、英語ともに「世界」に不定冠詞が付いているところから見て、 「プロレタリアには勝ち取るべき世界がある」と訳すべきだろう。 内田氏は、大内・向坂訳を元に「世界を獲得する」ってなんだかわからないですね、と書いているけど、 これは訳が悪いというべきである。

『ユダヤ人問題によせて』(1843年執筆)

内田氏は、もともとユダヤ人問題が専門とのことで、ここでは石川氏の歯切れの悪い解説を上書きするようにして 鮮やかに解説している。ここでもそれに沿ってまとめる。まず、認めないといけないのは、マルクスも時代の子で、父親がユダヤ人であったにもかかわらず、 ユダヤ人差別の気持ちがあったということである。マルクスは、「ユダヤ人」という言葉で、自己利益の追求を優先させる 利己主義者を指している。これは怪しからん言葉の使い方だ、と批判しておかないと解説の歯切れが悪くなる。

石川氏は、それに対して、マルクスが言っているのは、ユダヤ人が金に汚いとすれば、そのような人間を生む市民社会を 改革したいということだとして、マルクスを擁護している。しかし、今から見れば不適切な言葉遣いであることは間違いないわけで、 こんなものを擁護するのは訳が分からない。

それは置いておくとして、マルクスの議論は以下の通り。当時のドイツでは、ユダヤ人は法律の上では解放されていた。 さらに、フランス革命などで、ヨーロッパの市民も政治的には解放されている。ところが、市民は利己的に なってしまった。ユダヤ人が利己主義的だとしても、それは市民社会の産物である。これは人間的には 解放されていない状態だとマルクスは見る。人間が真に解放された状態とは、公共的な生き方も大事にし、 公私がバランスよく統一されている状態で、それをマルクスは「類的存在」と呼んだ。

『ヘーゲル法哲学批判序説』(1843-44年執筆)

石川氏の解説に沿ってまとめておく。主に2つの内容がある。一つは、宗教は意味がないから捨てて、 地上の現実を考えましょうということ。で、その基礎となるヘーゲルの国法論をじっくり考察しようということである。 もう一つは、プロレタリアートがきちんとした理論を身に付ければ、人間の解放を達成することができるだろうということである。

内田氏はそれに対して、プロレタリアートのみを善玉として特別視するようなマルクスの論法を批判している。

石川氏はそれに対して、マルクスの革命論は暴力革命論ではないと注意している。このあたり、内田氏と石川氏の 議論がかみ合っているのかどうか不明である。

『経済学・哲学草稿』(1844年執筆)

この本は、マルクスが経済学の勉強を始めたときのノートで、その中で、後のマルクスにつながるものを探すのが読みどころ。 マルクスが、社会や国家の理解を経済に置かないといけないということを気付き始めたころの勉強ノートと論考である。 このころは、エンゲルスの方が先を行っていて、「国民経済学批判大綱」において、伝統経済学が「私的所有」の社会を前提としている ことを批判し、「私的所有」の社会の歴史的な性格を捉えなければいけないと論じている。マルクスはこれに大きく影響を受けている。

マルクスは、ここで「人間の疎外」「労働の疎外」の概念を展開している。石川氏によれば、 この「疎外」概念は、フォイエルバッハ哲学の影響で、マルクスの思索と分析が深まるにつれて、 具体的な分析成果に置き換えられていき、使用頻度が減る。内田氏によれば、「疎外」は、 悲惨な状況に置かれた労働者が一生懸命作った服を労働とは無縁の貴婦人が着ているという事態、 すなわち労働の成果が労働者から見て全く縁のないものになっているという現実の事態を指しているものである。 マルクス自身はブルジョアで労働者ではなく、そのような彼が悲惨な労働者を見て熱く語る倫理性こそが 読むべきことだそうだ。

この時点では、マルクスの考えはまだ抽象的で、人間と社会の解放が抽象的に夢見られている。 目指されているのは「コミューン主義」(筑摩書房版中山元訳、ふつうは共産主義と訳される)で、 これは「人間による人間のための人間的な本質の現実的な獲得」で、内田氏は、これがリンカーンの 「人民の人民による人民のための政治」と似ていることを指摘している。つまり、どちらも理想主義者だったのだ。 コミューン主義は言い方を変えれば、「公」と「私」の対立が解消された状態で、具体的にどのような形で 可能になるかは別として、ともかくマルクスはそのような理想を目指したのだった。

『ドイツ・イデオロギー』(1845-46年執筆)

この本の中心は、史的唯物論の基本的な解明ということだ。しかし、史的唯物論というのは、 社会の現実に基づき、社会の歴史的変遷を考えましょうということだから、その意味では今から見れば当たり前のことだ。 当時の観念論的な傾向の思想を批判しているということのようだが、そもそも日本には観念論の伝統があるわけではないので、ピンと来ない。 歴史の変化の原動力を神や自我などに求めるという方が、今から見れば頭がおかしいので、内田氏の書いている通り、 「青年ヘーゲル派がどんな思想を語っていたかというような話は、正直に言って、21世紀の日本の高校生にとっては 「どうだっていいこと」」であろう。そのうえで、内田氏は、本の中の名フレーズをいくつか紹介している。

あとは、石川氏が真面目にまとめていることの簡単なサマリー。『ドイツ・イデオロギー』のうち「I フォイエルバッハ」 が最もよくまとまっている。しかし、その部分も4つの草稿の寄せ集めなので、それを時系列順に並べ直して、 思想の形成過程を見ていかないといけない。以下に石川氏のまとめに沿ってまとめてみたが、もともとまとまりのないものであることがよくわかったので、 読もうという気が失せてしまった。