「100分de名著」としては珍しく、書物ではないもの(手紙)が題材となる。
もっとも著者の植木氏は角川ソフィア文庫から『日蓮の手紙』という本を出しているから、書物になっているとも言える。
日蓮生誕 800 年記念とのこと。
紹介されている日蓮の手紙を読むと、日蓮は弟子たちの心に真摯に向き合って、必死に励ましていることが分かる。
やはり、そのような人間的な魅力があればこそ、信者たちが現在まで連綿と繋がっているのだと分かる。
ちょっと気になる点もある。著者の書き方・言い方だと、『法華経』が釈迦の教えの原点に還るものであるとしているが、
大乗仏教は釈迦の教えとは異なるもの
のはずである。原始仏教では誰もが仏陀になることができると、放送では解説してある。でも、もともとの仏教では、
弥勒が来るまで仏陀は現れないはずではなかったか。著者は、『法華経』が好きすぎるようだ。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 人間・日蓮の実像
日蓮の人生
- 鎌倉幕府の政治は不安定で、災害も頻発した。そんな中、鎌倉新仏教が次々に興った。
- 日蓮は 1922(承久4)年、安房の漁師の家に生まれる。
- 12 歳で清澄寺に入り、16 歳で出家。その後、比叡山などで修学。
- 当時は末法の世。正しい教えが絶滅した時代。日本では 1052 年に末法に入ったと考えられた。
- 日蓮は、お釈迦様の原点に還ろうとして、『法華経』を拠り所とした。
- 1253(建長5)年、法華宗を立教開宗。
- 1260(文応元)年、『立正安国論』を北条時頼に送る。旅人と主人の問答という形を取る。
世の中が乱れているのは「正しい法」に基づいた政(まつりごと)が行われていないせいだと主張。
- 4度の法難に遭う。「松葉ケ谷の法難」「伊豆流罪」「小松原の法難」「龍口の法難」
- 「龍口の法難」。1268(文永5)年、蒙古の国書が届く。日蓮はふたたび『立正安国論』を幕府に提出する。
日蓮はあらぬデマを流され、死刑を言い渡される。しかし、どういうわけか首ははねられず、佐渡へ流罪となる。
- その後も日蓮は迫害を受け続ける。当時は、仏教界と幕府は癒着していた。
- 日蓮は、身延に入山して弟子たちの指導を続けた。
法華宗の教え
- 「南無妙法蓮華経」の「南無 namo, namas」は「敬礼する、帰依する」とった意味。
したがって、「南無妙法蓮華経」は「『法華経』に帰依します」という意味。
- 『法華経』では、あらゆる人の平等、あらゆる人が成仏できることが説かれている。
日蓮の手紙
- 我、身命を愛せず、ただ無常道を惜しむのみ。だから、日蓮は日本第一の法華経の行者であります。
[重病の南条兵衛七郎に宛てた手紙。死の床にある弟子に対して、あなたは日本一の法華経の行者の弟子だから
何を恐れることがあるかと励ましている。]
- 神々が助けに来ないのは、日蓮は「法華経の行者」ではないのでしょうか。もしそうなら、経文を検討して、
自分に悪いことが無かったかをよく考える必要があります。
[『開目抄』。佐渡に流されたときに書いた手紙。]
第2回 厳しい現実を生き抜く
日蓮は、悩める弟子たちへ具体的なアドバイスを行った。
富木常忍への手紙
- 富木常忍(とき じょうにん)が問注所から呼び出される。幕府から日蓮への圧力だった。
- 日蓮は、無用なことを言うな、尋ねられたこと以外は言うな、穏やかな言葉で話せ、喧嘩をするな、とアドバイス。
- 日蓮自身は、裁判の経験があった。それで、日蓮は、御成敗式目を勉強していた。
四条金吾への手紙
- 四条金吾は、武芸に優れ、医術の心得もあった。それで幕府の中枢にいた。
- あるとき、四条金吾は、暴力をふるったというデマを流され、日蓮の信徒を止めなければ所領を没収すると言われた。
- 日蓮は、四条金吾に代わって、主君に身の潔白を訴える上申書を代筆した。奉行人に媚びへつらわないこともアドバイスする。
- その後、主君が病に倒れた時、四条金吾は治療を行う。これをきっかけに、四条金吾は主君の信頼を取り戻す。しかし、
四条金吾は同僚の嫉妬を買ってしまう。
- 心配した日蓮は、くれぐれも用心するように具体的なアドバイスを添えた手紙を送る。
- さらに、心の財(たから)が第一ですとも書き送っている。
- 『法華経』では、一切の日常的な活動が仏の道に通じるとしている。そこで、日蓮は、宮仕えを『法華経』と思え、とも書き送っている。
池上兄弟への手紙
- 池上宗仲と宗長の兄弟がいた。二人は父親に日蓮の信仰を捨てるように迫られる。
- 宗仲の信仰は固かったので、父親から勘当された。弟は気弱になった。
- 日蓮は、揺れる宗長の気持ちを突いた手紙を書いた。宗長に自分で判断するように迫ったことになっている。
- やがて、父親は宗仲への勘当を解き、自身も日蓮に帰依した。
第3回 女性たちの心に寄り添う
原始仏教は男女平等だったが、次第に男性優位になっていった。日蓮は、平等思想の『法華経』に基づいて、
女性信者を受け入れた。
富木尼への手紙
- 富木(とき)尼は、富木常忍の後妻。
- 常忍が、母の死後、その遺骨を納めるために日蓮を訪れる。帰り際、日蓮は富木尼を励ます手紙を託す。
- 手紙では、夫のなすことは妻の力によるとして、ご主人を見れば妻が立派だということが分かるということを書く。
そうして、姑を看病した労をねぎらう。
比企大学三郎能本の妻、四条金吾の妻、千日尼への手紙~男女平等
- 封建時代には、女性は穢れているとされた。
- 比企大学三郎能本の妻から月経の時にお経を読んでよいかと質問され、日蓮は月経は穢れではないと書いた。月経は、単なる生理現象だと書いている。
- 四条金吾の妻に対しては、以下のように書き送っている。『法華経』には、この経を受持する女性は一切の男子にも抜きんでていると説かれている。
三十三歳の厄は、転じて三十三歳の幸いとなるでありましょう。
- 原始仏教では男女平等だったはずなのに、仏教にバラモン教の考え方が入ってきて男性優位になった。
日蓮は、『法華経』に基づいて、男も女も隔てなく覚りを開くことができると伝え続けた。
- 千日尼への手紙の中では、日蓮は『法華経』の中の龍女(蛇の化身の幼女)が即身成仏したという記述に注目し、
龍女が即身成仏できたのだから、すべての人は当然成仏できると書いている。
日妙尼への手紙
- 日蓮が佐渡に流されたとき、日妙尼は幼い娘を連れて鎌倉から佐渡まで訪ねてきた。
- 日蓮は、日妙尼への礼状の中で、あなたは日本第一の『法華経』の行人だから日妙聖人と名付ける、と書いている。
第4回 病や死と向き合う
弟子たちを励ます手紙の中に日蓮の死生観を読む。
病弱な富木尼への手紙
- 日蓮は、あなたは「法華経の行者」なのだから寿命を全うしないで死ぬはずがない、と励ます。
- 日蓮は、上のように書いて、富木尼の死の不安を除こうとした。
- 身体を養生し、くよくよ嘆かないようにと励ます。
- 富木尼は後妻だったので肩身が狭い思いをしているのではないかと、日蓮は慮っている。
- さらには、蒙古襲来に駆り出された兵士の残された妻子の苦しみを思うことで、自分の苦しみを乗り越えよ、と励ます。
南条時光の母の上野尼への手紙
- 上野尼は家族の不幸に立て続けに見舞われた。さらに、日蓮の信徒である時光に対して弾圧があり、時光の弟の五郎も亡くなった。
- 日蓮は、五郎を亡くした上野尼の嘆く気持ちを代弁する手紙を書く。
- 日蓮は、上野尼の気持ちを表現することで、気持ちを対象化させ、悲しみを乗り越えさせようとしたのだろう。
- さらに、南無妙法蓮華経と唱え続ければ、息子に会えると励ます手紙も書く。
- 日蓮は、浄土教に異を唱えていた。日蓮は、生きていても霊山浄土(りょうぜんじょうど)で死者たちと会えると考えた。霊山浄土は生命の本体がいる場所。
- 霊山浄土は命の本源。霊山浄土では死者と生者の別が無い。生きているときに霊山浄土と往復していれば、死ぬときもすっと入れる。
波木井実長への手紙
- 間もなく死を迎える日蓮が、身延の門弟の波木井実長(はぎり さねなが)に出した手紙。
- 世話になったことに対して礼を述べ、墓は身延にしてくれと頼んでいる。