以前にも読んだ。
今回は Suchet 版のテレビドラマを見ながらの再読。
当時としては新しかった旅客機の中での殺人事件。本書解説によれば、定期航空便が世界で初めて飛んだのが 1919 年で、
21 人乗りの航空機と言えば、本作品が刊行された 1935 年に就航した DC-3 がモデルになっているのではないかとのこと。しかし、
Wikipedia は、
本小説で使われている飛行機は
Handley Page H.P.42
という複葉機だと断定している。Suchet 版ドラマではたしかに DC-3 が使われているが、それは
H.P.42 が、撮影当時全く残っていなかったためだとのこと。
本作品は、トリックは単純と言えば単純で、短編向きとも思えるが、なかなか犯人がわからなくなるような仕掛けが施されている。
- 第一に、被害者は吹き矢で殺されたように見えるが、乗客・乗員の誰も殺害を目撃していない。
- 第二に、被害者のマダム・ジゼルは金貸しで、金を貸した人の秘密も握っていたようだから、帳簿やら書類やらを探せば、
犯人とその動機がわかりそうなものだが、そうはいかないようにしてある。マダム・ジゼルは、自分の身に何かあったら、
メイドに書類を焼却してしまうように頼んでおり、そのメイドはそれを忠実に実行してしまったからだ [pp.102-103]。
そこで、容疑者は後部座席にいた 11 人の乗客と 2 人のスチュワードだが、犯人の見当が全くつかないという状態で
捜査が始まる。ポイントになる手がかりは以下のように増えてゆく。
- 検死審問によって、殺害にアフリカの蛇の毒が使われていたことが明らかになる [pp.68-69]。
そこで、それを入手できそうな医師の Dr Bryant、推理小説家の Daniel Michael Clancy、考古学者の Dupont 父子らが疑われる [pp.120-121]。
- ポアロはジャップ警部に乗客の所持品リストを依頼する [pp.45-46, 58-59]。その結果作られた
所持品リスト [pp.125-130] は重要な手がかりなのだが、この時点ではどういう意味があるのかわからない。
最後に真相を明らかにする段になって、ポワロが注目した2つの品々が明かされる [pp.378,388]。
- ポアロは、被害者のメイドのエリーズに上手に口を割らせて、被害者の手帳を手に入れる [pp.156-163]。
メイドは、書類は全部焼却したが、手帳については何も言われていなかったので、どうしてよいかわからず、
持っていたのだった。これが被害者の顧客に関する手掛かりとなったように見せかけているが、結局のところは
たいして重要な証拠ではなかった。
- ポアロは、ユニヴァーサル航空のジュール・ペローを上手に脅して、隠していたことを喋らせる [pp.180-186]。
ペローは、アメリカ人らしき人から金を貰って、被害者のメイドが朝の便を予約してきたときに、その便は満員だと言って
昼の便にさせたことを白状した。
- ポアロは、ゲイルに近づいて、ホーバリ伯爵夫人を脅迫させたりする [pp.256-260, 281-289]。
その結果、ゲイルは南アフリカに行っていたことが分かる [p.319]。
- ポアロは、被害者の娘アン・モリソーがホーバリ伯爵夫人のメイドであったことを思い出す [pp.352-354]。
それから間もなく彼女が汽車の中で死んでいるのが発見された [pp.367-368]。アン・モリソーの周辺人物を探っていくことで、
犯人が決定的になる。マダム・ジゼル殺害の動機は、金貸し業に関することではなく、遺産だったのだ。
ポアロの方法論の一つが書かれているところがあって興味深い。以下、ジェーン、ポアロ、ジェーン、ポアロの
発言で、日本語は加島訳を私が前後関係なしで読めるように少し改変したものである [p.263]。
‘I suppose you've got very clever ways of finding out things?’
‘There is only one really simple way.’
‘What is that?’
‘To let people tell you.’
「あなたはものごとを明らかにするのに、何かとても賢明な方法を持ってらっしゃるのね?」
「ただ一つ簡単なやり方があるだけですよ。」
「それ、なんですの?」
「人々に話させること。」
ポアロは聞き上手なのだ。ポアロは、本作品でもなだめたり脅したりして、巧みに関係者から真相を聞き出してゆく。
文化に関することもいくつか見ておく。
- 殺害に使われた毒は、南アフリカの蛇
Dispholidus typus の毒だと書かれている [pp.68-69]。小説中では、きわめて即効性の猛毒のように書かれているが、
Wikipedia
によれば、毒の回りは非常に遅いとのことである。英語名は boomslang で、これも
Wikipedia
によれば、オランダ語で「木の蛇 (tree snake)」の意味で、樹上性であることから来ているそうだ。
- Dr Bryant のことを Big bug in Harley Street(ハーレイ街の大物)と言っている [p.114]。
この
ハーレイ街というのは名医が集まる街として有名らしい。
- ポアロがフランス警察のジローを批判するのに red herring という表現を用いている [p.138]。これは
Wikipedia にも載っている表現で、間違った目標というような意味のようだ。論客の William Cobbett が 19 世紀初頭に用いて
有名になった言葉らしい。
- 宗教団体・慈善団体の the Little Sisters of the Poor(貧しい姉妹会)[p.143] は
今でもあるカトリックの団体で、高齢の貧者を援助する事業を行っているようである。
Suchet テレビドラマ版の特徴と筋書き
Suchet 版は第32話「雲をつかむ死」(脚本 William Humble)。
登場人物
テレビドラマは、約 100 分に収めるためにだいぶん登場人物を減らしていて、
その特徴づけも変えてある。そこで、登場人物を見てゆく。
まず、飛行機の後部客席にいるのが、原作では旅客 11 名+スチュワード 2 名だが、
ドラマ版では旅客 7 名+スチュワード 1 名+スチュワーデス 1 名に減らされている。
それらは以下の通り。以下、宇津木訳というのは、ドラマの NHK 日本語版のことである。
- Madame Giselle(マダム・ジゼル)は、原作同様の金貸し
- James Ryder(ジェームズ・ライダー)は、ドラマ版ではいなくなっている。
- Armand Dupont(アルマン・デュポン)は、ドラマ版では前年に亡くなったことになっている。
- Jean Dupont(ジャン・デュポン)は、原作同様の考古学者。ドラマ版では、赤道アフリカの笛を持っている。
原作では、父のアルマンがクルド族のパイプを持っている。
- Daniel Clancy(宇津木訳 ダニエル・クランシー;加島訳 ダニエル・クランシイ)は、原作同様の推理作家。
- Hercule Poirot(宇津木訳 エルキュール・ポワロ;加島訳 エルキュール・ポアロ)は、原作同様の探偵。
- Dr Bryant(ドクター・ブライアント)は、ドラマ版ではいなくなっている。
- Norman Gale(ノーマン・ゲイル)は、原作同様の歯科医。ドラマ版ではテニス観戦で Jane と知り合う。原作では、事件を通じて Jane と親しくなる。
- Cicely Horbury(宇津木訳 セシリー・ホーバリ Cecily;加島訳 シシリ・ホーバリ)は、原作同様、スティーブン・ホーバリの妻で、カジノ好きの女。
原作では Cicely だが、テレビドラマ版では Cecily になっているようだ。以下では、Lady Horbury(ホーバリ夫人)としておく。
- Jane Grey(ジェーン・グレイ)は、原作では美容師だが、ドラマ版ではスチュワーデス。ドラマ版ではテニス観戦で Norman と知り合う。原作では、事件を通じて Norman と親しくなる。
- Venetia Kerr(宇津木訳 べネシア・カー;加島訳 ヴェネチア・カー)は、原作同様、スティーブン・ホーバリの幼馴染。
- Henry Mitchell(宇津木訳 ミッチェル;加島訳 ヘンリー・ミチェル)は、原作同様のスチュワード。
- Albert Davis(アルバート・デイヴィス)は、ドラマ版ではいなくなっている。
飛行機内の座席の並びも原作と少し違っている。右側座席が後ろから Madame Giselle, 一つ空いて Daniel Clancy,
Jean Dupont, Norman Gale。左側座席が後ろから Hercule Poirot, Lady Horbury, Venetia Kerr である。
Venetia Kerr の座席だけ後ろを向いている。
上記以外の重要人物は以下の通り。
- Madeleine(宇津木訳 マデリン;加島訳 マドレーヌ)は、ホーバリ夫人のメイド。
別名 Anne Morisot(加島訳 アン・モリソー)
- Stephen Horbury(スティーブン・ホーバリ)は、ホーバリ夫人の夫。夫人の賭博好きのため、夫人との仲は冷え切っている。
- Fournier(フルニエ)は、フランス側の担当警部。
- Raymond Barraclough(レイモンド・バラクラフ)は、俳優。ホーバリ夫人の恋人。
筋書き
かなり再構成がなされている。
原作は飛行機の場面から始まるのだが、テレビドラマ版では、飛行機に乗る数日前からのパリでの様子から始まる。
原作では、登場人物たちは飛行機に乗る前に必ずしもパリにいたわけでは無いようだ。以下、テレビドラマ版における
パリでの出来事をまとめる。
- 最初は、モンマルトルでポワロがジェーンに話しかける場面。
- 次がホテルの場面で、ポワロ、セシリー、ホーバリ、べネシアがいる。
- 次にテニスの準決勝の場面。セシリー、ホーバリ、べネシアが一緒に観戦。
ジェーンとノーマンが一緒に観戦。
- カジノの場面があり、セシリーは賭博好きであることがわかる。
一方、スティーブン・ホーバリとべネシアは仲良く歩いている。
- セシリーは、マダム・ジゼルに会いに行く。セシリーは「これ以上我慢できない」と言い放つ。
- スティーブンは、セシリーがカジノに行って遅く帰って来たのに腹を立て、先にイギリスに帰ってしまう。
- 現代美術館で、ポワロがジェーンに話しかけ、案内する。
- テニスの決勝戦をジェーンはノーマンと観戦。ポワロも観ている。その横にセシリーとべネシアがいる。
この後、Le Bourget 飛行場から飛行機が出発し、原作に合流する。といってもテレビドラマ版では、
動きの少ない部分は割愛されるか動きを入れるように置き換えられている。
- 1. パリ発クロイドン行き
- 2. 発見
- Mitchell が Madame Giselle が死んでいるのに気付くのは、原作では勘定書を渡すときだが、ドラマ版ではコーヒーをすすめるとき。
- Dr Bryant はドラマ版にはいないので、ドラマ版で Madame Giselle の死を確認するのは Norman Gale。
- 3. クロイドン空港
- Madame Giselle が上流階級相手の金貸しであることは、原作では検死審問のときにわかるのだが、テレビ版では
クロイドン空港で Japp 警部が Poirot に説明している。
- 原作には無い所持品の調査の場面がある。Jean Dupont の持ち物の中にアフリカの笛がある(原作には無い)。
原作では Armand Dupont がクルド族のパイプを持っている。このほかにも重要な所持品が映されている
(原作では「8. 所持品リスト」まで行かないとわからない)。
- 原作では、ある部屋で乗客・乗員に Japp 警部と Poirot が事情を聴取するのだが、それでは絵としては単調になるので、
テレビ版では、Poirot が Japp 警部と一緒、もしくは単独で、いろいろな場所で話を聞くことになっている。
飛行場の場面の後は、ふたたび原作から離れる。重要な情報は原作通り入れてあるのだが、話の順序や状況は
完全に再構成されている。原作通りだと、前半けっこう長い間、結果的に重要ではない証拠ばかり出てきて
なかなか推理が進展しない感じになるので、いろいろ変えたのだと想像される。とくに、一見重要そうで、
結果的にはたいして重要ではなかった Madame Giselle の手帳の話は全く出てこない。
- Poirot が Jane に Daniel Clancy の小説を図書館で探してもらう。
- Stephen Horbury が Poirot に妻のことを話しに来る。妻とはうまくいってないけど、人殺しをするような女ではないと。
- Poirot は Jane Grey を助手ということにして Daniel Clancy を訪ねる。
原作の「15. ブルームズベリーで」に相当すると言えば相当するが、会話の内容は原作とだいぶん違っていて、
Clancy の嫌疑を強める内容になっている。Clancy が吹矢筒を持っているということは、原作では検死審問の時に自分で言っているのだが、
ドラマ版では Poirot が Clancy の書棚の上で見つける。
- 次に場面がパリに移り、Anne Morisot (Madeleine) が何者かと結婚する場面になる。
- その後、Anne はパリ警視庁に Fournier 警部を訪ね、Madame Giselle の遺産相続の申し立てに来る。
原作で Anne が出てくるのは、終盤の「23. アン・モリソー」のところになってから。
- 飛行場で、Poirot と Japp 警部が事件の話をする。
- その後、Poirot と Japp 警部は飛行機でパリに向かう。原作で Poirot とパリに行くのは Fournier 警部である。
原作「9. エリーズ・グランディエ」で、Fournier 警部は、機内で吹矢を吹く真似をして注目されないことがありうるかどうかを
確認するが、ドラマ版では Poirot がそれをやる。
- パリで、Poirot と Japp 警部が一緒に食事をしながら、誰も犯行を見なかった理由を考える。
- Poirot と Japp 警部は、パリ警視庁に Fournier 警部を訪ねる。Fournier 警部によれば、また来るはずになっていた Anne が来ないという。
- Jane が Poirot の助手としてパリにやってくる。ホテルに行ったら Jean Dupont が来ていた。Jane を通して Poirot に
寄付をお願いしたかったようだ。
- Poirot と Jane は Madame Giselle 宅を訪ねて、メイドの Elise に Anne のことを尋ねる。Elise は Anne が赤ちゃんの時を知っているという。
Madame Giselle が 9 時の飛行機に乗らなかったのは、満員だったからということも聞き出す。
- Japp 警部が吹矢筒を売った店を突き止める。
- Lord Horbury と Venetia が乗馬を楽しんでいる。
- Japp 警部がパリからロンドン警視庁に電話して、Lady Horbury の居所を突き止めるように言う。
- Fournier 警部が Madame Giselle の弁護士に会って遺言状の内容を確かめてきたことを Japp に報告する。
遺産の大部分は Anne が相続することになっていた。
- Poirot が Jane と一緒に航空会社に行って、係員が 9 時の便が満席だったと言ったのは嘘で、
アメリカ人に買収されて言ったということを白状させた。これは原作では「11. アメリカ人」にある話で、
原作では Poirot と一緒に行ったのは Fournier 警部。
- Poirot と Jane は古物商に言って、アメリカ人が吹矢筒を買ったと聞く。これも原作では「11. アメリカ人」にある話で、
原作では Poirot と一緒に行ったのは Fournier 警部。
- Poirot は Jean Dupont に寄付をすることにしたと Jane に言う。原作では、「22. ジェーン新しい職につく」で
Poirot が直接 Armand Dupont に寄付を申し出る。
- Poirot、Japp 警部、Fournier 警部が犯人について話し合う。Lady Horbury の居場所が分からないという連絡がロンドンから入る。
- Norman Gale が飛行機でパリにやって来る。Jane が飛行場に出迎える。
- Poirot は飛行場で Mitchell に会って、ソーサーにスプーンが2本載っていたことを聞き出す。
原作では「17. ウォンズワースで」で Poirot が Davis から聞き出す。
- Jane と Norman Gale がパリの街を一緒に歩いている。
- Anne Morisot (Richards 夫人) がパリ警視庁にやってくる。Fournier 警部は不在だが、Poirot と Japp 警部がいる。
新婚旅行から帰ったばかりだという。
- Lady Horbury はまたカジノにいる。そこで Raymond と会う。
- Poirot と Japp 警部は、Lady Horbury と Raymond Barraclough がパリにいるという記事を見つける。
- Poirot が Norman Gale を変装させる。Norman は新聞記者を装って、Lady Horbury と Raymond Barraclough に
接近するが、追い返される。その後、歩いている Lady Horbury に Poirot が声をかける。そこで、Poirot は
Lady Horbury と Madame Giselle の関係を問い質す。Lady Horbury は Madame Giselle から金を借りていて、
返さなければ秘密をバラすと脅されていた。これは「19. ロビンスン氏の登場と退場」にだいたい相当するが、
だいぶん中身は変わっている。原作ではロンドンでの出来事だが、ドラマ版ではパリでの出来事である。
- Poirot が Japp 警部と Jane に話をする。Jane が割れた爪の話をするのを聞いて、Poirot は突然何かに気付き、
Richards 夫人 (Anne Morisot) の命が危ないと言う。ここは原作の「24. 割れた爪」「25. “心配だ”」の短縮版。ただし、
原作で一緒にいるのは Japp 警部ではなく、Fournier 警部。
- Poirot と Japp 警部は、Richards 夫人のいるホテルに行く。夫人は北駅に行ったと聞いて、Japp 警部は警察に電話をする。
- 警察が列車に乗り込み、Richards 夫人が死んでいるのを発見する。
- Poirot が Richards 夫人の死を Jane と Norman Gale に伝える。
- Poirot がホテルの部屋に関係者を集め、真相を明かす。集められたのは、Japp 警部、Norman Gale、Jane Grey、Jean Dupont、
Raymond Barraclough、Lady Horbury、Daniel Clancy。まず、Lady Horbury を疑ってみせて、それを否定する。
次に、Jean Dupont を疑ってみせて、それを否定する。それから Daniel Clancy を疑ってみせて、それを否定する。
さらに Jane Grey を疑ってみせて、それを否定する。最後に Norman Gale が犯人だという謎解きをする。
- 最後の場面で、Poirot は Japp 警部に空のマッチ箱が最初の手がかりだったと語る。
トリック
原作と同じだが、どう映像化されているかに注目する。
- スチュワードの服は、白い無地の背広に黒いズボン。黒いネクタイをしている。
- 歯科医の白衣も、白い無地の背広に見える。濃紺のズボン、濃い赤のネクタイをしている。