ポワロもの中編集。Suchet 版テレビドラマを見ながら読んでみた。
厩舎街の殺人 Murder in the Mews
本作品が書かれた十数年前に短編『マーケット・ベイジングの怪事件』 が書かれており、それに肉付けした作品。『マーケット・ベイジングの怪事件』の方は、ほとんどトリックだけという感じの作品だが、 本作品においてはクリスティらしい繊細な心理描写がなされており、登場人物が付け加えられて筋が複雑になっている。 初期のころと比べて、腕が上がった成果と見られる。 ただし、本作品には『マーケット・ベイジングの怪事件』では登場していたヘイスティングスは出てこない。 いわゆるワトソン役はジャップ警部がしている。
雑学いくつか:
- Mews というのは、厩から表通りまでの路地のことだそうである。
- 事件が起こったのは、Guy Fawkes Night である。私もイギリスにいた時に花火に連れて行ってもらった。 11 月 5 日だから、イギリスでは寒い時に花火をするのだなあと思ってびっくりしたものである。 本作品では、こんな花火の音の中で銃声がしても目立たないというコンテキストで使われている。
- ホームズもので、犬が吠えなかった事件が引用されている。これは『名馬シルヴァー・ブレイズ』(あるいは『白銀号事件』 『銀星号事件』とも訳される)のことである。本作品では、ポアロが煙草の臭いがしなかったことに注意を向けるところで、 偉大なるホームズも何もなかったことに注意したとポアロがジャップ警部に語っている。
Suchet 版では第2話「ミューズ街の殺人」(脚本 Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:
- かなり原作に忠実だが、中編を50分間に納めるためか、あまり本筋に関係ない場面はカットしてあるのと、 テレビ的にわかりやすくするためか、原作では伝聞に依っている部分をポアロやジャップの直接的経験にしてあるところがいくつかある。
- 冒頭は原作通り花火の場面から。ただし、ポアロとジャップ警部だけでなく、原作にはいないヘイスティングスが一緒だ。
- いつものように、ポアロ宅には原作にいないミス・レモンがいる。
- アレン夫人の遺体は、左手にピストルを持っていたことになっている。原作では右手。それで傷が左側にあるので、 自殺ではないだろうという話になるのだが、Suchet 版では、さすがにそれでは犯人が迂闊すぎると考えたということなのだろう。 Suchet 版では、鍵が見当たらないことだけから、他殺の疑いがかけられる。そして、ジェーンは、アレン夫人が右利きだと見せかけるために いろいろな工作をする。
- 原作では、チャールズ・レイヴァートン=ウェストは、警察に呼び出されて、ジャップとポアロと会うのだが、 Suchet 版では、ジャップとポアロが、最初はチャールズ・レイヴァートン=ウェストの執務室に、次にはプールに出向く。 チャールズ・レイヴァートン=ウェストは世間体を気にする愛情の薄い人物として描かれている。
- ジャップがユースタス少佐を捕まえに行くのは、原作では宿舎だが、Suchet 版では小さなダンスホールのようなところ。
- 原作では、ジェーンがゴルフ場から帰宅した後に、ジャップとポアロはゴルフ場に行くのだが、Suchet 版では、 ジェーンがゴルフ場にいる間にポアロとヘイスティングスはゴルフ場に行く。 そして、折れたクラブを3本見つけ、ジェーンがアタッシェ・ケースを湖に放り込むのを見る。 原作では、湖に放り込むのを見たのは、誰かゴルフ場にいた人。
謎の盗難事件 The Incredible Theft
本作品の十数年前に書かれた短編『潜水艦の設計図』 に肉付けして中編にしたもの。『潜水艦の設計図』にあったいくつかの不自然な点が解消されている一方、 『潜水艦の設計図』における首相候補との以心伝心の格好良いやり取りが消えている。以下、両作品の比較をしてみる。 『潜水艦の設計図』は SP、『謎の盗難事件』は IT と書くことにする。
- 事件の大筋は両作品で変わらない。登場人物は、名前が変わっている以外は同じ。
- IT では、登場人物としてマキャッタ女史が加えられている。しかし、それほど大きな役割を果たすわけではない。 SP だとやや場違いの人物がコンラッド夫人(IT ではヴァンダリン夫人)だけになってしまうので、IT ではもう一人 加えてみたということかもしれない。
- SP ではヘイスティングスがいたが、IT ではいなくなっている。政府の要人が関わる極秘の書類の盗難事件に ヘイスティングスを連れて行くのは不自然なので、自然になった。一方で、SP では首相候補(SP ではアロウェイ卿、 IT ではメイフィールド卿)とポアロの間に以心伝心の会話が格好良く交わされ、 真相は後でポアロがヘイスティングスに対して明かす。IT では、ヘイスティングスがいないので、 真相はポアロが首相候補に直接語る。話の成り行きとして自然にはなったが、格好良さが減じてしまった。
- SP では、首相候補がなぜポアロを呼んだのか良く分からない。一方、IT では首相候補はポアロを呼ぶことには 否定的だったが、軍の要人 (SP ではハリー・ウエアデイル卿、IT ではジョージ・キャリントン卿)が強く主張したので 反対できなくなった。IT の方が自然な成り行きである。
- SP で無くなったのは新型潜水艦の設計図、IT では新型爆撃機の設計図である。IT が発表された 1937 年には、 すでにドイツではナチスが政権を握っており、第2次世界大戦が迫る中、戦争の主役が変わることも認識されてきた ということだろうか。
翻訳で気付いたこと:
- メイフィールド卿が土木建築会社の社長だったと2か所で書いてあるが、原文は an engineering firm の社長ということで、 なぜこれを土木建築と訳したのか不明。文脈からすると、むしろ何かの機械関連の会社だと訳す方が自然。
- 5 節に「なかなかの昔気質だしするから」という部分があるが、これは単に「なかなかの昔気質だから」のミスプリだろう。
Suchet 版では第8話「なぞの盗難事件」(脚本 David Reid, Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:
- 全体的には、原作よりも筋の通った話にしていること、テレビ映りを良くしていること、本筋とは 関係のないエピソードを削るといった改変がなされており、本筋以外は原作とだいぶん違っている。
- 原作では、メイフィールドは政治家で卿(Lord)と呼ばれているが、Suchet 版では、兵器会社の社長で 貴族ではない。そうした方が、メイフィールドが優れた技術者であることが明確になるためだろう。 しかし、一方で、メイフィールドが偉大な人物であるという印象が薄れ、良き家庭人のようになってしまった。
- 冒頭、メイフィールド社の飛行場にキャリントン卿が新型戦闘機を見に行く。原作ではこのような場面はない上、 問題となっているのが爆撃機ではなく戦闘機になっている。これは、戦闘機の方がテレビ映りが良いためだろう。 飛行場で、メイフィールドはキャリントン卿に、週末ヴァンダリン夫人を呼んで罠にかけると言う。
- 原作には出てこないメイフィールド夫人が登場し、ポワロを動物園に呼び出して、週末のパーティーに呼ぶ。 ヴァンダリン夫人が来ると知ったメイフィールド夫人が、不穏なことが起こると感じて、ポワロに助けを求めたのだ。
- 一方で、ジョージ・キャリントン卿は、何か良からぬことが起こることを予期して、ジャップ警部を 予め近くに呼んでおく。ジャップ警部は、盗難事件発覚後間もなくメイフィールド邸にやってきて、ヴァンダリン夫人を捕まえるが、 盗まれた書類はどこからも出てこない。
- 原作で盗まれたのは爆撃機の設計書だが、Suchet 版では金属疲労の計算書。
- 原作では、メイフィールド卿は5年前ある強国とつながりがあるという疑惑がかけられていた。 テレビ版では、上海事件の時に日本が使った大砲がメイフィールド社が売ったものという話に変わっている。
- 原作に出てこないヘイスティングスが出てくる。ヘイスティングスは、メイフィールド家に招待されいないが、 ポワロに捜査の手伝いを頼まれる。とくに、最後の方において、ヘイスティングスの運転で、ポワロがヴァンダリン夫人を追いかけ、 彼女がドイツ大使邸でバッグを手渡すのを目撃する場面がある。これはテレビらしい演出である。
- 原作で出てくるマキャッタ女史は出てこない。ヴァンダリン夫人のメイドのレオニーも出てこないし、したがって、 レジ―青年がレオニーにキスをするという話も出てこない。
- 最後に、ポワロが真相をメイフィールド夫妻とキャリントン卿の前で明かす。秘書のカーライルは最初から メイフィールドのたくらみを知っていることになっている。原作では、ポワロが真相を語る相手はメイフィールド卿だけである。
死人の鏡 Dead Man's Mirror
本書出版の数年前に書かれた短編『The Second Gong』 を中編にする形での改作。分量としては3倍くらいになっている。基本的なトリックは変わっていない。 以下、違いをいくつかまとめておく。
- 何より犯人と動機を変えてあるのだが、それにはここでは触れないことにする。 そのために結末はより劇的なものになっている。
- 全体的な違いとしては、『死人の鏡』は最初からずっとポアロの行動を追う形に統一されている。 それで、関係者に次々にインタビューをして真実に近づいてゆくというポワロの捜査スタイルがより強調された形になっている。 『二度目のゴング』は必ずしもそうなっておらず、冒頭部はポアロが来る前のリッチャム・クローズ荘内の場面から始まっている。
- gong の和訳が『二度目のゴング』(中村訳)では「ゴング」になっているのに対して、 『死人の鏡』(小倉訳)では「銅鑼」になっている。 日本語で「ゴング」と言うとボクシングの話みたいなので、私は「銅鑼」の方が好きである。
- 題名が『死人の鏡』に変わっているのは、鏡の意味ありげなエピソードを増やしているためだと想定できる。
それらは以下に挙げる。
- 鏡に関して、Tennyson の詩
"the Lady of Shalott" が引用されているのもポイント:
‘The mirror crack'd from side to side. “The curse is come upon me!” cried the Lady of Shalott.’
この「The mirror crack'd from side to side (鏡は横にひび割れて)」は、後にミス・マープルものの小説の題名にも なっている。ということで、鏡の呪いということがクリスティが気になるモチーフになったのだろう。 - 題名の「死人の鏡」はポアロの台詞で登場する。
The dead man's mirror. Every new fact we come across shows us some different angle of the dead man.
[小倉訳] 死人の鏡さ。手に入る新しい事実の一つ一つが、死んだ人間をいろいろちがった角度から照らし出してみせる。
- 鏡に関して、Tennyson の詩
"the Lady of Shalott" が引用されているのもポイント:
- 被害者がポアロを自宅に呼んだ手紙の内容も違う。 『二度目のゴング』では、誰か内輪の人間が財産の横領している疑いがあるということだったが、 『死人の鏡』では、手紙には依頼内容が書かれていない。単に極秘に処理しないといけない事件があるということだけだ。 実は、犯人を変えたために手紙の内容も違うものになった。
- 『二度目のゴング』では、被害者は、養女が知人のバーリングと結婚することを望んでいたことになっている。 しかし、それでは年の差がありすぎると思ったのか、『死人の鏡』では、被害者は、養女が甥が結婚することを望んでいたことになっている。 養女は血筋に上では姪に当たるので、被害者が血統を重視していたことを思えばもっともらしい。
- 登場人物が多いのと2作品で名前を変えてあるので、名前の対応表を作っておく。『死人の鏡』では、少し登場人物が増えているのと、
登場人物の描写がより細かくなっていることが分かる。
基本的役柄 『死人の鏡』での名前 『死人の鏡』での描写 『二度目のゴング』での名前 『二度目のゴング』での描写 被害者 ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴア 准男爵第十代の当主、退役陸軍大尉、ハムバラ荘に居住、海賊ひげで大柄 ヒューバート・リッチャム・ロシュ 古い家系、リッチャム・クローズ荘に居住、ピアノを弾く、大柄で顎髭を生やしている 被害者の妻 ヴァンダ アーバスノット家出身、美人、背が高く白髪混じり、神だの生まれ変わりだの といったことを本気で信じているらしい ミセス・リッチャム・ロシュ 背が高く黒髪 被害者の養女 ルース 美人、背が高く黒髪、乗馬が上手、ジャーヴァスの戦死した弟アンソニーの娘、 レイク大尉と密かに結婚している ダイアナ・クリーヴズ 黒い目の魅力的な女性、被害者とは遠縁の親戚、 ジョン・マーシャル大尉と相思相愛 被害者の甥 ヒューゴー・トレント ジャーヴァスの妹パメラの息子、近衛騎兵、男前、口髭あり ハリー・デールハウス 被害者の執事 スネル 堂々たる体躯、16年前から執事 ディグビー 被害者の知人 ネッド・ベリー大佐 軍人らしい恰幅の年輩の男、ヴァンダを好いている、ジャーヴァスと事業をしている グレゴリー・バーリング 中年で鷲鼻、ヒューバートがバーリングの事業に出資している、ダイアナに好意を寄せている 被害者の弁護士 オズワルド・フォーブス 痩せて貧弱で白髪、ジャーヴァスとは幼馴染、 長年シェヴニックス=ゴア家の弁護士をしている、ヴァンダを好いている - - 被害者の秘書 ゴドフリー・バローズ 髪をきれいに撫でつけた青年、二年くらい前に秘書になった、周辺の人からの評判が悪い ジョフリー・キーン 浅黒い顔でハンサム、35歳くらい 被害者の地所の管理人 ジョン・レイク大尉 背が高く金髪、ルースと密かに結婚している ジョン・マーシャル大尉 背が高く金髪、戦争で片腕をなくしている、一年前から管理人、ダイアナと相思相愛 被害者の執筆手伝い ミス・リンガード 鼻眼鏡をかけた小柄な中年の女性、ジャーヴァスの年代記執筆の手伝いに二か月くらい前から来ている - - 被害者の甥の友人 スーザン・カードウェル 赤髪の娘、ヒューゴーの友達 ジョーン・アシュビー 青い目に金髪のかわいい娘、ハリーの友達 警官 リドル少佐 警察本部長、背が高くてスマート リーヴズ警部 がっしりしている 警察医 名前は書かれていない 灰色の髪の中年男 名前は書かれていない ポワロの情報源 サタースウェイト 上流階級の動向に詳しい - -
Suchet 版では第40話「死人の鏡」(脚本 Anthony Horowitz)。このテレビドラマ版は、 原作の基本的な筋は活かしながらも、かなり筋を変えてしまっている。 大きく変えてあるところは、登場人物を減らすとともに登場人物の特徴づけを最初から明確化していること、 ドラマチックな演出を増やしていることである。
- 登場人物の変更:登場人物を減らすとともに、Hastings 以外は軍人キャラを無くしている。
- 原作では出ていないヘイスティングスとジャップ警部を登場させている。その代わり、リドル少佐は出てこない。
- 50 分番組にしては原作の登場人物は多すぎるので、削減している。上の表の中では、ネッド・ベリー大佐、 オズワルド・フォーブス、ゴドフリー・バローズ、警察医、サタースウェイトは出てこない。彼らの役回りは他の人がやるか、省略するかしている。
- シェヴニクスは、原作では Chevenix-Gore だが、ドラマ版では Gore は省略され、単に Chevenix となっている。
- Gervase をジャベイスと読んでいる。もっともこれはポワロの発音だから、正しいとは限らない。 YouTube を聞いてみると、ger にアクセントを置いてジャーヴァスと読んでいるものが多いが、vase にアクセントを置いて ジャヴェイスと読んでいる例もある。どちらもあるのかもしれない。
- Gervase Chevenix は、ドラマ版ではモダンアートの蒐集家。
- Vanda Chevenix は、ドラマ版では、終始、神秘的なことばかり話す人物として描かれている。 脚本家の Horowitz は、神秘色を押し出すのが好きなのかもしれない。
- Hugo Trent は、原作では近衛騎兵だが、ドラマ版では金属製家具の製作所を経営している青年である。 資金繰りに困っていて、伯父の Gervase に資金援助をお願いするが、断られる。
- John Lake は、原作では大尉で Gervase の地所の管理人だが、ドラマ版では若手建築家で Northgate 開発という 不動産事業会社に関わっている。しかし、共同経営者に騙され、Gervase から出資してもらった 1 万ポンドを 返せなくなっている。
- Ruth Chevenix と John Lake がひそかに結婚していることを、視聴者には最初の方で明らかにしている。原作ではかなり後になってからわかる。
- Hugo Trent と Susan Cardwell は原作ではただの友達だが、テレビドラマ版では最初から婚約者になっている。
- Gervase が Ruth と Hugo を結婚させたがっていることが、テレビドラマ版では最初の方で明らかにされている。
- 大きな筋書きの変更:けっこう大きな筋書きの変更がいろいろなされている。ドラマ向けにするための変更だと考えられる。
- 原作に無いオークションの場面から始まる。Poirot と Hastings も参加している。 鏡が競売にかかっており、Poirot が買おうとしたが、Gervase Chevenix に競り負ける。 競売終了後に Gervase は詐欺事件の解決を Poirot に口頭で依頼する。 原作では、Gervase からの依頼状が Poirot に届くところから始まる。
- Poirot が Hamborough Close に到着する時は、原作では8時を過ぎていて、Poirot は 生きている Gervase に会えなかった。テレビドラマ版では Hastings とともに昼間に到着し、 John Lake がロンドンの開発計画に関して 1 万ポンドを詐取した件を調査してくれと Gervase に頼まれる。
- Northgate 開発を Japp 警部、Poirot、Hastings が訪れて、火事に遭遇する場面が入れてある。 John Lake が放火したもので、放火のやり方を失敗して自ら焼け死にそうになったところを Japp らに救出される。 John が病院で事情を告白したので、詐取事件の真相が明らかになる。
- Poirot が皆の前でわざと Ruth を犯人だと言って見せる。このとき、原作では、たまらず真犯人が自分が犯人だと名乗り出る。 テレビドラマ版では、その時は何も起こらないが、その夜、犯人は Vanda を犯人に仕立てる作戦に出る。 それを Japp 警部、Poirot、Hastings が待ち伏せしていて取り押さえる。
- トリックに関わる事項の変更:より現実的に、よりわかりやすく見せるための変更だと考えられる。
- Ruth が2回目に庭に出た理由が変更されている。原作では、染み隠しのために薔薇を摘むため。テレビドラマ版では、落としたブローチを拾うため。
- Poirot が自殺を疑問視して他殺ではないかと疑う理由は、原作では死体の姿勢がおかしいことだが、テレビドラマ版では、 右利きの人が左手に拳銃を持っていたことにしてある。Poirot の疑念をわかりやすくしたのだと思われる。
- 犯人は、原作では、拾った弾を割れた鏡の前に落としておくのだが、テレビドラマ版では、その機会を失ってしまう。 Poirot が他殺だと考えた理由の一つは弾が鏡の近くに見当たらなかったことになった。これも Poirot の疑念をわかりやすくしたのだと思われる。
- 犯人が銃声を模した音を作った仕掛けは、原作では、膨らませた紙袋を叩くこと。テレビドラマ版では、シャンパンの栓を抜くことだった。 こちらの方が銃声に近いと考えたのだろう。
- 犯人が拾った弾丸の代わりに目くらましのために使ったものは、原作ではベリー大佐の弾丸型の鉛筆、 テレビドラマ版ではトレントのカフスボタン。全体的に軍人色を無くしてあることに伴うものだろう。
砂にかかれた三角形 Triangle at Rhodes
クリスティの興味がトリックではなく、人間関係の心理にあることがよくわかる作品。 真相は三重になっている。まず、表面的な真相。男Aが横恋慕した女性の夫Bを殺そうとして、誤って男Bの妻を殺す。 これが偽装であることは読者にもすぐにわかり、男Bが、男Aに横恋慕した妻を嫉妬のあまり殺す、というストーリーが次に現れる。 だが、ポアロが明かす真相は、この裏にある人間関係が違うということである。男Bは自分の妻を最初から殺すつもりでいて、 男Aの妻と結託してこれを実行したということである。
物語の舞台はロードス島である。英語では Rhodes で発音は roudz である。発音が rose に似ている。 ロードス島の語源も、 一説ではギリシャ語のバラ (rhodon) だそうだ。だが、よりもっともらしいのは、フェニキア語の erod(蛇)だそうである。 小説の中で、人々がイタリアの船で来ているらしいのは、当時、ロードス島は イタリア領だったためのようだ。
本作品のワトソン役は、パメラ・ライアル嬢である。
Suchet 版では第6話「砂に書かれた三角形」(脚本 Stephen Wakelam, Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:
- 全体的に大きな違いは、真相解明への道のりである。原作ではポアロが真相をあっさり解明しており、 捕物場面も無い。これに対して、Suchet 版では、ポワロがパメラ嬢とともに毒物経路の入手経路を探り、それが真相の解明につながり、 最後に捕物場面もある。それを反映して、毒殺事件が起こるまでの前半部と事件解決編の後半部の長さの割合が違う。 原作では、前半部が全体の8割を占めるのだが、Suchet 版では前半部が6割にしかなっていない。
- 原作では、マージョリー・ゴールドが加害者側であることがわかる証拠があまりないまま、ポアロが加害者だと 断定しているのだが、Suchet 版では毒を入手したのが彼女ということになっているうえ、チャントリーとマージョリーが 最後は一緒に逃げているので、犯人の一人だということが明確にわかる。この変更は首肯できる。 原作では、マージョリー・ゴールドが犯人の仲間である必然性が無いため、読んでいてすっきりしない感じが残るからである。
- ポアロの真相究明の過程を長く描くために、毒殺事件が起こった時、Suchet 版では、ポワロが殺害現場にいなかったことになっている。 原作ではポアロはその場にいて、トニー・チャントリーが毒をダグラス・ゴールドのポケットに入れるのを目撃しており、それで 事件があっさり解決するのだが、Suchet 版ではそれがない。そこで、ポワロはパメラ嬢とともに毒物経路の入手経路を街で探る。
- Suchet 版では、ポワロは毒殺事件が起こった時、島を出発しようとして港にいたことになっている。 ポワロは、出国しようとしていたのだが、たまたま足止めを食らっていた。そこにパメラが呼びに来る。
- 毒物は、原作ではストロファンチンという植物から取れる毒だが、 Suchet 版では「つのまむし」という蛇の毒ということになっている。先述のように、ロードス島の語源は「蛇」とも言われているので、 蛇の毒が相応しいと考えたのだろう。テレビドラマには、生きている蛇が出てくる場面もある。
- 登場人物の大きな違いが2つある。一つは、原作に出てくるサラ・ブレイク嬢が出てこない。これはおそらく前半を短縮するためだろう。 それでパメラ嬢は、だいたいいつでもポワロと一緒にいることになって、ワトソン役を務める。 もう一つは、バーンズの役回りだ。原作では「老将軍」となっていて、話し好きの退役将軍という役回りだが、 Suchet 版では「少佐」となっており、現役で秘密裏に仕事をしている。そのため、ポワロの調査にちょっとした協力をし、 捕物場面でもポワロのために船を出す。
- 捕物場面では、ポアロ、パメラ、バーンズ少佐が、船で逃げるチャントリーとマージョリーを船で追いかける。 そこに船で警察がやってくる。
- 毒殺事件が起こるまでの前半部は、Suchet 版においては原作よりだいぶん短縮されている。
- 前半部の短縮に関係すると思われる登場人物の細かい違いとしては、原作では、ダグラス・ゴールドは水泳好きなのだが、 Suchet 版では、水泳が苦手ということになっている。結局テレビ版ではダグラスが海に入る暇がないので、その理由づけに 水泳が苦手なことにしたのだろう。
- 前半部では、山に主要登場人物がほぼ全員(チャントリー夫妻、ゴールド夫妻、パメラ、ポアロ)でやってくる場面が作られている。 この場面は、原作のいくつかの場面を混ぜ合わせたような内容になっている。