教会で死んだ男

著者Agatha Christie
訳者宇野 輝雄
シリーズクリスティー文庫
発行所早川書房
電子書籍
電子書籍刊行2012/03/10
電子書籍底本刊行2003/11
原題アメリカ版 The Under Dog and Other Stories (1951) / アメリカ版 Double Sin and Other Stories (1961) / イギリス版 Poirot's Early Cases (1974) / イギリス版 Miss Marple's Final Cases and Two Other Stories (1979)
原出版社アメリカ版 Dodd Mead and Company / イギリス版 Collins Crime Club
初出 イギリスではほとんどが週刊誌 The Sketch に掲載、アメリカではほとんどが月刊誌 Blue Book Magazine に掲載
The Affair at the Victory Ball (1923/03/07, The Sketch [UK]; 1923/09, Blue Book Magazine [US]),
The Submarine Plans (1923/11/07, The Sketch [UK]; 1925/07, Blue Book Magazine [US]),
The King of Clubs (1923/03/21, The Sketch [UK]; 1923/11, Blue Book Magazine [US]),
The Market Basing Mystery (1923/10/17, The Sketch [UK]; 1925/05, Blue Book Magazine [US]),
The Double Clue (1923/12/05, The Sketch [UK]; 1925/08, Blue Book Magazine [US]),
The Lemesurier Inheritance (1923/12/18, The Sketch [UK]; 1925/11, Blue Book Magazine [US]),
The Cornish Mystery (1923/11/28, The Sketch [UK]; 1925/10, Blue Book Magazine [US]),
The Plymouth Express (1923/04/04, The Sketch, 原題 The Mystery of the Plymouth Express [UK}; 1924/01, Blue Book Magazine, 原題 The Plymouth Express Affair [US]),
The Adventure of the Clapham Cook (1923/11/14, The Sketch [UK]; 1925/09, Blue Book Magazine, 原題 The Clapham Cook [US]),
Double Sin (1928/09/23, Sunday Dispatch [UK]; 1929/03/30, Detective Story Magazine, 原題 By Road or Rail [US]),
Wasp's Nest (1928/11/20, Daily Mail [UK]; 1929/03/09, Detective Story Magazine, 原題 The Worst of All [US]),
The Dressmaker's Doll (1958/12 Woman's Journal [UK]; 1959/06 Ellery Queen's Mystery Magazine [US]; 1958/10/25 Star Weekly [Canada]),
Sanctuary (1954/10 Woman's Journal [UK]; 1954/09/12,19 This Week, 原題 Murder at the Vicarage [US])
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読了2024/04/07
参考 web pages Wikipedia「教会で死んだ男」
Wikipedia「The Under Dog and Other Stories」
Wikipedia「Double Sin and Other Stories」
Wikipedia「Poirot's Early Cases」
Wikipedia「Miss Marple's Final Cases and Two Other Stories」
Wikipedia「名探偵ポワロ」
Wikipedia -- List of Agatha Christie's Poirot episodes

日本独自編集の短編集で、 評論家霜月蒼によると、 底本となった短編集もアメリカ独自編集のものとのこと。ただし、ここにあるような初期短編はイギリスでは本にまとめられていないと 霜月は書いているが、1974 年にイギリスで Poirot's Early Cases が出版されており、本書と 11 作品が共通している。 以前に読んだ創元版短編集 とも 7 編が共通している。

本書に対する評論家霜月蒼の評価は低い。 ただし、Wikipedia によると、大半の作品は初出が 1923 年ということで、 クリスティのごく初期の作品だから、まだ後年の円熟味に欠けていたとしてもやむを得ないと言うべきではなかろうか。 というより、私はそんなに悪い作品群だとは思わない。シャーロック・ホームズの影響も色濃く見える習作と言えるだろう。 霜月がこの中では良いとしている『スズメ蜂の巣』は初出が 1928 年、『教会で死んだ男』は 1954 年ということで、 それらはクリスティが書き慣れてきた後の作品である。

Suchet 版テレビドラマを見ながら読んでみた。Suchet 版の中では Anthony Horowitz 脚本の「二つの手がかり」が 出色の出来である。ほとんど原作とは別物になっているのだが、クリスティの持っているお洒落感をさらに映像で 追求しているところが流石である。

戦勝記念舞踏会事件 The Affair at the Victory Ball

クリスティの記念すべき最初の短編である。舞踏会を舞台にしており、最後に犯人を皆の前で明らかにするところも ちょっとした芝居仕立てにしているところが洒落ている。以下、背景やら英語やらのメモ。

Suchet 版では第29話「戦勝舞踏会事件」(脚本 Andrew Marshall)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

潜水艦の設計図 The Submarine Plans

重要文書取返し事件で、かつ首相に近い人物とその側近のような人物の近くで盗難が起こったという点で ホームズの『第二のしみ(読書録1読書録2)』に似た事件であり、 どちらも探偵の結末の付け方がかなり格好の良い作品として印象的だ。ホームズの方は、文書を取り戻したうえで、 首相には真相を明かさず、「ぼくたちにも外交上の秘密というものはありましてね」と言う。ポアロの場合、 その上を行って、次期首相候補に真相を明かさず、しかも文書を取り戻さずに

Lay the mystery on my shoulders. You asked me to restore the papers --- I have done so. You know no more.
[宇野訳] 今回の事件の謎の部分については、わたしにおまかせください。わたしは、大臣から図面をとりもどしてほしいと依頼されて ……その仕事をやりとげた。大臣のばあい、これ以上のことは知らないのです
と言う。

この作品は、後に中編『謎の盗難事件』として 改作されている。そちらが Suchet 版のドラマ化をされている。

クラブのキング The King of Clubs

話のポイントは最後の方にあるポアロの台詞に集約されている。

Family strength is a marvellous thing. They can all act, that family. That is where Valerie gets her histrionic talent from. I, like Prince Paul, believe in heredity!
[宇野訳] 肉親のきずなとは、まことにもって、すごいものだよ。あの一家の者は、みんな、演技ができる。 ヴァレリーに演技の才能があるのも、いわゆる血のなせるわざなんだな。となれば、わたしも、ポール公と同様、 遺伝というものを信じざるをえない。

豆知識:

翻訳で気付いた点:

Suchet 版では第9話「クラブのキング」(脚本 Michael Baker, Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

マーケット・ベイジングの怪事件 The Market Basing Mystery

他殺に見せかけた自殺という意味では、ホームズに『 ソア橋の難問』というのがあったが、 本作品では他殺に見せかけるのは自殺者と親しい人なのに対して、『ソア橋の難問』では他殺に見せかけるのは自殺者本人である。 本作品は後に肉付けがなされて中編『厩舎街の殺人』として 生まれ変わっている。Suchet 版ドラマ化されているのはそちらの方になっている。 やはり、後から書き直されたものの方が出来が良い。

細かすぎるけど、翻訳の疑問点: ポアロらが死体を初めて見た時、この宇野訳では「死体の主のプロザロー氏は、中年なのに、あごひげを生やし、 こめかみのあたりは白髪になっている」とある。これを読んだ時、中年だとあごひげを生やしてはいけないのかと理解に苦しんだが、 原文では「なのに」にあたる語は無く、単に Mr Protheroe had been a man of middle age, bearded, with hair grey at the temples. だったので安心した。

二重の手がかり The Double Clue

2つの証拠品のうち、一方が真犯人につながるもので、もう一方はそうではない。それを見抜くのがポイントである。 その証拠のシガレット・ケースについて:

Suchet 版では第26話「二重の手がかり」(脚本 Anthony Horowitz, Clive Exton)。このテレビドラマ版は、 原作をかなり改変してある。犯人とその盗みの手口は原作通りだが、その他はほとんど別の物語になっている。 Anthony Horowitz は、今をときめく推理小説家になっているが、かなり自由にドラマを作っている。映像を生かして、 ポワロが推理をはっきり語らず仄めかすという手法を随所で取り、捕物劇にするというありふれた映像化をせず、 犯罪者と名探偵とが互いを尊敬しあいながらお互いを追い詰めないというスタイリッシュな物語にしている。 もともとポワロものの短編は洒落た締めくくりが命である。Suchet 版(に限らず多くの映像化作品)では、 多くの場合、それを映像化するのは諦めて、原作にはない捕物劇を加えてある。ところが、この Horowitz 脚本は その逆を行っていて、ポワロが敵の手腕を認めて敵を逃がすことで洒落た雰囲気を出している。

呪われた相続人 The Lemesurier Inheritance

リムジュリア (Lemesurier) 家を襲う連続不審死事件をポアロが解決する。

この宇野訳には、1箇所血縁関係がおかしくなっているところがある。最初の方で、ロジャー・リムジュリアは 「ヴィンセント・リムジュリア大尉の従兄弟」と書いてあるのに、途中でヒューゴー・リムジュリアが 「わたしのいとこのロジャー」と言っている。ヒューゴーはヴィンセントの叔父だから話が合わない。 これは、ロジャーはヒューゴーの従兄弟という方が正しい。実は、最初の方は、原文では The dark young man, who had been introduced to us as a cousin, となっており、誰の従兄弟か明記されていない。 この文脈では、ヴィンセントの従兄弟ではなく、ヒューゴーの従兄弟である可能性もある。後の方のヒューゴーの 言葉は My cousin Roger だから、ヒューゴーの従兄弟が正しい。

Suchet 版テレビドラマは作られていないが、『 ヘラクレスの難業』にリムジュリアと似た名前の人物が出てくるらしい。

コーンウォールの毒殺事件 The Cornish Mystery

ポアロがあまり捜査をすることもなく、いきなりたいした証拠も無しに真相を出してしまうという筋書きなので、 推理小説としての面白みはイマイチな感じである。ポアロがどういう筋道で真相にたどり着いたのかよくわからない。 でも、説明されてみればポアロの説明は筋道が通っている。

Poirot、Hasgings と Jocob Radnor がホテルに来たとき、Hastings が飲み物を注文するところを宇野訳とともに見ておく。

[原文] I ordered two whiskies and sodas and a cup of chocolate. The last order caused consternation, and I much doubted whether it would ever put in an appearance.
[宇野訳] わたしは、ハイボールを二杯とココアを一杯、注文した。ココアときいて、相手は肝をつぶしたようだし、 これがはたして眼前に登場するかどうか、はなはだ疑問でもあった。
[拙訳] わたしは、ウイスキーのソーダ割りを二杯とココアを一杯、注文した。このココアという注文は、 世間に非常な驚きを持って迎えられた。それが果たして注文に応じて出てくるのか否か、私は疑問を禁じ得ない。

Suchet 版では第14話「コーンワルの毒殺事件」(脚本 Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

プリマス行き急行列車 The Plymouth Express

ジャップ警部が犯人が与えた間違った手掛かりに見事に騙されるのに対して、 ポアロが犯人が行ったミスリードを見事に言い当てる。のちに『青列車の秘密』として長編化されているようだが、 これはこれで Suchet 版でドラマ化されている。

気付いた点をいくつか:

Suchet 版では第23話「プリマス行き急行列車」(脚本 Rod Beacham, Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

料理人の失踪 The Adventure of the Clapham Cook

悪党が悪巧みのためにある人に家から出て行ってもらうという意味では、ホームズの『赤毛組合』や 『三人のガリデブ』の系統の物語である。出て行かせるために、変人の莫大な遺産が残されているというウソを犯人がつく という点も共通している。『赤毛組合』では、奇妙な募集案件が銀行での盗難事件と結びつく。 『三人のガリデブ』では、奇妙な遺産相続事件が偽札事件と結びつく。Granada TV 版ホームズでは改変があって、宝石盗難事件 (マザランの宝石)と結びつく。この『料理人の失踪』では、奇妙な失踪事件が銀行からの有価証券持ち出し事件と結びつく。 ただし、『赤毛組合』や『三人のガリデブ』と違う点は、犯人がある人を家から追い出した理由の 主なものが、その人が持っている何の変哲もないトランクだったということである。

Poirot が普段の尊大さを最後にちょっと反省するというのも Poirot らしい。

[原文] It is to me a little reminder, Hastings. Never to despise the trivial -- the undignified.
[Suchet 版] It is to me, Hastings, a little reminder never to despise the trivial, hein, but the undignified.
[宇野訳] わたしにとって、こいつはささやかな記念品だよ、ヘイスティングス。平凡な人物…品のない人物も、 これを軽視することは厳禁だ。
[拙訳] 私にとってこれはいい教訓になります、ヘイスティングス。つまらなく見えることやら高貴でない人々やらを軽蔑しないことです。
英語では簡潔な文なのに、訳するとどうしても簡潔さが失われてしまって訳が難しいが、ともかく Poirot らしさの 現れた表現である。Suchet 版は the undignified の前に but が入れてあるようだが、すると意味が変わって、 「つまらなく見えることを軽蔑しないこと、でも高貴でない人々は軽蔑しても良いがね」ということになると思う。 ただし、この but は、IMDb による Suchet 版の紹介にあったもので、テレビを聴いただけだと 弱く発音されているのでよくわからない。なので、but と言っていたわけではないとも考えられる。 日本語訳では but the undignified は訳されていなかった。

地名の確認:

Suchet 版では第1話「コックを捜せ」(脚本 Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

二重の罪 Double Sin

ちょっと抜けているかに見えた女性たちが実は犯人という物語。舞台となっているのは Devon の Ebermouth と Charlock Bay という町だが、いずれも架空の地名のようである。

Mary Durrant が運んでいる細密画は Cosway のものということだが、 Richard Cosway は細密肖像画で有名な 18-19 世紀の画家だそうだ。ところで、「細密画」は miniature(ミニアチュール)の訳だが、語源から見ると細密画と訳すのは不適切らしい。 語源は miniare(鉛丹を塗る)なので、彩画と訳すのが適切なものだそうだ。しかし、中世以降、サイズの小さな ミニアチュールが多く描かれるようになって、語源が minute と誤解されたせいもあり、細密画と呼ぶべきものに なっていったとのこと。今 (2022 年 9 月)九大のフジイギャラリーで 「昆虫学ミニアチュール」なる展覧会が開催されている。 黒一色で丁寧に学問的に描かれた昆虫の絵が展示されている。

Poirot の最後の台詞を引用しておく:

[原文] Not a pleasant man, Mr Baker Wood, not, as you would say, sympathetic. But a visitor! And we visitors, Hastings, must stand together. Me, I am all for the visitors!'
[宇野訳] たしかに、あのベイカー・ウッド氏という人物、感じはわるい。きみがいうように、好感はもてない。 だが、外国人だ!しかり、われわれ外国人は団結せにゃいかんのだよ、ヘイスティングス。エルキュール・ポアロは 外国人の味方なんだから!

visitor を外国人と訳しているのが目を引く。逆に言えば、「外国人」に対する適切な英語は visitor なのだろう。 たしかにこれならば xenophobic なニュアンスは全くなさそうである。visitor を「まろうど」と訳したくもなるが、 ポアロ自身は外国人ではあっても長期滞在者なので「まろうど=まれびと」ではない。

Suchet 版では第16話「二重の罪」(脚本 Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

スズメ蜂の巣 Wasp's Nest

ポアロが自殺と間接的殺人を事前に防止するというなかなかに洒落た趣向の作品である。

英語に関していくつか:

Suchet 版では第24話「スズメバチの巣」(脚本 David Renwick)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

原作に合流するのは最後の 15 分間で、その前の 35 分間は、原作に出てくる人物とほとんど名前しか出てこない人物とを 使った創作と言ってよい。最後の 15 分間も原作と骨組みが同じだけで、原作とは違うところがけっこうある。 原作は 50 分ドラマにするには短すぎたのであろう。それと、本作品の原作には出てこないいつもの登場人物である ヘイスティングス、ミス・レモン、ジャップ警部を出す必要もあったのだろう。

洋裁店の人形 The Dressmaker's Doll

これだけ推理小説ではなく、誰も見ていない間に勝手に動いているという気味の悪い人形を描いた怪奇小説。 しかし、今一つ中途半端な感じが否めない。 Poe のように劇的なクライマックスがあるわけでもないし、夢野久作のようなマニエリスムがあるわけでもない。 クリスティが得意な女性のおしゃべりで話を進めていくのだが、それは推理小説が暗くならないように彩るのには 向いているけれど、怪奇小説には明朗すぎて向いていないと思うのだ。

教会で死んだ男 Sanctuary

これだけ Miss Marple もの。教会で男が死んだ。この謎が Miss Marple の機転と Craddock 警部の捜査によって解決される物語。 男が死ぬ前に呟いた単語 sanctuary と jewel の多義性がアクセントとして利用されているのが面白い。 sanctuary については下に記した。jewel には「宝石」の意味と女の子の名前が重ねられている。

教会建築用語を2つまとめておく:

chancel
内陣。 教会の奥(東側)の部分で、礼拝の時には聖職者と聖歌隊がいる場所。
sanctuary
至聖所。祭壇の周囲の領域。宗派や教会によって、chancel と同じ領域を指す場合、chancel の一部を指す場合、 chancel より奥の部分を指すとする場合、chancel より広い領域を指す場合があるようである。
日本聖公会の人が書いた解説では sanctuary は chancel の奥にある一段高くなった部分で、chancel とは 別の領域であるとしている。
sanctuary には、教会建築用語以外にも「聖域」「(罪人や亡命者などの)逃げ込み場所」などの意味もあり、 本小説ではそうした多義性が用いられている。