何度目かの『オリエント急行の殺人』。以前は蕗沢忠枝訳で読んでいたが
(2008 年、
2016 年)、
今度は山本やよいの新訳で。今回読むことにしたきっかけは、Kenneth Branagh 版 (2017 年) の映画をテレビで見たことだ。
ミステリー評論家霜月蒼の評価では、
5段階のうち4ということである。むろん名作なのではあるが、贅肉や遊びが無くて結論に向かってまっすぐ走っているのが
ややマイナスと評価しているようだ。たとえば、中東の風景の描写も旅の味わいもないということだ。
そうなってしまった理由も推測されている。それは、ネタが大技なので、綱渡り的な描写が必要で、遊びを入れるわけには
いかなかったのではないかということだ。確かにさもありなん。スピード感をもって描かないと事故になりそうではある。
本作品が、クリスティー自身が乗ったオリエント急行が悪天候で立ち往生したことと、
リンドバーグ愛児誘拐事件とをモチーフにして書かれたものだということを最近知った。
リンドバーグ愛児誘拐事件は、物語の中ではアームストロング愛児誘拐事件と名前を変えている。
それが最初に出てくる場面に不思議な点がある。ポワロは、焼け焦げた紙片をランプの炎にかざして
そこに書かれていた文字を読み取る。そこに「小さなデイジー・アームストロングのことを忘れ―」
と書いてあったということだ。しかし、いくらインクのついたところは性質が変わると言っても、
焼け焦げたものからそう簡単に文字が浮かび上がるのかどうかは疑問である。映画では、真っ黒になった
紙をランプの炎にかざすと、文字が光って浮かび上がり、やがて消えるようになっていた。
ともかくも、こんなに普通に考えると真相を見つけづらいストーリーで、この「アームストロング」の名前を
見つけたことが第一の手掛かりとなった。第二の手掛かりは、アンドレ二伯爵が持っていたパスポートの染み。
これは Helena を Elena と書き換えたことによるものだった。嫌疑を逃れようと思ってやったことが、
かえってポワロにとってはヒントになった。この二つでもヒントとしては少ないと思うが、これらを頼りに
ポワロが真相を解き明かしていく様子が見事である。
以下で、Branagh 版映画の特徴を見て行く。
Branagh 版映画の特徴
大きく言えば、映画版の特徴は、演出を劇的にしていることと、ポワロがより動き回るし、精神的にも悩むことである。
原作のポワロは、もうちょっとスマートに推理するし、推理で悩むことはあってもメンタルな葛藤はほとんどない。
演出を劇的にしているところは、とくに最後のあたりで多い。とくに目立ったところを挙げていくと:
- 原作では、列車は雪だまりに突っ込んで止まったことになっているが、映画ではさらに脱線したことになっている。
しかも危なっかしい鉄橋の上なので、絵としてより緊迫感を増している。
- 映画では、ポワロがラチェットの死体を発見する。原作では、ブークがポワロにラチェットが殺されていたことを告げる。
- 以下、原作にはないもの。
- ヘクター・マックィーンがラチェットの金を横領して、帳簿を燃やそうとした。それでポワロがちょっとした捕物をやる。
- ハバード夫人がラチェット殺しの凶器のナイフで背中を刺される。
- ポワロがメアリ・デベナムを追い詰めて犯人だと言ったところで、アーバスノット医師がポワロの腕を撃ち、
自分が犯人だと言う。そして、ポワロを殺そうとしたところで、ブークがポワロを助ける。
- ポワロが真相を明かす場面では、容疑者たちはトンネルの中で「最後の晩餐」のように並ぶ。
- 最後にリンダ・アーデン(ハバード夫人)が自分一人で罪をかぶろうとする。
こういう劇的演出は、ポワロらしくない気もするが、映画では劇的にいかないといけないということだろう。
映画は約2時間に収めないといけないので、ポアロが旅客の一人一人に尋問をしていくところや荷物を点検するところは
だいぶん簡略化したり順序が入れ替えられたりしている。
原作で中東の風景が全く出てこなかったのが味気ないと思ったのだと思うが、映画の最初の方ではエルサレムやイスタンブールの
鮮やかな風景が出てくる。映画は、エルサレムの場面から始まる。ポワロが聖墳墓教会の遺物の盗難の犯人としてイギリス人警部を捕まえる。
もちろんこんなものは原作にはない。原作は、シリアのアレッポ駅から始まる。
映画では、登場人物のアメリカ風味を強めるために黒人とヒスパニックを加えてある。
以下、原作と変えられている登場人物のリスト:
原作 | 映画版 |
アーバスノット大佐:イギリス人。 コンスタンティン:ギリシャ人の医師。 |
ドクター・アーバスノット:黒人医師、元軍人。 |
ヘクター・マックィーン:ラチェットの秘書。アームストロング家とのつながりは、ソニアを崇拝していたということだけ。 |
ヘクター・マックィーン:ラチェットの秘書。マックィーンの父親は、アームストロング事件の時に検察側の責任者だった。
子守娘のスザンヌを追い詰めたが冤罪だった。 |
アントーニオ・フォスカレッリ:イタリア人の自動車セールスマン。 |
ピニアミノ・マルケス:自動車のセールスマン、昔は泥棒で脱獄したことがあるとしている。 |
グレタ・オールソン:スウェーデン人、羊のような女性、ミッションスクールの寮母、看護師資格あり。 |
ピラール・エストラバドス:宣教師。 |
サイラス・ハードマン:アメリカ人の大男、私立探偵、表向きはインクリボンの営業マン。 |
サイラス・ハードマン:表向きは、ゲアハルト・ハードマンとして、オーストリア人の工学部教授を装っている。 |