古今和歌集

著者渡部 泰明
シリーズNHK 100分de名著 2023 年 11 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2023/11/01(発売:2023/10/25)
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読了2023/12/02

「古今和歌集」の創造力

著者鈴木 宏子
シリーズNHK BOOKS 1254
発行所NHK 出版
電子書籍
電子書籍刊行2018/12/31
電子書籍底本刊行2018/12/20(第1刷)
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読了2023/12/27

和歌と言えば『古今集』である。「100分de名著」で取り上げられたのをきっかけに、積ん読になっていた 『「古今和歌集」の創造力』(以下、「鈴木本」と書く)も読んでみた。「100分de名著」も鈴木本も 『古今集』の歌を読み解きつつその魅力を一般向けに解説するというものなので、趣旨は似ている。 「100分de名著」の方はテレビ番組なので、専門的なことよりは親しみやすさに重点を置いてある。 鈴木本の方は、分量が放送テキストの倍くらいあるせいもあって、より構成や技巧などを丁寧に解説してある。 単にいろいろな歌の解説をしてあるだけでなく、4章で特徴的なレトリックがまとめて解説され、 5章で歴史的背景の解説がなされている。

二冊の本を読んでみて、『古今集』は、四季と恋という日本の伝統的な和歌の題材を確立し、 さらにまた和歌の基本的な技巧を確立したという意味で、やっぱりすごいと思った。

四季と恋が詩の代表的な題材だということは、日本にいると当たり前なような気がしてしまうが、そんなことはない。 たとえば、中国には伝統的には恋愛文学などなかった。 四季も自然を歌っているわけではないことに注意する必要がある。桜や紅葉などに言寄せて時の移ろいを詠むのである。 四季と恋を競うように歌うということは、平和の証明だと思う。無論、これは平安時代の貴族だからこそのことではあろうが、 この伝統は長く続いてほしいものである。現代でも、恋は流行歌の定番だし、桜ソングは今も健在である。

歌が技巧的に作られていることもポイントである。とくに「掛詞」と「見立て」は古今集を代表する技巧である。 こうした技巧は背景となる予備知識が無いと分からないから、今の時代となっては、解説書を読まないと 十分には楽しめない。一時期、芸術は技巧ではないという論調が一世を風靡した時期があったが (たとえば、岡本太郎は「芸術はうまくあってはならない」などと言っていた)、 技巧的な名人芸を見せるのも芸術の重要な側面だと思う。それによって、短歌のような短い詩に 多彩な情景を詰め込むことができるのだ。「写生」を提唱した正岡子規が『古今集』を嫌ったのも わからくもないが、単なる写生が良い詩を生み出すわけではないことも確かである。 現代の流行歌でも、転調を繰り返してみたり、とてもカラオケでは歌えないような難しい曲があったりと、 技巧を楽しむ趣向のものが増えてきている。文化の成熟というのは、そういうことであろう。

以下、「100分de名著」の放送では取り上げられなかった歌で鈴木本で取り上げられているものをいくつか見ていく。 放送で取り上げられたものは、下の放送時メモに記す。なお、以下の記述では新編日本古典文学全集「古今和歌集」 (校注・訳:小沢正夫、松田成穂、以下「小学館全集」と書く)も時々参考にした。

霞立ち木(こ)の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける(春、9、紀貫之)

春の雪を詠ったもので、雪を花に見立てている。「霞立ち木の芽も」は「張る」を導く序詞で、 その「張る」に「春」を掛けている。

春霞立つを見捨てて行く雁は花なき里に住みやならへる(春、31、伊勢)

雁は、秋に北から来て、春には北に帰る渡り鳥である。 雁は草食ではあるが、寒冷地に適応しており、春の盛りになる前に北に帰る。 その情景が雁に思いを寄せる形で描かれている。
なお、霞は春の風物詩だが、実体は微細な水滴かもしれないし、塵や黄砂かもしれない

夏と秋と行きかふ空の通ひ路はかたへ涼しき風や吹くらむ(夏、168、凡河内躬恒)

「かたへ」は、「片側」の意味。夏から秋への変化を擬人化して、夏と秋がすれ違うように表現している。 秋雨前線を境に冷たい空気と暖かい空気が接している様子を描いているようで面白い。

秋の夜の露をば露と置きながら雁の涙や野辺を染むらむ(秋、258、壬生忠岑)

鈴木本の解説によれば、当時の歌の表現として、露が紅葉を染め上げるというものがあった。 この歌では、露とは別に、雁が悲しみのあまり血の涙を流して紅葉を染めるという鮮烈な幻想をそれに重ねた。
ところで、小学館全集の解釈では「夜の」の「の」は断定の助動詞「なり」の連用形であるとしている。 しかし、ふつう「なり」にそのような連用形は無いとされるし、鈴木本でも格助詞で解釈されている。

朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪(冬、332、坂上是則)

雪を月に見立てた歌。「朝ぼらけ」は夜がしらじらと明けるころ。「有明の月」は、 夜が明けてもまだ空に残っている月。

万代(よろづよ)をまつにぞ君を祝ひつる千歳の蔭に住まむと思へば(賀、356、素性法師)

「まつ」は「待つ」と「松」の掛詞。「つる」は完了の助動詞「つ」の連体形と「鶴」の掛詞。 めでたい言葉を散りばめた賀歌の典型。相手の長寿を祈っている。
小学館全集では、「万代」に「万世」の字を当てている。「蔭」には、松の木陰の意味と 相手の御庇護という意味を掛けてある。

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ(羇旅、410、在原業平)

技巧の極地。各句の頭に「かきつはた」を置いた「折句」。「唐衣着つつ」は「萎(な)れ」を 導く序詞。「なれ」には「萎れ」と「馴れ」を掛け、「つま」に「褄」と「妻」を掛け、 「はる」に「張る」と「遥々」を掛け、「き」に「着」と「来」を掛ける。 それらの技巧によって、いつも着ている唐衣、慣れ親しんだ妻、はるばるやって来た旅の3つのイメージを 重ねている。

音にのみきくの白露夜(よる)はおきて昼は思ひにあへず消(け)ぬべし(恋、470、素性法師)

「音に聞く」は、噂に聞くこと。「きく」は、「聞く」と「菊」の掛詞。「おく」は、 (私が)「起きて」と(露が)「置きて」の掛詞。「思ひ」は、「思ひ」と(おも)「日」の掛詞。 「消ぬべし」には、私が思いに耐えかねて消えるという意味と露が日に当たって消えるという意味が掛けられている。 精巧なレトリックを駆使して、恋心と消えゆく露を見事に重ね合わせてある。

吉野川岩波高く行く水ははやくぞ人を思ひ初めてし(恋、471、紀貫之)

「吉野川岩波高く行く水は」が「はやく」を導く序詞。ずっと前からあなたのことを想ってきました、 という本題に、急流のイメージと恋心の激しさを重ねている。

初雁のはつかに声を聞きしより中空(なかぞら)にのみ物を思ふかな(恋、481、凡河内躬恒)

「初雁」が音で「はつか」を導くとともに縁語関係で「中空」を導き、その「空」は 恋で心が上の空になっていることを表している。

君恋ふる涙の床に満ちぬればみをつくしとぞ我はなりぬる(恋、567、藤原興風)

「みをつくし」は、「澪標」と「身を尽くし」の掛詞。涙を海に喩えるとは大袈裟なとも思うが、 一方で、男が恋のために大泣きできる社会というのは、良い社会だと思う。これこそ日本の誇るべき伝統である。

五月山梢(こずえ)を高み時鳥(ほととぎす)鳴く音(ね)そらなる恋もするかな(恋、579、紀貫之)

「そらなる」に、ホトトギスの鳴き声が空高くから聞こえてくるということと、 恋心で上の空になっている(鈴木本)、あるいは恋に泣く自分の声が落ち着かない(そら)(小学館全集) ことを掛けてある。

君や来(こ)し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか(恋、645、よみ人知らず)
かきくらす心の闇に惑(まど)ひにき夢うつつとは世人(よひと)さだめよ(恋、646、在原業平)

在原業平と伊勢の斎宮との禁断の恋である。禁断と言いながら、勅撰和歌集に入れられているということは、 そこまでタブーではなかったということだろうか。逢瀬の翌朝に女性の方から歌を送り、業平がそれに返したもの。 タブーであったせいか、女性の歌はぶつぶつ切れていて激しい。業平はそれをしっかり受け止める。 「けむ」は、過去推量の助動詞。「思ほゆ」は、「思われる」。「かきくらす」は「真っ暗にする」。 「心の闇」は、愛情ゆえの迷いの比喩。「世人」は、「世間の人」。

かれはてむ後(のち)をば知らで夏草の深くも人の思ほゆるかな(恋、686、凡河内躬恒)

「かれ」に「枯れ」と「離(か)れ」を掛けるのは、後述の 790 番でも見られる技巧。 「枯れ」が「夏草」を導き、「夏草」が「深く」を導く。「思ほゆ」は、上述の 645 番と同じで「思われる」。 恋もやがて冷める時があるのを頭ではわかりながら、今の恋心が激しいことを、やがて秋には枯れるけれども 青々と繁茂する夏草に重ねて詠んでいる。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして(恋、747、在原業平)

月は昔の月ではないのか。春は昔の春ではないのか。私の身は元の身なのに。
昔通っていた女が後宮に上がって会えなくなった後、一年経ってまた春が巡ってきたときの感慨を詠ったもの。
鈴木本では、かなり詳しく解説してある。まず、この歌の「月や~春や~」の部分の解釈には二通りあって、 疑問説と反語説だ。上述の解釈は疑問説で、鈴木はどちらかといえば疑問説だという。私も直感的には 疑問説の方がしっくりくる。
鈴木の解説でなるほどと思ったのは、この歌をよくある型に当てはめて改悪してみた歌 「月も昔梅も昔の梅なれど人の心ぞ移ろひにける」との比較である。確かに改悪した方は 分かりやすいがインパクトに欠ける。業平の歌の方は、意味は分かりにくいけれど、 感情がこもっている感じがする。この比較によって、仮名序の業平評「そのこころ余りて、 ことば足らず。」の意味が分かる気がする。
この歌はこの特異さゆえか有名になって、『新古今和歌集』にはこれを基にした本歌取りの歌がけっこうある。 たとえば:

昔見し春は昔の春ながらわが身ひとつのあらずもあるかな(『新古今』雑、1450、清原深養父)
「昔見た春は昔のままだが、わが身は年老いてしまった」と老境を嘆く歌に変じたりしている。

唐衣なれば身にこそまつはれめかけてのみやは恋ひむと思ひし(恋、786、景式王(かげのりのおほきみ))

「唐衣・萎れ・まつはる・架けて」が縁語。「なれ」は、「馴れ」と「萎れ」の掛詞。 「かけて」は「(心に)掛けて」と「(衣桁に)架けて」の掛詞。 「やは~思ひし」は反語。
鈴木本と小学館全集で以下のように解釈が少し違う(以下のはそのままの引用ではなく、最初と最後が両方で一致するように調整したもの)。 恋の五巻目が失われた恋を扱った歌を集めてあることを考えると鈴木本の解釈が良いような気がするが、 小学館全集の方もありそうな気がする。
鈴木本:着慣れた唐衣が体にぴったりなじむようにあなたと慣れ親しむことができると思ったのに、 架けたままの衣のようにひたすら恋しく思い続けるだけで終わるとかつて思っただろうか。
小学館全集:着慣れた唐衣が体にぴったりなじむように馴染みを重ねた女なら私にまとわりつくのも当然だが、 衣掛けにちょっと架けてみた程度の彼女がこれほど心に掛かって恋しくなるだろうとかつて思っただろうか。

初雁のなきこそ渡れ世の中の人の心のあきし憂ければ(恋、804、紀貫之)

「なき」は、雁の「鳴き」と私の「泣き」の掛詞。「あき」は、心の「飽き」と「秋」の掛詞。 「初雁」は「秋」の縁語で、「渡れ」が「世」を導く。「世の中の人」はここでは恋人のこと。 古今集の典型的な技法が散りばめられた歌である。

さかさまに年もゆかなむとりもあへず過ぐる齢(よはひ)やともに帰ると(雑、896、よみ人しらず)

年月が逆向きに流れると良いな。捉えることもできずに過ぎる年齢が一緒に帰ってくるのではなかろうか。 「なむ」は、事態の実現を期待し望むことを表す終助詞。未然形に付く。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 めぐる季節の中で

『古今和歌集』基本情報

仮名序

紀貫之が書いたもの。和歌という自分たちの言葉で心を通わせる形式を創出した。

やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
生きとし生けるものいずれか歌をよまざりける。
男女(をとこをむな)の中をもやはらげ、たけき武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。

春の歌

134 首ある。

袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ(春、2、紀貫之)

夏から冬を経て、一年の始めの春へという季節の移ろいを一首の中に入れている。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる(春、41、凡河内躬恒)

「あやなし」は「道理が通らない、無益で意味がない」という意味の俗な言葉を使って驚かせながら、梅の花の香りと幻影を余韻として残す。

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(春、53、在原業平)

桜に浮き立つ心を反実仮想で表現している。

花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに(春、113、小野小町)

「ふる」に「降る」「経る」、「ながめに」に「長雨」「眺め」を掛けるという掛詞の妙技。

夏の歌

34 首しかない。うち 28 首はホトトギスの歌。

ほとどきす初声聞けばあぢきなくぬし定まらぬ恋せらるはた(夏、143、素性法師)

「あぢきなし」(「始末に負えない」という意味)という言葉で意表を突く。 相手もいないのに恋心が湧いてきた、と詠んでいる。
最後の「はた」は、テキストによれば、「また、一方で」という意味で、歌に軽やかなリズムを与えている。 一方、小学館全集によると、「そうはいっても」の意味で、第三句の前にあるべきものが倒置されている。 上に「初恋を聞いたのはうれしいが」などが省略されたもの、という解釈である。

はちす葉の濁りにしまぬ心もてなにかは露を玉とあざむく(夏、165、僧正遍昭)

蓮の花は、仏の教えの象徴。露を宝玉に見立ててもっともらしく和歌を詠む自分を茶化している。 「あざむく」は卑俗な言葉。

秋の歌

四季のうち最多の 145 首。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(秋、169、藤原敏行)

風の音の中に秋の兆しを聞き取る。

月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど(秋、193、大江千里)

「ちぢ(千々)」と「ひとつ」の対比が見事。月の美しさも詠み込んでいる。「歌合(うたあわせ)」で詠まれたもの。

秋風の吹きあげにたてる白菊は花かあらぬか波のよするか(秋、272、菅原道真)

「菊合(きくあわせ)」で詠まれたもの。景勝地として知られる吹上の浜(現在の和歌山市の紀ノ川の河口一帯) をかたどった洲浜にある白菊の姿を詠んでいる。白菊を波に模している。

冬の歌

昨日といひけふとくらしてあすか川流れて早き月日なりけり(冬、341、春道列樹)

新年を迎える喜びを感じながら、「飛鳥川」という古都の景色を想う。

第2回 恋こそ我が人生

恋の部

恋の歌は 360 首も収められている。恋は、恋愛よりも大きな世界を持っている。恋愛は二人だけで 完結するものだが、恋は一人だけの時もあれば、集団でする場合もある。

恋の歌は、恋の芽生えから別れまで、おおよその順番に従って配列されている。

恋の芽生え

ほととぎす鳴くや五月(さつき)のあやめ草あやめもしらぬ恋もするかな(恋、469、よみ人しらず)

「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草」は「あやめもしらぬ」を導く序詞。 「あやめ草」は、菖蒲のこと。邪気や疫病を払う力があるとされていた。「ほととぎす」は、 夏を告げる鳥であると同時に、死者を迎えに来る冥途の使いとも考えられていた。 したがって、歌全体としては恋に鬱々と悩むイメージになる。 「あやめもしらぬ」は、理屈ではどうにもならないという意味。

春日野の雪間(ゆきま)をわけて生(お)ひでくる草のはつかに見えし君はも(恋、478、壬生忠岑)

「春日野の~草の」は「はつかに」を導く序詞。「はつかに」は「わずかに」。 草花の芽生えと恋の芽生えが重ね合わされている。

雲に言寄せる恋

夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつ空なる人を恋ふとて(恋、484、よみ人しらず)

「はたて」は「果て」。「あまつ空」は、「天つ空」で「天空」のこと。手が届きそうにない人を想っている。

風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か(恋、601、壬生忠岑)

相手の心が冷めてきている様子を詠った。

夢に見る恋

思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢としりせば覚めざらましを(恋、552、小野小町)

夢と現の間をたゆたっている感じ。

うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき(恋、553、小野小町)

恋人が夢に現れるのは、相手が自分に思いを寄せている証拠だと信じられていた。 「頼みそめてき」は「あてにするようになってしまった」。

切迫した恋

命やはなにぞはつゆのあだ物を逢ふにしかへば惜しからなくに(恋、615、紀友則)

あなたと逢えるなら命と引き換えでも惜しくはないと、熱情を詠っている。「逢ふにし」の「し」は、上の語を強調する助詞。 「なくに」は「ないのに」。「命やは」「なにぞは」とぶつぶつ切ることで切迫したリズムを出している。

相思相愛の状態は、あまり和歌にはならない。心が通じ合っていると、言葉はいらない。

別れ

たのめこし言の葉今は返してもわが身古(ふ)るればおきどころなし(恋、736、典侍(ないしのすけ)藤原因香(よるか)朝臣)
今はとて返す言の葉拾ひおきておのがものから形見とや見む(恋、737、近院右大臣)

藤原因香はキャリアウーマン。最初のは、かつての夫の源能有が昔送ってくれたラブレターを全部返すときに詠んだ歌。 「おきどころ」には、「身の置き場所」と「手紙の置き場所」の二重の意味がある。 次のは、源能有による返歌。「おのがものから」は、「私が書いたものではありますが、」。 「形見とや見む」は、「あなたの形見だと思うことにしよう。」

時過ぎてかれゆく小野の浅茅(あさぢ)には今は思ひぞたえず燃えける(恋、790、小町が姉)

浅茅は、丈の低い茅(ちがや)。浅茅が広がる野では、春に野焼きが行われた。 この歌は焼けた茅の葉に結んで送られた。「かれ」には「枯れ」と「離(か)れ」が掛けられている。 「思ひ」の「ひ」には「火」が掛けられている。別れてもなお燃える思いが詠われている。

もろこしも夢に見しかば近かりき思はぬ中ぞはるけかりける(恋、768、兼芸法師)

「思はぬ中」は、「思いの通い合わないあの人との仲」。心の離れようが外国より遠いと表現している。

第3回 歌は世につれ、世は歌につれ

雑(ぞう)の歌

世の喜怒哀楽が詠まれている。

天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ(雑、872、良岑宗貞)

五節の舞姫とは、大嘗会や新嘗会で舞を披露する女性たちのこと。舞姫たちは未婚の貴族令嬢で、 なかなか姿が見られない。珍しい機会に少しでも長く見ていたいという気持ちが詠われている。 「吹きとぢよ」という言い方が面白い。吹き払うなどではない。宮中の秘儀を外に見せないような イメージが含まれているのではないか。
良岑宗貞は、僧正遍照が出家する前の俗名。

わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て(雑、878、よみ人しらず)

更級(今の長野県千曲市南部)の姨捨山に出る月を見ると心穏やかではいられない。 妻の口車に乗って、育ての親である叔母を捨ててきた山だから。姨捨山は、今の冠着山(千曲市と 東筑摩郡筑北村にまたがる山)とも言われているが、いずれにせよ都人にとっては遠い東国の山。

大空を照りゆく月し清ければ雲かくせども光消(け)なくに(雑、885、尼敬信)

月の清らかな光は雲で覆い隠されることはない。これは政治的な歌。 皇女彗子(あきらけいこ)が母の不祥事に連座し斎院を解任されかけるが辞めずに済んだことを受けて 尼敬信(きょうしん)が詠んだ。社会的機能を超越できる和歌の機能が発揮されている。 「大空」は宮廷社会、「月」は彗子、「雲」は罪に問われたことを指していると見られる。

ぼやきの歌

和歌はぼやきと愚痴の文学。理想があればこそ愚痴があるので、和歌は理想を詠っているとも言える。 マイナス思考の人は和歌に向いている。和歌は、理想を求めて祈る言葉。

しかりとてそむかれなくに事しあればまづ嘆かれぬあな憂世の中(雑、936、小野篁)

「しかりとて」は、「だからといって」。「そむく」は、世間に背を向けることで、当時としては、 出家することだろう。「嘆く」は、「嘆息する、ため息をつく」。小野篁は、漢詩の名人で、 閻魔大王に仕えていたという伝説がある。おそらく宮廷社会でトラブルが多かった小野篁が、 世情を嘆いている。歌の後半が「嘆かれぬ」「あな憂」でブツブツ切れているのも溜息っぽい。

山里はもののわびしきことこそあれ世の憂きよりは住みよかりけり(雑、944、よみ人しらず)

俗世のわずらわしさを思えば、隠棲している方が心穏やかでいられる。

いづこにか世をばいとはむ心こそ野にも山にもまどふべらなり(雑、947、素性法師)

世から逃れられる場所はない。

賀の歌

わが君は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで(賀、343、よみ人知らず)

「君が代」の元歌。とはいえ、ここの「君」は、天皇や主君に限らず、敬愛する相手、自分にとって大事な人を指す。 大事な人のためにありえないことを祈る。
小さな石が巨岩になるという伝説は、唐の随筆『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』によるとのこと。 その伝説とされているものは、東洋文庫版だと 4 巻の「続集巻二 31B 支諾皐中 鬼神妖怪の記録拾遺 中 九〇一話」 として収録されているもののようだ。

哀傷歌

死者を悼む歌。

深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(哀傷、832、上野岑雄)

藤原基経の死を悼む歌。桜を擬人化している。 『源氏物語』でも、光源氏が藤壺の死を悼むときに引用されている。

羇旅歌

旅の歌。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも(羇旅、406、安倍仲麿)

安倍仲麿が望郷の思いを詠ったもの。仲麿は中国から帰ろうとするときにこの歌を詠んだが、 船が難破して結局一生日本に帰れなかった。

楽しい歌

みよしのの吉野の滝に浮かびいづる泡をか玉の消ゆと見つらむ(物名、431、紀友則)

「物名(もののな)」はお題の名前を歌の中に隠して詠む遊び。ここでは「をがたまの木」が 「泡」に続く「をか玉の消」に隠れている。

枕よりあとより恋のせめくればせむ方なみぞ床中(とこなか)にをる(誹諧歌、1023、よみ人しらず)

「あと」は「足」のこと。「枕」はこの場合「頭」を指す。作者は恋煩いに陥っているのだろう。 作者が布団の中で丸まっている姿を想像すると面白い。
「誹諧」の「誹」は「そしる」、「諧」は「ととのっている」。これは、「ボケ」と「ツッコミ」を 表現しているのではないか。

第4回 女の歌は「強くない」のか?

ゲストに高樹のぶ子(作家)を迎えて、女の歌を見てゆく。紀貫之は、仮名序で女の歌は強くないと 書いているが、そんなことはない。

女どうしの友情

久方の中に生(お)ひたる里なれば光をのみぞたのむべらなる(雑、968、伊勢)

「久方の」は「月」の枕詞だが、この場合「月」を指す。月には桂が生えるという伝承を踏まえて、 「桂」という地名の場所にいる「私」が、相手の温子を月に見立てて讃えた歌。温子からの見舞いの手紙への返事。

あかざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなき心地する(雑、992、陸奥)

女友達とおしゃべりをしたけど、まだ話し足りない気持ちを、自分の魂を相手の 衣の中に残してきたようだと詠っている。法華経の「衣の裏の珠の譬え」を踏まえている。 玉(=魂=法華経の教え)は身近な衣(=袖)の中にあるのだということ。

小野小町

高樹のぶ子は、小町を題材に小説『百夜(ももよ)』を書いた。

確実に小野小町が詠んだとされる和歌は『古今和歌集』にある 18 首と『後撰和歌集』の 4 首のみ。

あはれてふ言(こと)こそうたて世の中をおもひはなれぬほだしなりけれ(雑、939、小野小町)

小説『百夜』では、小町が男に襲われた後に詠った歌だとしている。哀れという言葉ゆえ、 この世を捨てることもできない、と詠う。「あはれ」には複雑な思いが混ざっている。

わびぬれば身をうき草の根を絶えてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ(雑、938、小野小町)

文屋康秀が三河に赴任するときに、一緒に地方視察に来ないかと出した手紙への返事。 康秀の手紙はやや腰の引けた誘い方だった。小町は「本気にしますよ。本当によろしいのですか。」 という感じで返している。康秀の誘いがあまり本気そうではなかったので、戯れている感じがある。

藤原高子(ふじわらのたかいこ、二条后)

藤原高子は、清和天皇の后で陽成天皇の母。和歌のサロンを開き、自分も歌人だった。

雪の内に春はきにけり鶯のこほれる涙今やとくらむ(春、4、二条后)

凍っていた鶯の涙が融けるというありえない情景をえがくことで、春の兆しを空想している。 春を待つ初々しさが感じられる。

ちはやぶる神代もきかず竜田河韓紅(からくれなゐ)に水くくるとは(秋、294、業平朝臣)

二条后のサロンで在原業平が詠んだ歌。紅葉の映える川を括り染めに喩えている。 韓紅は鮮やかな赤。「神代もきかず」は「神代にも聞いたことがない」という意味。

別れの歌

朝なけに見べき君としたのまねば思ひたちぬる草枕なり(離別、376、寵)

つれなくなった恋人「藤原のきみとし」を残して常陸に旅立とうとする女性の歌。 「朝なけに」の「け」は「昼」の意味。「君とし」には、相手の名前の「きみとし」を掛ける。 「思ひたち」には「常陸」を掛ける。「草枕」は、草を枕として野宿すること。

命だに心にかなふ物ならばなにか別れのかなしからまし(離別、367、白女)

生きて再会できるかどうかわからないので、別れが悲しい。白女は芸能者。 男が湯治に行くときに、永遠の別れであるかのように演出している。