「100分de名著」では、以前『旧約聖書』
が取り上げられたことがあり、今度はいよいよ新約聖書ということだろう。
解説者が、聖職者でも宗教学者でもない若松氏というのが、この番組らしい点である。
でも若松氏はカトリック教徒ではあるらしい。それで、解説も神父風である。
だから聖書に寄り添い過ぎているようにも思う。もうちょっと醒めた分析も聞きたかった気はする。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 悲しむ人は幸いである
「新約聖書 福音書」基本情報
- 「福音」=喜びの知らせ=救世主イエスが生まれたこと。
- 内容は、救世主イエスの生涯を伝えるもの。
- マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つがある。
- イエスの死後、紀元1世紀後半~2世紀頃成立。
- イエスの生涯には大きく分けて、誕生、受洗、宣教、奇跡、受難、復活の6つの部分がある。
イエスの誕生
- 神の使いが羊飼いたちのところにやってきた。そして、救世主が来たことを告げた。
- イエスは、ベツレヘムで乙女マリアから誕生する。
- ヘロデ王は「旧約聖書」の預言が成就することをおそれ、イエスの命を狙った。
- イエスの父ヨセフの夢に主の使いが現れ、エジプトに逃げるように告げたので、そのようにした。
- ヘロデ王の死後、イエスはナザレで育つ。
イエスは平等な世界の王だから、俗世の王であるヘロデはイエスをおそれた。
イエスの受洗
洗礼者ヨハネは語る。「わたしは水であなた方に洗礼を授けるが、わたしよりも力のある方が来られる。
(中略)その方は聖霊と火で、あなた方に洗礼をお授けになる。」
イエスの宣教と奇跡
- イエスは宣教の旅に出る。彼は、ガリラヤの全土であらゆる病の人を癒した。
- イエスは山の上で群衆に語りかける。
- 「自分の貧しさを知る人は幸いである/天の国はその人たちのものである」;貧しさ=心のありようの不完全さ。
われわれは自分だけでは生きていけない。人々とともに生きて行かざるを得ないということを知る人間は幸いである
ということを言っている。天の門は手を携えている人々に開かれる。
- 「悲しむ人は幸いである/その人たちは慰められる」;ある人の死を悲しむということは、その人を愛していたということ。
みんな心が弱いということがイエスのメッセージではないだろうか。
- 「義に飢え渇く人は幸いである/その人たちは満たされる」;義は、神の前の平等。等しさを求める人は満たされる。
イエスは苦しむ人の立場に立つ。
- 病に苦しむ人の立場に立つ
- 月経の出血がなかなか止まらない女がいた。彼女がイエスの衣に触れると、病気が治った。
- イエスは衣に触れた人を探した。女はありのままを話した。そこでイエスは言った。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」
- 罪に苦しむ人の立場に立つ
- マタイは徴税人だから嫌われた。イエスは彼を弟子にした。
- ユダヤ教のファリサイ派の人は「なぜ罪人や徴税人と食事を共にするのか」と問うた。
イエスは答えた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。」
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」
- 罪人(つみびと)=的を外して生きている人々。
- イエスは裁かない。
第2回 魂の糧としてのコトバ
井筒俊彦が「コトバ」という概念を作った。これは、通常の「言葉」よりも意味が広く、
たとえば、画家にとっては、色がコトバ。音楽家にとっては、旋律がコトバ。
コトバは、事実以上の真実を語るもの。コトバは経験を総動員して読むもの。
コトバ
イエスのことば:
- 荒れ野にて「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる。」
- サマリア人の女に向かって「わたしが与える水を飲む人は永遠に渇くことがない。」
- 弟子たちに向かって「わたしにはあなた方の知らない食べ物がある。」
もう一つの食べ物とはコトバのことではないか。コトバはわたしたちの重要な糧。
初めにみ言葉があった。
み言葉は神とともにあった。
み言葉は神であった。
み言葉は初めに神とともにあった。
(ヨハネ:1:1-2)
み言葉=ロゴス(理法)。
この世はみ言葉によってできたが、
この世はみ言葉を認めなかった。
み言葉は自分の民のところに来たが、
民は受け入れなかった。
(ヨハネ:1:10-11)
わたしたちは頭を使う。でも、コトバは頭だけでは理解できない。
人々は、受け入れなければならないものをしばしばはねのける。
パンと魚の奇跡
イエスは5つのパンと2匹の魚を皆に分け与えた。すると、皆は満腹するまで食べた。
そして、残ったパン切れと魚を集めると12の籠にいっぱいになった。
パンを食べた人は、男5千人であった。
[解釈]
- イエスのコトバを受け取った人が充足を感じた。
- 分かち合いで心が満たされる。
コトバと永遠の命
百人隊長がイエスに近づいた。彼は、病気で苦しむ僕(しもべ)のためにお言葉をください、と言った。
イエスは言った。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕は癒された。
[解釈]
- 百人隊長はコトバを受け止められる人だった。
- コトバこそ朽ちることがない。
- 宮沢賢治「永訣の朝」より「おまへがたべる このふたわんのゆきに/わたくしはいまこころからいのる/
どうかこれが兜率の天の食(じき)に変わって/やがてはおまへとみんなとに聖(きよ)い資糧をもたらすことを/
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」
- 賢治も「福音書」に親しんだ。コトバは、生きている人と死んだ人をつなぐ。
- コトバは長く響く。
第3回 祈りという営み、ゆるしという営み
祈りとは何か?神の言葉を聞くこと。
神殿で商人を追い払うイエス
過越の祭りが近づいたので、イエスはエルサレムに行った。そして神殿で商売している人を蹴散らした。
「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(ヨハネ2:13-16)
[解釈]
- 牛、羊、鳩は神への捧げ物。イエスは、神には捧げ物は要らないと言った。
- マイスター・エックハルト (1260頃--1328頃) によれば、神殿は私たちの魂。
- イエスは、皆平等に救われるのだと信じた。だから、お金とは関係ない。
隠れて祈る
あなたは祈るときは奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。(マタイ6:6)
[解釈]
- 信仰は神に対する信頼。
- 人に見せるために祈ってはいけない。
- くどくど祈ってはいけない。何も言わなくても、神はあなたが本当に必要としているものを知っている。
ゲツセマネの祈り
イエスは処刑の前、神に祈った。「アッバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。
わたしからこの杯を取り除いてください。しかし、わたしの思いではなく、み旨のままになさってください。」
(マルコ14:36)
[解釈]
- アッバ=お父ちゃん、杯=苦しみ。
- 信仰は神に対する信頼。神は、自分の願いを超えている。
- 神と出会うことは、自分と出会うこと。
ゆるし
「あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい。」
すると、人々は去っていった。(ヨハネ8:7-9)
[解釈]
- 女性だけが姦通罪に問われる時代だった。これはユダヤ教の律法。
- イエスは、良心に反することも罪なのではないかと言っている。
- 赦すことは、その人がその人自身に戻る機会を失わせないこと。
- 「人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださる。」(マタイ6:14)
第4回 弱き者たちとともに
イエスは、いつも弱い人に寄り添う。
善きサマリア人
暴行を受けて倒れていた人を、祭司やレビ人が見て見ぬふりをしたのに、サマリア人が助けたという物語。(ルカ10:30-37)
[解釈]
- サマリア人とは、異邦人とユダヤ人との間に生まれた人々で、差別されてきた。
- レビ人は、ユダヤ人社会の中でも高い立場にいる人々。
- 人間が考える信仰心よりも良心の方が神の道に近い、とイエスは言っている。
最後の晩餐~受難
十二使徒(十二人の選ばれた弟子)は優れているわけではない。イエスは愚かな人を選んだのではないか。
最後の晩餐の時、イエスは、あなたたちの一人が私を裏切ろうとしている、と言った。「人の子を裏切るその人は不幸である。
むしろその人は、生まれなかったほうがよかったであろう。」(マルコ14:17-21)
オリーブ山へ向かったイエスは、弟子たちがイエスを見捨てることを予言した。(マルコ14:29-31)
人々がイエスを捕えにやってくる。その中にはユダがいた。(マタイ26:49-50)
[解釈]
- ユダが裏切った。ペトロもイエスとの関係を否認した。弟子たち全員がイエスを裏切ることになった。
弟子たちは、イエスを置いて逃げ去った。
- ユダは、優しい人だった。ユダにはユダの理想があった。ユダも人間の悲劇の中にあった。
- イエスは、ユダにも「友よ」と呼びかけた。イエスは、死を裏切らねばならなかったユダの苦しい思いに寄り添った。
- 聖書をユダの立場から読むことをお勧めしたい。
- イエスは律法を破ったので処刑された。神をないがしろにしているように見られた。
受難~復活
十字架にかけられたイエスは「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言ったあと、
大きく叫んで絶命した。(マルコ15:33-39)
イエスは三日後、復活した。
[解釈]
- イエスは、死ぬときに弱音を吐いている。人は立派に死ぬ必要はないということを教えてくれている。
- 皆が十字架を背負って生きている、ということを教えてくれている。
ただひとつの掟
わたしがあなた方を愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である。
(中略)わたしが命じることを行うなら、(中略)わたしはあなた方を友と呼ぶ(ヨハネ15:12-15)
[解釈]
- イエスは、神を愛せとは言わない。人を愛せと言う。
- 神は、人と人との間にいる。