「100分de名著」では、以前『旧約聖書』 が取り上げられたことがあり、今度はいよいよ新約聖書ということだろう。 解説者が、聖職者でも宗教学者でもない若松氏というのが、この番組らしい点である。 でも若松氏はカトリック教徒ではあるらしい。それで、解説も神父風である。 だから聖書に寄り添い過ぎているようにも思う。もうちょっと醒めた分析も聞きたかった気はする。
著者 | 若松 英輔 |
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シリーズ | NHK 100分de名著 2023 年 4 月 |
発行所 | NHK 出版 |
電子書籍 | |
刊行 | 2023/04/01(発売:2023/03/25) |
入手 | 電子書籍書店 honto で購入 |
読了 | 2023/04/30 |
「100分de名著」では、以前『旧約聖書』 が取り上げられたことがあり、今度はいよいよ新約聖書ということだろう。 解説者が、聖職者でも宗教学者でもない若松氏というのが、この番組らしい点である。 でも若松氏はカトリック教徒ではあるらしい。それで、解説も神父風である。 だから聖書に寄り添い過ぎているようにも思う。もうちょっと醒めた分析も聞きたかった気はする。
イエスは平等な世界の王だから、俗世の王であるヘロデはイエスをおそれた。
洗礼者ヨハネは語る。「わたしは水であなた方に洗礼を授けるが、わたしよりも力のある方が来られる。 (中略)その方は聖霊と火で、あなた方に洗礼をお授けになる。」
イエスは苦しむ人の立場に立つ。
井筒俊彦が「コトバ」という概念を作った。これは、通常の「言葉」よりも意味が広く、 たとえば、画家にとっては、色がコトバ。音楽家にとっては、旋律がコトバ。 コトバは、事実以上の真実を語るもの。コトバは経験を総動員して読むもの。
イエスのことば:
もう一つの食べ物とはコトバのことではないか。コトバはわたしたちの重要な糧。
初めにみ言葉があった。
み言葉は神とともにあった。
み言葉は神であった。
み言葉は初めに神とともにあった。
(ヨハネ:1:1-2)
み言葉=ロゴス(理法)。
この世はみ言葉によってできたが、
この世はみ言葉を認めなかった。
み言葉は自分の民のところに来たが、
民は受け入れなかった。
(ヨハネ:1:10-11)
わたしたちは頭を使う。でも、コトバは頭だけでは理解できない。 人々は、受け入れなければならないものをしばしばはねのける。
イエスは5つのパンと2匹の魚を皆に分け与えた。すると、皆は満腹するまで食べた。 そして、残ったパン切れと魚を集めると12の籠にいっぱいになった。 パンを食べた人は、男5千人であった。
[解釈]
百人隊長がイエスに近づいた。彼は、病気で苦しむ僕(しもべ)のためにお言葉をください、と言った。 イエスは言った。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕は癒された。
[解釈]
祈りとは何か?神の言葉を聞くこと。
過越の祭りが近づいたので、イエスはエルサレムに行った。そして神殿で商売している人を蹴散らした。 「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(ヨハネ2:13-16)
[解釈]
あなたは祈るときは奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。(マタイ6:6)
[解釈]
イエスは処刑の前、神に祈った。「アッバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。 わたしからこの杯を取り除いてください。しかし、わたしの思いではなく、み旨のままになさってください。」 (マルコ14:36)
[解釈]
「あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい。」 すると、人々は去っていった。(ヨハネ8:7-9)
[解釈]
イエスは、いつも弱い人に寄り添う。
暴行を受けて倒れていた人を、祭司やレビ人が見て見ぬふりをしたのに、サマリア人が助けたという物語。(ルカ10:30-37)
[解釈]
十二使徒(十二人の選ばれた弟子)は優れているわけではない。イエスは愚かな人を選んだのではないか。
最後の晩餐の時、イエスは、あなたたちの一人が私を裏切ろうとしている、と言った。「人の子を裏切るその人は不幸である。 むしろその人は、生まれなかったほうがよかったであろう。」(マルコ14:17-21)
オリーブ山へ向かったイエスは、弟子たちがイエスを見捨てることを予言した。(マルコ14:29-31)
人々がイエスを捕えにやってくる。その中にはユダがいた。(マタイ26:49-50)
[解釈]
十字架にかけられたイエスは「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言ったあと、 大きく叫んで絶命した。(マルコ15:33-39)
イエスは三日後、復活した。
[解釈]
わたしがあなた方を愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である。 (中略)わたしが命じることを行うなら、(中略)わたしはあなた方を友と呼ぶ(ヨハネ15:12-15)
[解釈]