Suchet テレビドラマ版が NHK BS で放映されていた時、見損なったのがあったのが、先日 BS11 で放映されていたので、 以前読んだ『ポアロ登場』から3編のみを再読し、 原作とテレビドラマ版の違いをチェックしてみた。
首相誘拐事件
誘拐された首相を Poirot が格好良く救出する一編。
以下、気付いたことを3点。ページ番号は、電子版を全 275 ページで表示したときのページ番号。
- David MacAdam (p.155)
- 小説は、第1次世界大戦中の国家の一大事という想定である。第1次世界大戦中のイギリスの首相は、 現実の世界では Herbert Henry Asquith (在任 1908-1916) と David Lloyd George (在任 1916-1922) である。 小説に出てくる首相の名前は David MacAdam だが、小説内では立派な首相ということになっていることや first name が David であることから、戦争を終結に導いた Lloyd George がモデルだと考えるのが妥当であろう。
- a dandy (p.156)
- Poirot はとびきりの a dandy であると書かれている。a dandy は、服装や外見に気を使う人ということだが、 OALD によれば、old-fashioned な単語だそうだ。真崎訳は、カタカナで「ダンディ」。とはいえ、カタカナの 「ダンディ」とはちょっと違いそうである。日本語の「ダンディ」は褒め言葉だが、英語の dandy は「中身が無く服にしか 気を使わない人」という意味で茶化すニュアンスがあるそうだ。
- cottage hospital (p.163)
- 診療所(真崎訳)。主にイギリスで見られる田舎の小さな診療所で、住み込み医がいないのが普通 (ジーニアス英和大電子版)。もともと、田舎での応急手当の対応や地元民への親身の対応を目的とした ものらしい( Wikipedia「Cottage hospital」)。
Suchet テレビドラマ版
Suchet 版は第18話「誘拐された総理大臣」(脚本 Clive Exton)。
テレビドラマ版は、原作と異なる点がいろいろあるが、ほとんどすべて 原作が不自然なところを修正したのだろうと想像できる。 そうした修正の結果、ずいぶん原作よりストーリーとしては良くなっている一方で、 クリスティらしい洒落た感じが失われた部分もある。 原作の進行と対比しながら、そういう点をまとめておく。
原作の設定とその不自然な点など | ドラマ版の進行とその改変効果など |
---|---|
第一次世界大戦中という設定。しかし、戦争中にイギリスの首相が ヴェルサイユで演説をする意味がどれほどあるのか、あるいはそう簡単に首相がフランスに 行くことができたのか、不明である。 | 第一次世界大戦後に、首相がパリに行って国際連盟の軍縮会議に出席することになっているという設定。 ドイツの再軍備を阻止するのが目的。1920 年代から 30 年代初頭にかけて何度も国際的な軍縮会議が 開催されているという意味ではリアルな設定である。 |
夜の9時頃に Poirot のアパートに下院議長の Lord Estair と閣僚の Bernard Dodge が Poirot の アパートにやってきて、捜査の依頼をする。極秘の依頼にもかかわらず、Hastings も同席する。 いくら緊急の依頼とはいえ、状況が不自然ではなかろうか。 | 昼間、Poirot が洋服屋からアパートに戻ってみると、外務事務次官 Sir Bernard Dodge から呼び出しがかかっている。 そこで Poirot は、一人で役所に向かう。そこには Lord Estair もいて、Poirot は二人から捜査依頼を受ける。 こちらの方が、状況としては自然である。 |
捜査の過程で Poirot と Hastings と行動を共にするのは、Detective Barnes と Major Norman である。 | 捜査の過程で Poirot と Hastings と行動を共にするのは、Japp 警部と Sir Bernard Dodge である Japp 警部はいつもの登場人物、Sir Dodge は Poirot の捜査方法を見てイライラを募らせるお偉いさんということで、 ドラマの進行をユーモラスにするのに一役買っている。 |
捜査は、依頼を受けた夜9時に始まり、翌日夜9時がタイムリミットである。しかも、その間、一度フランスに渡り、 またイギリスに戻るということをしているために、最後に首相の居場所を突き止めるまでが異常に速く、 Poirot がどうやってそこを突き止めたのかもはっきりしないことになっている。 | 捜査は、依頼を受けた正午ごろに始まり、翌日夜8時半がタイムリミットで、32 時間余りの時間がある。 Poirot はフランスに渡らず、Dover でゆっくり推理をする。さらに、首相の居場所を突き止める過程がより 具体的に描かれている。Poirot は Daniels 夫人に目を付け、素性を探り、その父親の屋敷に首相が閉じ込められていると 推理する。 |
Poirot らは、夜中に Dover に行って、夜明けに Boulogne に着く。そこで Poirot は5時間熟考し、イギリスに戻る。 午後3時に London に戻って、すごい勢いで診療所を訪ねて回り、その後一直線に首相がいる場所に向かって、首相を救出し、 また一目散に飛行場に行く。London に帰ってからの行動が時間がいかにも足りなさそうである。 | Poirot らは、まずイギリスにおける襲撃現場を検証し、Poirot は Dover で熟考する。フランスへは渡らず、 首相を診た診療所が存在しないことを確認する。その夜、Poirot はゆっくり寝る。 翌朝、Hastings に Daniels 夫人を尾行させるとともに、Daniels 夫人の素性を調べることで、首相がいるのは、 Daniels 夫人の父親の旧宅の廃墟であると推理する。 |
犯行の首謀者は Captain Daniels(ダニエルズ大尉)となっている。しかし、彼の犯行の動機が今一つはっきりしていない。 一応、彼はドイツのスパイで、連合国の会議を撹乱するためとなっているが、あまり詳しく書かれていない。なお、イギリス軍の階級は複雑で Wikipedia によれば、海軍・空軍では大佐、陸軍・海兵隊では大尉である。 Daniels は陸軍にいたという記述があるので、大尉となる。 | 犯行の首謀者が原作には登場しない Daniels 夫人に変わっている。彼女の旧姓はドナヒュー。アイルランド人で、 コネマラ伯爵の三女ということになっている。彼女は、アイルランドの愛国者で、イギリスを困らせるのが目的で、 ドイツの再軍備にはあまり関心が無い。Daniels 夫人は、最後に Erin go bragh(アイルランドよ、永遠に)と叫んで自決。 Daniels 自身については、従犯で、父親がアイルランド問題で失脚した政治家だったということにしてある。 というわけで、原作よりも動機に説得力を持たせてある。なお、Daniels の地位も Commander(海軍・空軍の中佐)に変わっている。 この改変の理由はよくわからない。 |
イギリスにおける首相の運転手は O'Murphy。彼はアイルランド人で、犯行の被害者。 | 運転手の名前をなぜか John Patrick Egan に変えてある。彼は、アイルランド人で、犯行グループの一人にしてある。 |
首相が救出されたとき、Hastings はそのことに気付かず、飛行場で初めて気付く。 この演出は、いかにも Poirot ものらしく洒落ているが、あまり現実的とは言えない。 | 首相が救出されたとき、そのことは当然 Hastings にもわかり、飛行場の場面は無い。 原作のお洒落な演出は無くなったが、より現実的ではある。 |
〈西洋の星〉盗難事件
Hastings が間抜けな役を演じてしまうユーモラスな一編。
以下、英語に関して2点。ページ番号は、電子版を全 275 ページで表示したときのページ番号。
- One eye shall go West, the other East, till they shall meet once more. Then, in triumph shall they return to the god. (pp.15-16)
- 犯人がでっち上げたロマンチックな伝説。助動詞 shall を効果的に使って、いかにも厳めしい伝説風である。 試しに訳してみると「一方の眼は西に、他方は東に行くべし。やがて二つは再び相まみゆべし。さすれば、 二つは神のもとに凱旋すべし。」となった。
- Chinaman (数か所)
- 犯人がでっちあげた盗難事件の犯人が中国人 (Chinaman) ということにされている。 辞書によれば、現在では Chinaman は侮蔑的な語と考えられているようだ。本小説の中での使われ方も 侮蔑的である。Christie の人種差別意識を反映しているのだろうか。Suchet テレビドラマ版でも Chinaman と言っている。
Suchet テレビドラマ版
Suchet 版は第19話「西洋の星の盗難事件」(脚本 Clive Exton)。
このテレビドラマ版は、「西洋の星」が盗まれる(ように見える)ところまでは、原作にかなり忠実だが、 事件解決部分を原作とだいぶん変えてある。
まず、登場人物関係で以下の改変がある。
- 怪しげなダイヤモンドの取引を行う Van Braks という原作に無い人物が出てくる。 Japp 警部が彼を冒頭からずっと追っており、最初と最後で逮捕するが、 いずれも嫌疑不十分で釈放される(最後の逮捕の方は、結末がどうなるかわからないが、 結果的に彼は悪いことをしていないので、釈放されるのだろう)。
- 原作には登場しない Japp 警部が登場する。
- 原作ではアメリカの映画スターである Mary Marvell と Gregory B. Rolf が ベルギーの映画スターということに変えてあり、綴りが Marie Marvelle と Gregorie Rolf に なっている。そのため、Poirot は Marie Marvelle に会う時に非常に気を遣う。 その様子がユーモラスに描かれている。
- Yardly 夫妻の綴りは Yardly なのだが、なぜか屋敷の最寄りの駅名は Yardley Halt になっている。 つまり Yardley に e が入っている。
次に、事件解決部分には次の大きな改変が加えられている。
- 原作では、Poirot はいきなり本物のダイヤモンド「東洋の星」を Lord Yardly に返す。 その後、Hastings に種明かしをして小説が終わる。テレビドラマ版としては、それでは あっさりしすぎているし、時間も余ったのであろう。改変して解決編を長くしてある。
- ドラマ版の解決編では、まず、Lady Yardley が Poirot を訪ねてきて、自分の嘘を告白する。 東洋の星は3年前に Rolf に渡したのだと。そして、前夜、中国人に襲われたふりをしたのは Rolf と仕組んだ茶番だったのだと。もちろん Poirot はそのことを察していた。
- 次に、Poirot は Rolf に話をして、ダイヤを返せと言うが、Rolf はしらを切る。
- さらに、Poirot は Hoffberg に悪事から手を引かなければ、警察に言うと脅す。
- Rolf は Hoffberg に仲介を断られたので、Van Braks と直接電話をして、クロイドン空港で会うことにする。
- Poirot はホテルに行って、Marie Marvelle にダイヤモンドと Rolf に関する真相を告げる。
- Poirot は Lady Yardly に本物のダイヤモンドを返す。Poirot は Hoffberg のところで本物と贋物をすり替えていた。
- Van Braks は、クロイドン空港で Rolf が持ってきたダイヤモンドが贋物だと気付く。
- Japp 警部が Van Braks と Rolf を空港で捕まえる。が、ダイヤモンドが贋物だったので意味がなさそうということになる。
百万ドル債券盗難事件
Poirot が4人の関係者に話を聞いただけであっさり債券盗難事件の犯人を当ててしまう話。
以下、英語に関して2点。ページ番号は、電子版を全 275 ページで表示したときのページ番号。
- You are on the -- how do you say it? -- get-richi-quick tack, eh, mon ami? (p.96)
- 「きみは―なんと言うんだっけ?―そう、一攫千金でも狙いたいのか?」(真崎訳)。 get-rich-quick は「一攫千金の」という意味の俗語(ジーニアス英和大電子版)。 1890 年代から使用例がある (OED)。ということは、Christie の時代には比較的新語だったのだろう。 tack は、この場合「針路、方針、政策」という意味(ジーニアス英和大電子版)だが、 船が出てくる話なので、帆船用語の tack にも少し引っ掛けてあるのかもしれない。
- Liberty Bond (p.96)
- Wikipedia によると、Liberty Bond (自由公債)とは、第一次世界大戦で連合国(協商国)を支援するために、 アメリカ合衆国で販売された戦時公債だそうである。そういうものだとすると、なぜイギリスからアメリカに 送るという話になるのかがよくわからない。この Wikipedia の記述とは異なる Liberty Bond があるのだろう。
Suchet テレビドラマ版
Suchet 版は第22話「100万ドル債券盗難事件」(脚本 Anthony Horowitz, Clive Exton)。
原作は、Poirot が関係者に少し話を聞いて回るだけで事件が解決してしまうという あっさりしすぎたものだったので、そのままではテレビドラマになりにくい。 そこで、このテレビ版では、犯罪の筋書きはほぼ原作通りでありながら、たくさんの 肉付けがなされている。その主なポイントをまとめておく。
- 原作では、Poirot は盗難事件発生後に捜査の依頼を受けるのだが、 Suchet 版は、Poirot が事件発生前から事件に関わるという話にしてある。 その変更はやや不自然なのだが、Suchet 版では Poirot を事件発生現場の近くに いさせるということをしばしばやっていて、この回もそれにしたということである。 それを導く仕掛けとしては、London and Scottish Bank の共同支配人の一人である Mr. Shaw が危うく車に轢かれそうになるという事件を冒頭に持って来ている。 そういう殺人未遂事件があり、かつ百万ドル債券が盗難される可能性があるからということで、 Poirot は London and Scottish Bank から債券の警備依頼を受ける。 それでも不自然さが否めないので、Poirot は "This is most unusual." と言っている。
- Mr. Ridgeway が債券を持ってロンドンからニューヨークに向かう船の名前を The Olympia から The Queen Mary に変更している。Mr. Ridgeway は、実在の豪華客船 The Queen Mary の処女航海に乗ったという話になっており、 当時のニュース映像がドラマでも使われている。その処女航海は 1936 年で、原作刊行年よりも後である。 Poirot と Hastings もその処女航海に乗ったことになっている。
- Hastings は、The Queen Mary に乗るのを楽しみにしていたのに、船酔いに苦しむ。 Poirot は、乗船前は船酔いを心配して乗船を嫌がっていたが、平気だった。 その対比がユーモラスに描かれている。
- 原作では、警察の McNeil 警部が事件を担当する。これに対し、Suchet 版では McNeil は London and Scottish Bank の警備主任になっており、彼は部外者の Poirot が債券の警備に 関わることに不満を持っている。
- Philip Ridgeway の婚約者の名前が Esmée Farquhar から Esmée Dalgleish に変わっている。 どうして変えてあるのかわからないが、どちらもスコットランド系の苗字のようである。
- Philip Ridgeway にギャンブル癖があって借金があり、借金取りに追われているという 設定が加わっている。そのために、(1) Philip Ridgeway が盗みを行うという動機があるという話になっており、 (2) Esmée が彼から嫌疑を逸らせるために Mr. Vavasour が持っていた鍵を盗むという話が加えられ、 (3) イギリスに戻って来た彼を借金取りから逃すために Poirot が彼を警察に逮捕させるという話が加わっている。
- Mr. Shaw は、原作では気管支炎で寝込んだことになっているのだが、Suchet 版では 毒のストリキニーネをコーヒーに盛られて療養することになっている。
- 原作では、Mr. Shaw は、自ら The Olympia に乗り込み、Mr. Ridgeway の鞄を空にして中身を海に投げ捨てる ことになっているが、Suchet 版では、共犯者の Long 看護師(船中では変装して Miss Miranda Brooks)が それを行うことになっている。Long 看護師は Mr. Shaw と婚約しているという設定だ。 この人物は、原作には出て来ない。
- 原作では、本物の債券は The Gigantic 号でニューヨークに郵送されることになっているが、 Suchet 版では、本物の債券がどこへ行ったかは語られない。
- 原作では、債券は、Mr. Ridgeway の目の前で封をされたと書いてあるが、誰が鞄に詰めたのかは 明記されていない(受動態で書かれている)。ドラマ版では、Mr. Vavasour が鞄に詰める。 しかし、彼は目が悪かったので、それが偽物であることに気付かなかったということになっている。