小倉訳はずいぶん前に何度か読んだのだが、今回は Suchet 版テレビドラマを見つつ、真崎新訳と比べつつ読んでみた。 ポアロものの初期の短編集である。ポアロものの初期短編のうちから出来の良いものを選んで、最初の短編集として 出版したものであろう。
シャーロック・ホームズシリーズを意識したと思われる作品も多く、それらの比較も読みどころである。
Poirot Investigates イギリス版は 11 編、アメリカ版はそれに 3 編加えた 14 編、早川クリスティー文庫版(真崎新訳)はアメリカ版と同じ 14 編、 早川ポケットミステリ版(小倉訳)はそれから『<西洋の星>盗難事件』を除いた 13 編を収録する。 イギリスでは、残りの 3 編は Poirot's Early Cases の中に収録されている。
<西洋の星>盗難事件 The Adventure of 'The Western Star'
近接して起こった2つのダイヤ盗難事件のつながりをポアロが暴く。 ヘイスティングスが、道化役とミスリード役をしている。最後に、ヘイスティングスがポアロに ずっとからかわれていたことに気付いて怒るところがユーモラスで印象的である。真崎訳も よくはまっている。以下、最後の段落。
[原文] "I'm fed up!" I went out, banging the door. Poirot had made an absolute laughingstock of me. I decided that he needed a sharp lesson. I would let some time elapse before I forgave him. He had encouraged me to make a perfect fool of myself!
[真崎訳] 「もうたくさんだよ!」私は部屋を出て力任せにドアを閉めた。ポアロは私を徹底的に笑いものにしたのだ。 私は、彼に思い知らせてやろうと心に決めた。当分のあいだ、ぜったいに許さないぞ。すっかりその気にさせたあげくに、 笑いものにしやがって。
この小説はこの第一短編集の最初に置かれているが、雑誌初出は最初ではないので、過去の事件に対する言及がある:
- 短編集『教会で死んだ男』の中の 短編『クラブのキング』の登場人物ヴァレリー・サンクレアの名前が出てくる。ただし、クリスティ文庫の宇野訳では、 ヴァレリー・セントクレアと音訳してあるので、ちょっと気付きずらい。
- 同じ短編集『教会で死んだ男』の中の 短編『戦勝記念舞踏会事件』の登場人物クロンショウ卿の名前が出てくる。ただし、クリスティ文庫の宇野訳では、 クロンショー卿と音訳してある。
- 処女長編『スタイルズ荘の怪事件』の 登場人物メアリ・キャヴァンデッシュ (Mary Cavendish) の名前が出てくる。
Suchet 版は第19話「西洋の星の盗難事件」だが、ビデオの録画に失敗していて観ていない。
マースドン荘の悲劇(真崎訳) マースドン荘の惨劇(小倉訳) The Tragedy at Marsdon Manor
美貌の悲しみに打ちひしがれる未亡人が実は冷酷だったという物語。
小倉訳と真崎訳の相違点に注目して英語を見てゆく:
- 主人公の姓の Maltravers を真崎訳では「マルトラヴァーズ」、小倉訳では「モールトレイヴァーズ」としている。 ネットで確認してみると( その1、 その2)、真崎訳的なのが多そうだが、「マルトラーヴァズ」「マルトレイヴァズ」のような感じのもあり、 一般的な発音があるわけでもなさそうだ。Suchet 版では「マルトラーヴァズ」のような発音だった。
- ポワロがヘイスティングズに向かって「君の人物判断はいつも深いね。」と言った後に、
That is to say, when there is no question of a beautiful woman!
と付け加える。
[小倉訳 p.12] つまり、美人に不審な点がなければってことだね
[真崎訳] つまり、あそこには美しいご婦人がいるってことだ!
だが、これは両方とも違うような気がする。つまり there is no question of ... は「~の可能性がない」という意味の成句なので、
[拙訳] でもそう言えるのは、それが美しい女性でない限りは、だ
であろうと思う。 - 凶器の rook rifle を真崎訳では「カラス撃ちのライフル」、小倉訳では「みやまがらす射ちの銃」と訳している。 そもそも rook 狩りが日本では行われない以上、どちらの訳でも構わない。だが、ちょっとおもしろいのは、 英語ではカラス(カラス属 Corvus の鳥)を表すのに、crow, rook, raven という3つの単語があるということである。 カラス科のほかの属まで含めると jackdaw(コクマルガラス)、nutcracker(ホシガラス)、jay(カケス)、magpie(カササギ)、 chough(ベニハシガラス、キバシガラス)などまで増える。イギリス人にはカラスがなじみ深い鳥だったのだろう。 crow はカラス属の鳥の総称である。raven はワタリガラスなどの大型のカラスで、 Wikipedia「ワタリガラス」によると、crow が不浄な鳥とされるのに対して、raven は善い鳥なのだそうだ。 rook はミヤマガラス専用の語で、大きな群れを作り、それにはまた専用の語 rookery がある。 Wikipedia「rook」によると、イギリスの田舎では rooks (rookeries) は嫌われていて、幼鳥が狩りの対象になり、 食用になっていたそうだ。rooks にとっては受難である。なお、チェスのルーク (rook) とは語源的には関わりが無く、 偶然一緒になってしまったもののようだ。
Suchet 版は第25話「マースドン荘の惨劇」(脚本 David Renwick)。David Renwick の脚本作品は、 本筋以外のところは原作から話を大きく変えてあるものが多いのだが、これもそうであった。 小説とテレビドラマでは、演出の仕方が違うべきだという主張がある感じがする。 以下、このテレビドラマ版の特徴:
- 原作は、最初からすでに殺人事件が起きていて、保険会社から調査を依頼されるという形でポワロが事件に関わるのに対して、
テレビドラマ版では最初の 15 分間くらいで殺人事件の前のことが描かれるのと、ポワロが事件に関わるきっかけが全く異なる。
- 事件前のマルトラバース家
- 冒頭は、マースドン荘の庭である。マルトラバース夫妻と庭師のダンバースが登場する。 マルトラバース氏(ジョナサン)が胃潰瘍の手術の直後だということがわかる。
- マルトラバース夫人(スーザン)に思いを寄せるアンドリュー・ブラック大尉がアフリカからやってくる。 ブラック大尉は、スーザンにアフリカ土産として魔除けの木像を贈る。
- 夕食のテーブルをジョナサン、スーザン、バーナード医師、ブラック大尉が囲む。 ここで後述の幽霊の話が話題として出る。
- ポワロの登場
- 宿屋の主人のサミュエル・ジェームズ・ノートンがポワロとヘイスティングスを招待する。 自分で書いている小説の犯人が自分でもわからなくなったので、ポワロに解決してもらいたいのだという。 小説のことだったので、ポワロが怒り出す。その日のうちにロンドンに帰れなくなっていたので、翌朝帰ることにする。
- 帰路についたとき、事件現場に急ぐ警官に出くわして、ポワロとヘイスティングスは事件の捜査にあたることになる。
- ポワロは、ジャップ警部の助力を求める。原作ではジャップ警部は最後の逮捕の場面で出てくるだけである。
- 事件前のマルトラバース家
- テレビドラマ版では、怪奇風味を増すように以下の原作には無い事柄を付け加えている。
- 秘書のローリンソンが謎めいた人物として登場する。原作にはいない。
- マルトラバース夫人(スーザン)は、ある娘の幽霊を見、その笑い声を聞く。種明かしによれば、これはスーザンが嘘を言っているだけである。 こういう話は、怪奇味を増す一方で、冷静な視聴者なら、かえってスーザンによる目くらましだろうと思うかもしれない。 ジョナサンの説明によれば、50 年ほど前、マースドン荘の庭のヒマラヤ杉からある娘が身を投げたという。 その娘 Rebecca Mary Marsdon の墓の場面もある。墓石には「死なず、ただ眠るのみ。」と刻まれている。
- スーザンは、2週間前に自分の鏡に血が流れているのを見たと言う。種明かしによれば、これは スーザンが自分で赤いインキを鏡に流したもの。
- 民間防衛訓練で、ガスマスクを付けたところで、マルトラバース夫人が倒れる。 バーナード医師の薬棚からクロロホルムの瓶がなくなっていた。 種明かしによれば、これはマルトラバース夫人の自作自演である。
- ブラック大尉が事件の朝、村を去る理由と戻ってくる理由が原作と違う。
- テレビドラマ版では、ブラック大尉はしばらく村にいる予定だったが、スーザンが好きでいたたまれなくなったので、 アフリカに戻って忘れようと思い、翌日すぐに村を去った。ところが、彼は新聞でマルトラバース氏の死を知って、引き返した。
- 原作では、もともと翌日に村を去ってアフリカに戻る予定だったが、叔父が急死して戻れなくなった。 そして、新聞でマルトラバース氏の死を知って、何か助けになるかと思って引き返した。
- 殺害方法とその殺害にヒントを与える出来事が原作と少し違う。
- 殺害のヒントになるカラス撃ち銃による自殺の話は、原作では夕食の話題として出てくるのに対して、 ドラマ版では土産の木像を包んでいた新聞に書いてあったことになっている。
- 原作では、夫人は夫が銃を口にするように上手に仕向けておいてから、その引き金を引いたのに対して、 ドラマ版では、夫人は居眠りしている夫の口に銃を突っ込んで引き金を引く。
- ドラマ版では、ポワロは最初から死体が草の上を引きずられた跡があることに気付いており、他殺の線で調査している。 原作でもポワロは最初から他殺を疑ってはいるが、証拠があるわけではなかった。
- 最後にポアロが打つ芝居に関する相違点。
- 原作では、夕食の場にいたのは、マルトラバース夫人、ポワロ、ヘイスティングスの3人だが、テレビドラマ版では、 ブラック大尉とローリンソンもいる。
- マルトラバース氏の「幽霊」に扮するのは、原作ではエヴェレットという役者だが、テレビドラマ版では宿屋の主人のノートン。
- マルトラバース氏の「幽霊」が現れるのは、原作では廊下だが、テレビドラマ版では外の庭。
安アパート事件 The Adventure of the Cheap Flat
格安条件には裏があるという事件。事件に名前が利用されているという意味では、シャーロック・ホームズの The Advencture of the Three Garridebs(三人のガリデブ)と似た発想である。 ただし、ガリデブ事件では Garrideb という珍しい苗字が利用されていたのに対して、こちらは Robinson という ありふれた苗字が利用される。
英語と翻訳に関していくつか:
- 最初から二文目はちょっと訳しづらい文である。関係代名詞の制限的用法をどう訳すかである。
[原文] In the events I am now about to chronicle, a remarkable chain of circumstances led from the apparently trivial incidents which first attracted Poirot's attention to the sinister happenings which completed a most unusual case.
[小倉訳] わたしがこれから記録しようとしている事件では、一連の異常な状況が、最初にポアロの注意を引いた 一見ささいな出来事にはじまって、一つの非常にとっぴな事件を組立てているいくつかの不気味な出来事へと移っていくのだ。
[真崎訳] これから私が詳しく述べる事件では、一連の驚くべき状況が、まずポアロの注意を惹いた些細な出来事からはじまり、 いくつかの不気味な出来事を経てひとつの異常な事件へと移行していく。
小倉訳は原文に忠実だが、日本語的にはちょっと流れが悪いので真崎訳のようにしたくなる気分もわかる。 が、真崎訳だと complete の感じが出なくなる。それと英語ではよくある lead from ... to ... を直訳すると 変になるのも問題である。そこで、ちょっと訳し直してみた。
[拙訳] これから私が時間を追って説明しようとしている話は、最初ポアロが一見つまらない出来事に注意を向けたことに始まり、 異常な状況が展開していって、不吉な一連の出来事が起こり、終わってみると非常にとっぴな事件となっていた。 - Mrs Robinson の髪の色の auburn を小倉訳では「赤褐色」、真崎訳では「赤みがかった金髪」と訳している。 ネット検索をすると 写真で色が分かる。Elsa Hardt の髪も auburn なのだが、小倉訳では「赤褐色」、真崎訳では「金褐色」となっており、 真崎訳だと Mrs Robinson の髪の色と違うのではないかと思ってしまう。二人の髪の色が同じ(少なくとも似ている)ことが 一つの目くらましポイントになるので(偶然過ぎる気もするが)、ここは小倉訳のように同じ語で訳してほしいところである。 もっとも、ほかのところでは Elsa Hardt の髪の色を reddish とか reddish gold と書いているので、真崎訳はそちらの方に 合わせたということかもしれない。
- ポアロが Sapristi という間投詞を使っている。一見イタリア語風だが、フランス語の間投詞で ちぇっ、なんてこった というような意味だそうである。しかし、フランス語とは言っても語源はラテン語の Sacrum Corpus Christi(キリストの聖体)なので、 イタリア語っぽく響くのは当然である。この後にイタリア人の話をするので、こういう言葉が出たのではなかろうか。
Suchet 版は第17話「安いマンションの事件」(脚本 Russell Murray, Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:
- 原作とは大筋は同じだが、かなり変更が加えられている。とくに大きいのは以下の3点。原作では明確でなかった点を
明確にするとともに、進行を少しユーモラスにしてある。
- 原作ではジャップ警部とアメリカの Secret Service のバート捜査官が出てくるのは最後の場面だけなのだが、
テレビ版では最初の方から出て来ていて、協力して最新型潜水艦の青写真の行方を追っている。
なお、テレビ版では、バート捜査官の所属は FBI。テレビ版では、バート捜査官は道化役でユーモラスに描かれている。
- ポワロとヘイスティングスは、ロンドン警視庁(スコットランドヤード)で、比較的最初の方で、 バート捜査官を紹介される。バート捜査官は、能力の低い自信家として描かれる。最初は私立探偵を馬鹿にしているし、 マフィアなど存在しないと目の前に殺し屋が現れるまで言っている。最後に真相がわかってからは、ポワロを賞賛する。
- 警察と FBI が追っているのは、アメリカ海軍から盗まれた最新型潜水艦の青写真。原作では、港湾防衛施設の 位置が書かれた書類。
- 主犯のエルザ・ハート(原作では Hardt、テレビ版では Hart)の位置付け。原作では、単に国際スパイ。
テレビ版では、本名がカーラ・ロメロという妖婦で、歌手をしている。歌手としての芸名がエルザ・ハートということになっている。
ロンドンではブラック・キャットというナイトクラブで歌手をしている。原作では彼女がロンドンで何をしているのか不明。
- 原作では、エルザ・ハートとロビンソン夫人の容姿は似ていることになっているのだが、 テレビ版では、あまり似ていないことになっている。似ているとするのは、あまりにも偶然過ぎるからだろう。
- 原作では、イタリアの秘密組織(マフィア)がエルザ・ハートを追っている理由がそれほど明確ではない。 殺されたルイジ・ヴァルダノがその組織に属していたからだろうと推測している。テレビ版では、 ルイジ・ヴァルダノは海軍勤務の青年で、エルザ・ハートに誘惑され殺されただけで、組織とは関係ない。 テレビ版では、ヴァルダノが盗み出した書類をエルザ・ハートは属している秘密組織に渡すことになっていたが、 その約束を破って自分でヨーロッパで取引をしようとしていたことが、 秘密組織がエルザに殺し屋を差し向けた理由となっている。
- 最後にエルザ・ハートを捕まえる場所が、原作ではエルザ・ハートの隠れ家なのに対して、テレビ版では、
ナイトクラブ「ブラック・キャット」の楽屋。
- 原作では、エルザ・ハートの隠れ家をポワロがどうして見つけたかがわからない。テレビ版では、 カーラ・ロメロはナイトクラブで働いているだろうと見当を付けて調べまわった結果、 「ブラック・キャット」を見つけた。
- 原作では、盗まれた書類は黒猫の電話カバーの裏に縫い込んであるのに対して、テレビ版では、 黒猫はナイトクラブの名前になっており、書類は書類挟みに入っている。
- テレビ版では、冒頭、ポワロ、ヘイスティングズ、ジャップ警部が一緒に映画を見ている。それはピストルを撃ち合う映画で、 ポワロはそれを野蛮だと言って嫌っている。これが、最後の場面でにつながる。最後の場面では、殺し屋が銃でポワロを撃ちそうになるが、 ポワロは予め弾を抜いておいたので、銃撃戦無しに犯人を捕まえる。
- 原作ではジャップ警部とアメリカの Secret Service のバート捜査官が出てくるのは最後の場面だけなのだが、
テレビ版では最初の方から出て来ていて、協力して最新型潜水艦の青写真の行方を追っている。
なお、テレビ版では、バート捜査官の所属は FBI。テレビ版では、バート捜査官は道化役でユーモラスに描かれている。
- その他の主な相違点は以下の通り。
- ポワロとヘイスティングスがロビンソン夫妻のマンションに侵入するやり方が少し違う。 原作では石炭を引き上げる荷台に乗っていくのだが、テレビ版ではゴミを出すための裏階段(台所の裏から出られる)を利用する。 さらに、原作ではロビンソン夫妻がいなくなるのを見計らって、ロビンソン夫妻宅に侵入するが、 テレビドラマ版は、ロビンソン夫妻とヘイスティングスが話している間に、ポアロが台所の裏から侵入する。
- カーラ・ロメロとエルザ・ハートと偽ロビンソン夫人が同一人物だということを、ドラマの中盤で ポワロがヘイスティングスに告げる。原作では、ポワロがヘイスティングスに真相を明かすのは、終盤になってから。
- 原作にいないミス・レモンがいつものように出てくるだけでなく、探偵助手として有能な働きぶりを見せる。 雑誌「レディース・コンパニオン」の記者メイトランドを装ってエルザ・ハートにインタビューし、 エルザがヨーロッパを回っていると言ったが、嘘だと見抜く。さらに、部屋に置いてあった 楽譜がアメリカ国内でしか入手できないものであることに気付いた。
- 原作では、ポワロとヘイスティングスは殺し屋を連れて、エルザ・ハートの隠れ家にやってくるが、 テレビ版では、ポワロとヘイスティングスがブラック・キャットに行くのを殺し屋が追ってくる。
狩人荘の怪事件(真崎訳) 猟人荘の怪事件(小倉訳) The Mystery of Hunter's Lodge
ポアロがヘイスティングスからの報告を基に安楽椅子型で事件の真相を掴むが、証拠不十分で犯人を捕まえることに失敗する話。 しかし、最後には犯人に天罰が下る。最後は犯人に天罰が下るという終わり方は、シャーロック・ホームズでも 『オレンジの種五つ』で採用されていた。
真崎訳と小倉訳が一致しないところを中心に、英語や翻訳の問題を見てゆく:
- [原文] Roger Havering was a man of about forty, well set up and of smart appearance.
[真崎訳] ロジャー・ヘイヴァリングは四十がらみで、がっちりした体格のあか抜けした男だった。
[小倉訳, p.44] ロジャー・ヘイヴァリングというのは四十年輩で、がっちりした軀つきの、押し出しのいい男だった。
be well set up は「体格ががっしりした」という意味。smart は、イギリスでは、身なりが良いという意味。 なので、真崎訳を選ぶか小倉訳を選ぶかは好み次第。 - [原文] we usually rent a flat in town for the season.
[真崎訳] 社交の季節にはたいていロンドンに部屋を借りています。
[小倉訳, p.45] 狩猟期になると、たいていロンドンにアパートを借りることにしてるんです。
town が無冠詞でどこの town か書かれていないのだが、前後関係からすると Derbyshire の(moors ではなく)town という 意味だと思う。season も何の season か書かれていないが、前後関係からすると狩猟シーズンである。というわけで;
[拙訳] 狩りの季節になると、たいていダービーシャーの田舎町で部屋を借りるんです。 - [原文] though exacting in many ways, he was not really hard to get on with
[真崎訳] 叔父には厳しいところもありましたが気さくな人で、
[小倉訳, p.45] 気骨は折れても、彼はさほど付き合いにくい男でもなく、
exacting は「厳格な、口やかましい、几帳面な」、get on/along with sb は「(人)と仲良くやっていく」なので、 普通に訳すと真崎訳と小倉訳の中間くらいで、
[拙訳] 叔父はいろいろな意味で厳格な人間なのですが、仲良くやっていくのがそれほど大変というわけではなく、 - [原文] Even the present tragedy could not dim the vitality of her personality.
[真崎訳] 今度のような悲劇があっても、彼女のパーソナリティに影が差すようなことはないようだ。
[小倉訳 p.49] 今回のような惨劇のあとでも、彼女の美貌にはいささかのやつれも見えない。
どちらの訳でも vitality を訳していない。それを訳すなら、
[拙訳] 今回のような悲劇があっても、彼女の生命力にあふれる印象が曇ることはない。 - [原文] do not waste time taking photographs of interiors
[真崎訳] シツナイノシャシンナドトッテ ジカンヲムダニスルナ
[小倉訳 p.52] ナイブ ノシヤシンスグ トレ
これは真崎訳が正しい。小倉訳の誤り。
- [原文] It's a hard nut to crack.
[真崎訳] 実に厄介な事件(ハード・ナッツ)なんだから
a tough/hard nut to crack で「厄介な問題、厄介な相手」(ジーニアス英和大辞典電子版)という意味。 - Hastings は Dickens のものだと言っている "There's no such person." は『荒涼館 (Bleak House)』からの引用らしい。
Suchet 版は第30話「猟人荘の怪事件」(脚本 T.R. Bowen, Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:
全体的に、トリックの骨組み以外は原作をかなり改変しており、創作の部分が多い。
- 始まりと結末が大きく違う。
- 原作では、すでにペイスが殺されたところから物語が始まる。その報を受けたロジャー・ヘイヴァリングがポワロの ところに相談に来るというのが物語の始まりだ。Suchet 版では、ヘイヴァリング家周辺の人々による鳥の狩猟会の 場面から始まる。ヘイスティングスとポワロもロジャーから招待されてそこに来ている。ポワロは、鳥料理を食べるのが 目的で、自分では狩りをせず、寒い中狩猟をじっと見ていたので、風邪をひく。原作では、ポワロは最初からインフルエンザに 罹っている。原作では、ヘイスティングスがポワロにインフルエンザをうつしてしまったことになっている。
- 原作では、ポワロは自分の家でヘイスティングスに推理を語るが、証拠不十分で犯人たちは逮捕されない。 犯人たちには最後に天罰が下る、という形で小説が終わる。Suchet 版では、犯行が行われた銃器室に関係者が集められ、 ポワロが真相を明らかにする。そして、その場で犯人たちが逮捕される。さすがにテレビドラマでは逮捕の場面が無いと 格好がつかないということだろう。
- Suchet 版は、ポワロ、ヘイスティングス、ジャップ警部によるユーモラスな会話で締め括られる。
- 登場人物を増やしており、原作にもいる人物もその造形が少しずつ変えてある。
- ハリー・ペイス:被害者。原作では金持ちという以外、あまり性格などはわからないのだが、Suchet 版では悪い人になっている。 パートナーを騙して金を巻き上げ、それを元手に戦争で儲けて金持ちになったが、周囲の人を金銭的に助けることをしない。
- ジャック・スタッダード:原作には出てこない。ハリーの異母弟。猟場の番人をさせている。 メイドのジョーンと再婚したいと思っているが、家を買って結婚するのに必要な 300 ポンドをハリーに無心して断られた。 ジャックはペイスの遺産の一部の 4000 ポンドを受け取ることになっているので、容疑者の一人。 飼っている猟犬は鼻が利くので、盗まれた自転車や犯人の付け髭を探すのに役立ったとともに、ゾイが犯人であることも示した。
- ロジャー・ヘイヴァリング:ハリー・ペイスの甥。原作では事件の依頼者で、それ以前にはポワロともヘイスティングスとも 面識は無かった。Suchet 版ではヘイスティングスの友人で、ロジャーがヘイスティングスを狩りに誘ったことから 物語が始まる。ペイスの遺産相続者なので、容疑者の一人。
- ゾイ・ヘイヴァリング:ロジャーの妻。原作では女優だったと書かれているが、Suchet 版では職業のことはとくに 言われていないようだ。
- アーチ―・ヘイヴァリング:ロジャーの従兄弟。原作には出てこない。小学校教師。 伯父のハリーを嫌っており、それをあからさまに口にするので、容疑者の一人。
- (偽の)ミドルトン夫人:ヘイヴァリング家のメイド。原作にもいる。Suchet 版では丸眼鏡をしている。 原作では3週間前に雇ったばかり、Suchet 版ではつい最近雇った臨時雇い。
- エリー:ヘイヴァリング家のメイド。Suchet 版オリジナル。
- ジョーン:ヘイヴァリング家のメイド。Suchet 版オリジナル。ジャックと結婚したいと思っている。
- (本当の)ミドルトン夫人:原作では、ミドルトン夫人なる人物はそもそもいないことがわかるのだが、 Suchet 版では本当のミドルトン夫人がいる。周旋屋に家政婦の仕事を紹介されるが、実際はペイス夫人と称する 人物から2か月分の給料をもらいながら、仕事はやらずに済んだという。
- ジャップ警部:原作では最初から捜査に当たっているが、Suchet 版ではまず地元の巡査がやってきて、その後、 ジャップ警部がロンドンから呼ばれる。というのも、原作ではすでにペイスが殺されたところから物語が始まるのに対して、 Suchet 版ではドラマの途中でペイスが殺されるからである。ジャップ警部が現れるのは、ドラマ開始から 18.5 分後くらい。
- フォーガン巡査部長:ペイス銃殺の後、ジャックが警察に連絡して、真っ先に来た警官。
- クック巡査:フォーガンの部下。
- アンストラザー:Ashby le Walken 駅の駅員。犯人の髭もじゃの男に自転車を盗まれる。 ポワロに自転車を取り戻すことを依頼する。
- 舞台設定
- Hunter's Lodge(猟人荘、狩人荘)は、原作ではロジャー・ヘイヴァリングが持っている小さな狩小屋。Suchet 版では Castern Hall を使っているので、かなり立派な建物である。ハリー・ペイスが所有するもので、アーチ―が管理しているということに なっている。冒頭の狩猟会の後でパーティーが行なわれる。
- Hunter's Lodge の最寄りの駅は、原作では Elmer's Dale、Suchet 版では Ashby Pickard。
- ポワロが風邪で寝ている場所は、原作では自宅、Suchet 版では Hunter's Lodge の最寄りのホテル The Red Grouse Hotel。 ちなみにホテル名の Red Grouse はアカライチョウで、ポワロは狩猟会の獲物のアカライチョウを食べることを楽しみにしていた。
- 原作では連絡手段に電報を使っているが、Suchet 版では電話である。
- 犯人の隠蔽工作
- Suchet 版では、ゾイが髭もじゃの男に変装して、Ashby Pickard 駅から隣の Ashby le Walken 駅まで汽車に乗り、 駅員のアンストラザーの自転車を盗み、逃走することによって、そのような人物の存在を印象付ける。 原作には無い。
- Suchet 版では、ロジャーは、最初ロンドンでのアリバイをはっきり言わなかったために警察に事情聴取される。 その後、警察で、クウォームビー卿と一緒だったと言う。卿は、馬券管理委員会の会長だ。 ロジャーは、クウォームビー卿に借金の支払期限を延ばしてもらおうとしていた。 そういう振る舞いをすることで、ロジャーは警察の追及を逃れようとした。原作には無い。
- 原作では、ロジャーが犯行に使われた銃と同じ型の別の銃をイーリングに置いてきた。警察の目をそらすための 撹乱作戦だ。Suchet 版では採用されなかった。
百万ドル債券盗難事件 The Million Dollar Bond Robbery
債券の盗難事件。ポアロが関係者3人+αから事情を聞いただけであっさり犯人を特定してしまう。
真崎訳と小倉訳が一致しないところをピックアップしていく。だいたいは、小倉訳の誤りを真崎訳が少し訂正しているような 感じになっている。
- 航海に関するポアロの感想
[真崎訳] 船酔いがなくて、イギリス海峡を渡る何時間かのあいだラヴェルギエが考案した酔い止め法をつづける苦行さえなければ、 そういう豪華客船に乗って旅をするんだが。
[小倉訳 p.58] 船に酔っぱらわなくてさ。ラヴェルジェのあのすてきな捜査法を、イギリス海峡を渡る間の一、二時間つかうだけで すむんなら、ぼくもさっそくその豪華船にのって航海するとこだがなあ。
[原文] If it were not for the mal de mer, and the difficulty of practising the so excellent method of Laverguier for a longer time than the few hours of crossing the channel, I should delight to voyage myself on one of these big liners.
これは明らかに真崎訳の方が正しい。Laverguier はフランス語読みすれば「ラヴェルギエ」だし、これが船酔い防止の方法だという ことは、同じ短編集の『首相誘拐事件(総理大臣の失踪)』を読むと分かる。そちらでは小倉訳も「ラヴェルギエ」になっている。 実際、イギリスでの初出時期を見ると、本作品は『首相誘拐事件(総理大臣の失踪)』の翌週に出ているので、 ポアロが『首相誘拐事件(総理大臣の失踪)』でイギリス海峡(ドーバー海峡)を渡ったことを受けてこう言っているのだ。 ただし、両方の訳とも longer を訳していない。話題になっている船は大西洋横断の定期船のことなので、 ドーバー海峡を渡る数時間よりも長い航海は耐えられないなあと言っているのである。
[拙訳] 船酔いがなくて、ドーバー海峡を渡る数時間よりも長い間ラヴェルギエの船酔い防止の素晴らしい体操をやり続けないと いけないなんて無理ゲーがなければ、喜んでそんな大きな定期船に乗ってみるんだがなあ。 - steak and kidney pudding
[真崎訳] ステーキやキドニー・プディング
[小倉訳 p.61] ビフテキや腎臓入りの腸詰
これはどちらも誤りである。steak and kidney pudding という一つの料理が存在するのである。 イギリスの伝統料理である。腸詰でもない。
[拙訳] ステーキ・アンド・キドニー・プディング(イギリスの伝統料理) - Liverpool でポアロがやることになっていること
[真崎訳] 私たちの計画では、四人の客室係に会い、この船で二十三日にニューヨークへ渡ったポアロの友人について 話を聞くことになっていた
[小倉訳 p.66] わたしたちの予定は、四人のボーイに次々に会うことと、この船で二十三日にニューヨークへ行ったポアロの友人に 会って訊いてみることだった。
[原文] Our proceedings consisted in interviewing four successive stewards and inquiring after a friend of Poirot's who had crossed to New York on the 23rd.
これは真崎訳が正しい。ただし、辞書によると、proceedings には「計画」という意味もあるにせよ、どちらかといえば 「事の成り行き」とか「裁判手続き」とかいった意味の方が中心的なようなので、proceedings は軽く以下のように訳すのもありかもしれない。
[拙訳] 私たちがやった作業は、客室係四人に順々に会って、23日にニューヨークに渡ったポアロの友人について尋ねてみることだった。 - London に戻ってから行くレストラン
[原文] the Rendezvous Restaurant
[真崎訳] ランデヴー・レストラン
[小倉訳 p.67] チェシャ・チーズ
小倉訳では前に行ったレストランに行くことになっているが、ここは大文字で始まっているので、普通に固有名詞だと思って 真崎訳のように単にカタカナにすべきところ。 - Ridgeway が犯人だったら面白かったろうにという感想をポアロが述べた後で付け加えた一言
[原文] a piece of neat methodical work
[真崎訳] 公式通りだからな
[小倉訳 p.67] 頭がつかえるからね
これはどう訳すか難しい所だけど、真崎訳の方が良さそう。ただ、原文が、ポアロが何でも きっちり整っているのが好きということを踏まえているのだろうということを考えると、 以下のような感じで訳すのが良いかもしれない。
[拙訳] きっちり整った仕事ということになるだろうからね。
Suchet 版は第22話「100万ドル債券盗難事件」だが、ビデオの録画に失敗していて観ていない。
エジプト墳墓の謎 The Adventure of the Egyptian Tomb
エジプトを舞台にした連続殺人事件。ポアロが「メンハーラ王の呪い」を利用して怪しげな行動をとりながらも 見事に事件を解決する。
エジプトは 1882 年から 1922 年までイギリスの植民地だったため、イギリス人が観光で良く行く場所だったようである。 クリスティも母親の 保養のため 1907-1908 年の冬にエジプトに滞在した。本作品は、そのときの経験を基にしているのだろう。
メンハーラ王 (King Men-her-Ra) は第八王朝の架空のファラオのようである。とはいえ、第八王朝の初代もしくは二代目の王は Menkare というのだそうで、 音が似ていることからこのファラオのつもりなのかもしれない。
第二段落目の冒頭、Hard upon the discovery of the Tomb of Tut-ankh-Amen by Lord Carnarvon, と書かれている ツタンカーメン王墓の発掘は 1922 年のことであり、本小説の刊行の1年前である。Lord Carnarvon がこの発掘の資金を提供した。 その Lord Carnarvon が翌年に急死して「ツタンカーメンの呪い」と言われたことが、 本作品執筆のヒントになったと考えられている。ツタンカーメン王墓発掘を 主導していたのは、考古学者の Howard Carter である。本作品で言えば、Howard Carter が Willard 父子に、Mr. Bleibner が Lord Carnarvon にだいたい対応すると言っていいだろう。Mr. Bleibner も急死する。ただし、Howard Carter は不審死することはなかった。 なお、真崎訳には、私が見ている原文には存在しないカーターの名前が第二段落冒頭部に出てくる。原文にいくつかのバージョンが あるのか、真崎訳で説明のために加えられたものかはわからない。
その他、英語関連で気付いたこと:
- 登場人物の名前の Bleibner は、小倉訳ではブライブナー、真崎訳ではブライナーとなっている。 この audiobook でも Suchet 版テレビドラマでも真ん中の b の音は発音されているので、その意味ではブライブナーの方が適切だろう。 Suchet 版日本語版(宇津木道子訳)でもブライブナーになっている。ただまあ、真崎訳では、もともと2音節の語をあまり 引き伸ばしたくなかったのかもしれない。
- Rupert Bleibner が自殺の前に残した手紙の中に、自分が leper であるという一節がある。 この leper に「癩病(ハンセン病, leprosy)患者」という意味と「世間の嫌われ者」(ジーニアス英和大辞典電子版) という意味の2つがあるということが推理のポイントの一つになるのだが、これをどう訳すかが難しい。 後者の意味に見せかけて実際は前者の意味だったということにしないといけないわけだが、真崎訳でも小倉訳でも、 最初から治療の難しい病気という意味が表に出てしまっている。日本語に丁度該当する語が無いのでやむを得ないであろう。 小倉訳では「癩病やみ」(p.74) となっている。癩病が比喩的に使われているという可能性もあるので、雰囲気はわかるものの、 日本語だとどうしても病気そのものが強調されてしまう嫌いはある。 真崎訳では、「癩病」が現代では使われないせいか political correctness のためか現代では不治の病ではないためか、 これを「死の病に冒された」と訳している。苦心はよくわかるが、具体的な病名ではないためにポイントがわかりづらい。 Suchet 版には手紙の写しが映っており、それには leper と書かれており、それが読み上げられている。 ただし、日本語版(宇津木道子訳)ではそれを「不治の病の患者」と言い換えて、だいたい真崎訳と同じようにしてある。
- 小倉訳 (p.77) には一文訳し落としがある。Tosswill 氏の立ち居振る舞いで、There was something at once grave and steadfast about him that took my fancy. という文だ。真崎訳では「彼の威厳のあるしっかりした態度が気に入った。」 となっている。
Suchet 版は第34話「エジプト墳墓のなぞ」(脚本 Clive Exton)。エジプト風の風景が出て来て楽しいが、 実際のロケ地はスペインの Tabernas 砂漠とのことである。 テレビドラマでは、原作よりも展開を少しドラマチックにした演出がなされている。登場人物は原作とあまり変わらないが、 少しだけ変えてある。以下、まず、登場人物についてまとめ、次に演出についてまとめる。
登場人物の違い:
- 大英博物館から発掘に参加している博士の名前が、原作では Tosswill、Suchet 版では Fosswell。
- 原作では、Bleibner 氏とその甥の Rupert の仲がうまくいっていないと書かれているが、Suchet 版では その話は無くなっている。Rupert が Bleibner 氏に金の無心をする場面も無くなっている。
- Suchet 版では、Rupert Bleibner、Dr Ames、Harper の3人が Yale 大学の同期生ということになっている。 原作ではそのような関係はない。
- Suchet 版では、原作では出てこない Miss Lemon が出てくる。
ドラマチックにするための演出など:
- 冒頭にメンハーラ王の王墓発掘のニュース映像を配置し、実際に墓の扉を開けるところからドラマが始まる。
- 扉を開けるとまず Sir John Willard が中に入る。そして、奥の部屋に入ったところで、Sir Willard が 急に心臓麻痺を起こし死ぬという劇的な演出になっている。
- 原作では Sir John Willard、Mr Bleiber、Rupert Bleibner の3人が死んだというニュースがあってから
ポワロが事件に関わり始めるのに対して、Suchet 版ではその前から関わり始めている。
- まず、Sir Willard が死んだ時点で、Lady Willard が捜査を依頼するが、息子の Guy Willard はその必要は無いと言う。
- それでもなぜか Poirot は興味を持って、たまたまニューヨークにいる Hastings に Rupert Bleibner を訪ねてもらう。 Rupert は寝間着姿で白い手袋をしており(後で分かったことは、皮膚の病変を隠すため)、気分が悪いということで、Hastings に帰ってもらう。
- Hastings は Mr Bleibner の死を新聞で知り、再び Rupert を訪ねると、Rupert は部屋で拳銃自殺していた。
- Rupert は、メラニー・ワイズという女性との結婚を目前にしていた。この話は原作には無い。
- 3人が死んだ時点で、改めて Lady Willard が Poirot に捜査を依頼する。ここからの進行はだいたい原作に沿う。
- だいたい進行が原作に沿っている部分での原作との違いをいくつかメモしておく。
- Poirot と Hastings は、原作ではラクダに乗って発掘現場に行くのだが、Suchet 版では自動車を使っている。
- Mr Schneider が死ぬのは、原作では Poirot が発掘現場に着く3日前だが、Suchet 版では Poirot が発掘現場について間もなく。
- Suchet 版では、Dr Ames の体調が悪くなる場面が出てくる。原作には無い。
- テントにアヌビスの影が映るのは、原作では Poirot が犯人に見せるために仕組んだことだが、 Suchet 版では犯人が Poirot に見せるために仕組んだことになっている。 原作では犯人に対する効果が今一つ明確ではないので、変えたのだろう。
- 最後に犯人を捕まえる場面が入れてある。
- 原作では、Poirot が毒を見破ったと分かった途端、犯人は自ら毒を仰いで死ぬ。Suchet 版では、犯人の往生際は悪く、 Poirot が皆の前で真相を明かすと、ピストルを出して逃げ出そうとする。しかし、テントの外にはエジプト人の召使いたちが 待ち構えていた。
グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件 The Jewel Robbery at the Grand Metropolitan
ポアロものの短編2作目(1作目は『 戦勝記念舞踏会事件』)。ここではポアロがが宝石盗難事件を解決する。宝石を盗まれた金満家夫人や そのメイドがかなりカリカチュアライズされていてユーモラスである。ポアロとヘイスティングスのやり取りにも ユーモラスな部分が多く、ポアロものの一つの特徴のユーモアが存分に発揮された作品になっている。
以下、英語がちょっと気になったところのメモ:
- 家具の滑りを良くするために French chalk(真崎訳 フレンチ・チョーク;小倉訳 p.103 チャコ)が 使われている。鉱物名としては、滑石 (talc) のことである。小倉訳のチャコは、裁縫の時の印付け用に滑石などの粘土鉱物の粉末を練り固めたもの。 チャコは chalk が訛ったもののようだが、chalk は石灰岩で滑石は含水ケイ酸塩なので物質的には全然違うものである。
- Poirot が Hastings に嬉しそうに“Embrace me, my friend; all has marched to a marvel!”と言った時、
Hastings の語りとしての地の文で Luckily, the embrace was merely figurative——not a thing one is always sure of with Poirot.
と書かれているところがある。和訳も載せておくと
[真崎訳] 「なあ、ぼくを抱きしめてくれ。何もかも驚くほどうまくいったんだ!」
幸い、その抱擁は形ばかりのものだった――ポアロが抱擁するなどというのは、前代未聞のことだ。
[小倉訳 p.104] 「おい、抱いてくれよ。万事、すてきにうまくいったんだ!」
さいわいその抱擁は、ほんの形ばかりだったので助かったが、ポアロが抱擁をするなんて、前古未曾有なことだった。
どちらも同じように訳されているが、ポアロの台詞は良いとして、ヘイスティングスによる地の文の訳はこれで良いのだろうか。 まず文化的背景が2つある。一つは、フランス人(たぶんベルギー人も)はよく抱き合って頬をくっつけたりするけど、 イギリス人はそんなことはしないことだ。もう一つは、このページにあるように同性愛的な含みがあった可能性がある。 というのも、舞台となっているBrighton は LGBTQ の街としても有名だからだ。とはいえ、 Alan Turing が 1950 年代に同性愛で逮捕されたことからもわかる通り、当時のイギリスは同性愛に対して不寛容だったので、 これは穿ちすぎかもしれない。次に英語の問題が2つ。一つは、figurative の意味で、比喩的に言葉が使われている ということだから、実際は抱擁しなかったということではなかろうか。もう一つは、not a thing の前に何が 省略されていると考えるかである。真崎訳や小倉訳は The embrace was not a thing ... ととらえているようだが、 もうひとつの可能性として There is not a thing ... のほうがしっくりくるように思う。 ついでに言えば、ポアロの台詞もフランス語直訳っぽい。というのも Embrasse-moi, mon ami! Tout a marché merveilleusement! と直訳的にフランス語訳してみると、こっちの方が自然ぽく響くからである (私の外国語感覚は怪しいけど)。このような言語感覚の違いもありそうな気がする。 それらを踏まえて訳してみると以下のようになる。ポアロの台詞は、わざと直訳風にぎこちなくしてみた(ちょっと やりすぎかもしれないけれど)。
[拙訳] 「友よ、私を抱きしめてくださいね。みんな奇跡に向かってうまく行進しましたよ。」
幸い、抱きしめてなどというのは、単なる言葉の綾だった。ポアロが言うことには文字通り受け取って良いものなど 一つも無いのだ。
Suchet 版は第41話「グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件」(脚本 Anthony Horowitz)。 原作が短くて比較的単純なものなので、原作の大筋を活かしながら、沢山のひねりを加えてある。 とくに演劇の舞台の要素を加えて、舞台の上で犯人が逮捕されるという華やかな演出にしてある。
まず、登場人物の性格付けが変えてあるのと、登場人物を増やしてある。ポワロとヘイスティングスは 原作にもドラマ版にも登場する。そのほかに原作にはいないミス・レモンとジャップ警部が登場する。 原作では名も無い警部が事件を担当するが、ドラマ版ではジャップ警部が担当する。それ以外は以下の通り:
- オパルセン:原作では、株仲買人の金持ち。ドラマ版では劇団のプロデューサー。 かなり経営が厳しく、何でも宣伝に使ってやろうと、いろいろ強引なことをしている。
- マーガレット・オパルセン:原作では、太った金持ちのマダム。ドラマ版では、ふくよかな舞台女優。 夫がプロデュースする芝居「豚に真珠 (Pearls before Swine)」で主演。
- セレスティーヌ:オパルセン夫人のメイド。原作では、自分に疑いがかかるとフランス語でまくし立てる 感情的な女性だが、ドラマ版では女優を目指す落ち着いた女性である。
- グレース・ウィルソン:ホテルのメイド。原作では名前が無い。最後に本名がグレース・ソーンダースであることがわかる。
- ソーンダース:オパルセンの運転手。原作のホテルのボーイに相当する。
- ワーズィング:謎の人物。原作にはいない。足が悪いようで、杖をついている。オスカー・ワイルドの戯曲「まじめが肝要」にジャック・ワーズィング という名前の登場人物が出てくることが事件解決のヒントになる。最後にこれがソーンダースの変装であることが分かる。
- アンドルー・ホール:若い劇作家。原作にはいない。セレスティーヌの恋人。ギャンブル好きで借金を抱えている。
- ヒューバート・デバイン:ドレイク警部役の役者。原作にはいない。
- ラッキー・レン:新聞「デイリー・エコー」で行われている「この人を見かけたら10ギニー」という企画の「この人」役。 ポワロに似た鼻髭を生やしている。事件とは無関係で、原作にはいない。滑稽な場面を増やすための役。
筋書きにはいろいろな修飾やひねりが加えられている。
- 芝居の場面を加えているのが一番大きな改変。オパルセンの一座が Devonshire Park Theatre という劇場で 公演を行なっている。オパルセンがプロデュースする芝居「豚に真珠」が上演中で、 マーガレット・オパルセンが立派な真珠のネックレスを付けて主演を担う。 真珠のネックレスは、もともと女優ナタリア・ドブジェンカがロシア皇帝から贈られたもので、 オパルセンが競売で手に入れたものだ。
- 最後の真相を明らかにする場面を芝居の公演が終わった後の舞台の上にして、ドラマチックにしてあるのが 芝居の場面を加えた目的だろう。ポワロは、ヘイスティングス、ミス・レモン、ジャップ警部とともに劇場が閉まった後の舞台に上がって、 推理を語り始める。すると、謎の二人組が劇場に入ってくる。4人が物陰に隠れていると、ワーズィング=ソーンダースが 暗い舞台に上がる。ポワロがそれに照明を当てることで犯人が分かるという劇的な演出がなされている。ソーンダース夫人も捕まり、 真珠のネックレスは、小道具の壺の中から発見される。
- 犯人二人が劇場にやってきたのは、真珠が本物かどうかを確認するためだった。というのも、 ポワロが、真珠が贋物だったという噂を流していたからだった。その噂のために、 オパルセンは、一時、保険金詐欺の容疑で逮捕される。
- 原作では、オパルセンの部屋の隣の部屋は空き部屋だったが、ドラマ版では、謎の人物ワーズィングが 盗難事件の晩に泊っている。
- アンドルー・ホールという登場人物を加えたのも大きな変更。このために、セレスティーヌがアンドルーとの 共犯を疑われるというのが、説得力のあるストーリーになった。セレスティーヌが合鍵を使って真珠を盗み、 窓から外にいたアンドルーに投げて渡したという疑いだ。セレスティーヌのペチコートから合鍵が見つかり、 アンドルーのポケットから真珠が入っていた袋が見つかった。そのため二人は逮捕された。 これらのものは、犯人がそれぞれの服に入れたものであることが後でわかる。
- そもそもポワロは休養のためにブライトンに来たところ、事件に巻き込まれる。その点は、原作通りだが、 休養中だからとということで、ポワロがいったんオパルセンからの事件解決の依頼を断るというシーンを入れてある。 でも、ポワロは事件のことが気になってしょうがないので、結局事件を調べることになる。
首相誘拐事件(真崎訳) 総理大臣の失踪(小倉訳) The Kidnapped Prime Minister
総理大臣がフランスで誘拐されたかに見えたが、実はイギリスで誘拐されていたという話。 ポアロがけっこうよく動くので楽しい。
地名メモ:
- Boulogne は、ドーヴァー海峡のフランス側の町の一つ。ドーヴァー海峡と言えば、 イギリス側が Dover、フランス側が Calais ということになっているが、 Boulogne もフランス側の港として重要である。さらにはフランス第一の漁港でもある。
- Hampstead は、ロンドン北西部にある。Hendon Aerodome は、さらに北西に行った場所にある。 Hendon Aerodome は現在ではその役割を終え、一部が Royal Air Force Museum London になっている。
- Windsor は、ロンドンのすぐ西にあり、Windsor Castle がある。Ascot はその南側にあって、Ascot 競馬場で有名。
翻訳メモ:
- 最初の方 (POCKET MYSTERY p.107) で、Hastings の仕事が書かれている。a recruiting job ということで、「新兵募集」とでも訳すのが妥当と思う。 ところが、真崎訳は「徴兵事務」、小倉訳は「保養すること」になっている。小倉訳は、ジーニアス英和大辞典電子版 で見ると「((古)) 健康を回復する」の意味だと解釈したのだろうが、job としては不自然。真崎訳はそれを正したのだろうが、 「徴兵」だったら conscription という直接的な単語を使いそうな気がする。
- 首相の車 (POCKET MYSTERY p.114) は a closed car で、真崎訳は「セダン」、小倉訳は「箱型」である。 closed car を辞書で引くと 「箱型自動車」とある。で、「箱型自動車」とは何かというと、車検証の上では「箱型」「幌型」「ステーションワゴン」の3種類ある乗用車形状の 一つだそうで、セダンやクーペなどのことだそうだ。ただし、セダンとかクーペとか言っても、1920 年代だと この広告に あるような形だったのだろう。
- 首相を射殺せずに誘拐した理由の第三 (POCKET MYSTERY p.117) は they run no risk of the hangman's rope である。 これは真崎訳「死刑になるというリスクを冒さずに済む」が正しく、小倉訳「奴らは思い切って殺すなんて真似もしやしない」 では意味が通じない。
- 首相が裏切者であるわけがないと言うとき (POCKET MYSTERY p.117)、We cannot suppose that the Prime Minister connived at his own assassination! とポアロが言っている。この connive をどう訳すかが問題。真崎訳は「首相が自分の暗殺を共謀するはずはないからね。」、 小倉訳は「首相が自分の暗殺を黙って見てるとは考えられんじゃないか!」である。ジーニアス英和大辞典電子版を見ると connive には「悪事を黙認する」と「悪事を共謀する」の2つの意味があって、小倉訳は前者、真崎訳は後者を取っている。 辞書では connive at sth は「悪事を黙認する」の方だから、小倉訳の方が辞書に忠実。とはいえ、真崎訳の方が意味的にはわかりやすい。 私が訳してみると「首相が自分の暗殺に一枚噛んでいるとは考えられないからね」という感じになる。
- ペテロじゃないから海は船で渡るよとポアロが言うのは (POCKET MYSTERY p.122)、 ペテロが水の上を歩いた という伝説に基づいている。
Suchet 版は第18話「誘拐された総理大臣」だが、ビデオ録画が失敗していて視聴しなかった。
ミスタ・ダヴンハイムの失踪(真崎訳) ダヴンハイム失踪事件(小倉訳) The Disapperance of Mr. Davenheim
探している犯人が変装してすでに刑務所に入っているというトリックは、シャーロック・ホームズの The Man with the Twisted Lip(唇のねじれた男)でもあった。 ただし、筋書きはだいぶん違う。
ホームズを意識していると思えるポアロの台詞がある。ホームズの『唇のねじれた男』では、 変装した夫を妻は見抜けないのだが、ポアロに言わせれば、
[真崎訳] 女性は、たとえ世間の誰もがだまされても、自分の夫はすぐに見分けがつくものだよ。というわけで、ホームズは女性を見くびっているんじゃないのかというクリスティの主張のようである。
[小倉訳] 女というものは、世間のほかの連中がごまかされたって、自分の亭主は、十中九分九厘見わけのつくものさ。
[原文] A woman nearly always knows her husband, though the rest of the world may be deceived!
英語メモ;ダヴンハイム氏の性格を表すのに look after Number One という成句が出てくる [真崎訳:ムッシュ・ダヴンハイムは“自分の利害を第一に考える”人物だった。 小倉訳:ダヴンハイム氏は、いわゆる自分をかわいがる男だからね。] 。number one が自分自身を指し、 look out for number one / look after number one / take care of number one / be careful of number one のような形で、 自己中心的な人物のことを表現するもののようだ。
ミスプリ;小倉訳の私が持っている版には文の一部が入れ替わっているミスがある(p.129)。
(誤) これが彼の好み彼のいわゆる<君たちイギリス人のおそるべき毒薬>よりはに合っているのだ。
(正) これが彼のいわゆる<君たちイギリス人のおそるべき毒薬>よりは彼の好みに合っているのだ。
Suchet 版は第15話「ダベンハイム失そう事件」(脚本 David Renwick)。以下、このテレビドラマ版の特徴:
- 全体的に原作との大きな違いは2つある。
(1) 事件がドラマとともに現在進行形で進むこと。原作では土曜日に起こった失踪事件の話を月曜日か火曜日にするところから 話が始まるのに対して、テレビ版では金曜日に失踪事件が起き、ポワロはそれをかなり早い段階で聞く。
(2) ポワロ、ヘイスティングス、ジャップ警部は原作でもテレビ版でも出てくるのだが役回りが違う。原作では事件の担当は ミラー警部で、ポワロとヘイスティングスは、ジャップ警部経由で捜査の進行状況を聞くということになっている。 テレビドラマ版では、ジャップ警部が事件の担当で、ポワロは賭けで一歩も部屋の外に出ないことになっているので、 代わりにヘイスティングスが動くことになっている。 - 上記 (1) のため、原作では金庫の宝石が盗まれたという話がかなり早いうちに出てくるのだが、テレビ版では 半分くらい進んでから出てくる。宝石の盗難が発覚するのは月曜日で、テレビ版ではそれまでに捜査がいろいろ行なわれるためである。 原作では、ポワロが最初に事件の話を聞いたときすでに宝石の盗難はすでに発覚している。
- テレビドラマ版では、手品が小道具として使われている。最初にポワロが出てくる場面では、 ポワロ、ヘイスティングス、ジャップ警部は、一緒にマジックショーを見ている。 人が消えるマジックだったので、ダベンハイム失踪事件に話がつながる。 その後も、ときどきポワロが手品を披露する。
- 最後にポワロが真相を明かす場所が、テレビドラマらしく刑務所になっている。そこに、ポワロがダベンハイム夫人を 連れてきて、ビリー・ケレットのかつらを取る。原作には捕物場面はない。
- ローウェンの人物設定が原作と少し違う。(1) テレビ版では、ローウェンはダベンハイムの銀行の頭取の地位を狙っているという。 これは原作には無い。(2) テレビ版では、ローウェンはカーレースのドライバーでもある。これも原作には無い。 (3) テレビドラマ版では、ローウェンは、以前株の取引でダベンハイムに負けたことがあるという話になっている。原作では逆で、 ローウェンがダベンハイムに勝った。原作ではこれが事件を解く鍵の一つだが、ドラマ版では逆になっているので目くらましが増えることになる。 (4) 原作では、ローウェンはダベンハイムを待っている間、バラ園を見に外に出たことになっているのだが、テレビドラマ版では、 その話は省略されている。ロケに使った家では邸宅から出るという設定が難しかったのかもしれない。
- 以下、細かい違いを数点。
- ダベンハイムは、この冬、3か月間、南アフリカのヨハネスブルグに行ったことになっている。原作では、 前年の秋、南米のブエノスアイレスに行ったことになっている。
- テレビ版では、ビリー・ケレットは、大胆にもジャップ警部の財布を盗んで捕まる。原作では、ダベンハイムの宝石を ロンドンの質屋に持ち込んで捕まる。テレビ版では、ケレットは、ダベンハイムの印章付き指輪を持っていた。
- 原作で、ポワロは、ダベンハイム夫妻の寝室に関する質問をジャップ警部にしてもらうが、テレビ版では、その質問を ヘイスティングスにしてもらった上、さらに、失踪の日にダベンハイムのバスルームのキャビネットに何が入っていたかを聞いてもらう。 その質問は、剃刀があることを確かめるためだった。
イタリア貴族殺害事件 The Adventure of the Italian Nobleman
伯爵と詐称している悪党がまた別の悪党に殺される話。
Poirot が解決するための手がかりの一つがカーテンの開閉状態なのだが、これが小倉訳では開閉状態が 反対に訳されているところがある。真崎訳では直っている。その理由が実は微妙な英語の問題なのである。
- 最初のところでは They were not drawn. である。draw the curtains は、カーテンを開けたとも閉めたとも 取れる言葉である。小倉訳 (p.153) は「あれはしぼってありませんでしたね。」で、閉まっていたと取れ、 真崎訳では「開いたままでしたよね?」と逆である。これはどこで判断しないといけないかと言うと、 そのちょっと前の Poirot の言葉 Why were you able to notice it? で、これは Hawker が、窓が閉まっていることに notice したと言ったのを受けている。つまり、Hawker が窓が閉まっていることに気付けたのは、カーテンが開いていたから、 ということなのである。ところが、Why were you able to notice it? の日本語訳が小倉訳でも真崎訳でもそれが はっきりしないものになっている。小倉訳 (p.153) は「どうしてまたあなたは、それに気を付けて見るってことに なったんでしょうな?」、真崎訳は「なぜ気をつけてみたのですか?」で、いずれも be able to が訳されていない。 ここは「どうしてあなたはそれを認識できたのですか?」のような感じで訳さなければならない。
- 二番目も I referred to the window-curtains not being drawn. である。小倉訳 (p.157) は、「窓のカーテンが あいてないと言ったろう。」、真崎訳は「ぼくは、カーテンが開いていた、と言っただろ?」で、前のことを思い出すと、 真崎訳が正しい。
- 三番目と四番目もやはり同様で、draw を開けたと取るか閉めたと取るかである。とくに4番目のところは、 But if there had been a real dinner party the curtains would have been drawn as soon as the light began to fail. なので、暗くなったらカーテンを開けるか閉めるかの常識が問われている。暗くなったらカーテンは閉めるものであろう、 ということで真崎訳が正しい。
あと2点、小倉訳から真崎訳になって直っているところが最後の方にある。
- telephone box : 真崎訳は「公衆電話」。小倉訳 (p.158) では「自動電話」で何のことかよくわからない。
- I am about to inquire now. : 真崎訳は「その点は、これから調べようと思っているんだ。」、小倉訳 (p.158) では 「いま君に訊こうと思ってたところなんだがね。」。ポアロが何を inquire するのか省略しているのもいけないのだが (文法的には that などの代名詞を付けないといけないと思う)、その前にポアロが言っている no one ever inquires if a call was put through from Flat 11 at that time を受けているので、真崎訳が正しいことが分かる。
Suchet 版は第38話「イタリア貴族殺人事件」(脚本 Clive Exton)。 このテレビドラマ版は、犯罪の部分はだいたい原作通りなのだが、その背景となるストーリーを大きく変えてあるのと、 捕物の部分を付け加えてある。
- 背景となる恐喝事件の違い
- 原作では、イタリアの身分の高い某人物に関する情報を買い取れというゆすりをフォスカティーニがしていた。 アスカニオはその支払いのためイタリアから派遣された。
- Suchet 版では、自動車販売会社の社長のビッツィーニをフォスカティーニが手紙のことでゆすっていた。 手紙の内容は、ビッツィーニが反ファシストへの資金援助をしていたことを証明するものだった。 それで、マリオ・アスカニオに金の運び役を頼む。
- イタリア大使館一等書記官の言葉によれば、マリオ・アスカニオは、マスナーダ(ギャングの秘密組織、 マフィアよりも古い)のメンバー。このことは警察の情報でも裏付けられた。 大使館のダリ―ダによれば、アスカニオは、大使館に「とある書類」を買えとやってきた。
- 原作では、アスカニオはイタリア大使館の書記官とともにフォスカティーニの家に行くが、 ドラマ版では、アスカニオは一人で行く。
- ヘイスティングスが、ビッツィーニの店で車を買う。
- ビッツィーニの部下にマルゲリータ・ファブリという有能な女性がいる。 ヘイスティングスに対し、フォスカティーニのことを自分のおじだと嘘をつく。
- 原作では、ポワロがアスカニオに知っていることを語らせる場面が出てくるが、Suchet 版には無い。 その代わり、ポワロがビッツィーニに知っていることを語らせる場面が出てくる。
- エドウィン・グレイブスが、ミス・レモンのボーイフレンドになっている。原作ではミス・レモンは出てこない。
- ドラマ版では、グレイブスは、見栄っ張りなところがあることになっている。 フォスカティーニの召使いなのに秘書だとミス・レモンには言っている。 さらに、フォスカティーニの持ち物である船を自分のものだと言っている。
- ミス・レモンは、フォスカティーニ伯爵が「華族名鑑」に無いことを見つけて不審に思っている。
- 最後に、ミス・レモンは、グレイブスがフォスカティーニ伯爵の猫を殺そうとしたことに怒り、愛想をつかしている。
- 捕物場面を入れてある。原作では、単に捕まったと書かれているだけのところである。
- 警察がブルームスベリーの Jenkins' Hotel でアスカニオを捕まえる場面が入っている。 その際、アスカニオは持っていた書類の一部を暖炉で燃やす。その中には ビッツィーニの写真がある。
- グレイブスを捕まえる場面が入っている。 フォスカティーニの船の Fantasia Felice, Chichester でグレイブスは逃げようとしている。 まず、ビッツィーニとファブリがここに金があるだろうと見て、船を探しに来る。次に、グレイブス夫人が やってきて騒ぎになったので警察が来る。 そこにグレイブスが車でやってくるが、警察に気付いて、逃げる。それをヘイスティングスと警察が車で追う。 カーチェイスが繰り広げられ、最後は逃げられなくなって捕まる。
- その他、細かい違いがいろいろある。
- フォスカティーニの住所がアディスランド・コートになっている。原作では、リージェント・コート。
- 原作では、フォスカティーニの夕食でライス・スフレが残っていたことになっているが、 ドラマ版では残っていなかったことになっている。3人分が2人分になったためだろう。
- ジャップ警部が出てくる。原作では名前のみ。
- 壊れている時計から推定される犯行時刻が少し違う。原作では 8 時 47 分、ドラマ版では 9 時 10 分過ぎ。
- Suchet 版では、事件の夜、フォスカティーニが夕食を食べていないことを、ポワロは検死解剖の結果から確認している。 これは原作には無い。
謎の遺言書 The Case of the Missing Will
ポアロが遺言書の隠し場所を当てる話。なぜポアロがあぶり出しだと当てられたのかはよくわからないが、 そのヒントとなることも翻訳で読んでいるとよくわからなくなっている。それを含めて 謎に関する英語と翻訳の問題を見てゆく。
- 解決のヒントとなる言葉に tradesmen's books(商人の帳簿)がある。伏線になっている箇所と ポアロが真相に気付く箇所に1回ずつ出てくる。これらは同じ単語で訳されねばならないのだが、真崎訳も 小倉訳もそうなっていない。真崎訳では、①「商店への(支払い)」②「商人たちの記録」、 小倉訳では、①「出入りの店屋の(払い)」②「店屋のつけ」となっている。どちらの箇所でも 「店屋のつけ」にしておけば分かりやすくなったと思う。
- ポアロが真相の説明をするところで「あぶり出しインク」が2箇所出てくる。原文では最初が a blend of disappearing and sympathetic ink で二度目が his little ink mixture である。 真崎訳ではこれをいずれも「あぶり出しインク」と訳しており、わかりやすい。 小倉訳 (POCKET MYSTERY p.169) では最初を「隠顕インキ」、二度目を「混合インキ」と訳してあり、 これらが同じものであることがわかりづらい。混合インキと訳したいのなら、最初は「あぶり出し用の混合インキ」と でもしなければならなかった。しかも小倉訳では、二度目の「混合インキ」が万年筆に入っているということを 訳し落としている。
- Andrew Marsh の家の名前は Crabtree Manor である。これが真崎訳では「クラブツリー荘」、 小倉訳では「山りんご荘」になっている。Crabtree を単なる固有名詞と見れば真崎訳になるが、 私は小倉訳の方が良いと思う。「クラブツリー」では何のイメージも湧かないのに対して、後述のように リンゴはおそらく謎解きのヒントになっているのである。crab tree は crab apple という野生のリンゴ属の木のいくつかを指すようである。
- そのリンゴつながりだと思うのだが、Mr. Baker の風貌を形容するのに shrivelled pippin(しなびたピピン) という言葉が出てくる。pippin はリンゴのよくある品種のようである。真崎訳では 「しなびたピピン種のリンゴのようだった」と説明的に訳されているのに対して、小倉訳では、訳すと重くなると思ったのか、 省略されている。「pippin apple」でネット検索すると、 ピピンアットマークというバンダイと Apple が共同開発した売れなかったゲーム機が 出てくるのも面白いところである。
- リンゴと言えば、apple pie も出てくる。これだけリンゴが出てくると、あぶり出しインクも リンゴがヒントではなかったかというふうに思える。リンゴ汁でもあぶり出しができるからだ。 さらに、封筒に書かれた読みにくい字は in a crabbed handwriting(判読しにくい筆跡で)と形容されており、crab apple に通じる。 これは翻訳ではわからない。このように、この小説は crab apple をめぐる物語だと読めるので、 Crabtree Manor は小倉訳のように「山りんご荘」とでも訳しておかないといけないのである。
ついでに部屋の内装と調度品に関する用語に関していくつか:
- a small panelled room, [真崎訳] 羽目板張りの小さな部屋, [小倉訳 p.163] 腰羽目をはった小部屋
- 日本語で羽目板というと、板の木目が見えるような感じがするが、wall panelling でネット検索すると こういう木目の見えないものも出てくる。文字通りパネル(決まった大きさの板)を組み合わせた形の壁であれば、 別に木の板っぽさがなくても良いらしい。
- a roll-top desk, [真崎訳] ロールトップの机, [小倉訳 p.163] 折たたみ式の蓋つき机
- カタカナでロールトップと言われても私には何のことかわからなかったのだが、「ロールトップ」でネット検索すると 写真付き解説があって、どのようなものかがわかる。いかにもイギリスアンティークな家具だ。
- chintz, [真崎訳] チンツ, [小倉訳 p.163] さらさ木綿
- これもカタカナでチンツと言われても私には何のことかわからないが、やっぱりネット検索すると 「更紗」 と出てくる。更紗が何だかちゃんと知っているわけではないが、更紗と言われた方が分かる気がする (単に過去に聞いたことがあるというだけの話ではあるが)。
もひとつついでに Mrs Baker の語りを Devon 方言っぽくするために人称代名詞を変えているのも興味深い。
- we の代わりに us を使っている。"Us had to go in again."
- you の代わりに thee 由来の ee を使っている。"Don't ee remember?"
Suchet 版は第37話「なぞの遺言書」(脚本 Douglas Watkinson)。このテレビドラマ版は、 登場人物のうちの数名の名前とその性格付け以外は内容を全く違ったものにしてある。脚本家かプロデューサーは 原作が全く気に入らなかったと見える。
原作は、Andrew Marsh の遺言書を探す物語なのだが、ドラマ版は、Andrew Marsh 殺害の真相を探る物語になっている。 原作と全く違う物語なので、原作とは無関係に概要をまとめておく。
- 登場人物
- Andrew Marsh : 被害者。資産家で、心臓が悪い。男女差別の古い考えを持っている。
- Violet Wilson : Andrew が後見人になっている若き女性。ケンブリッジ大学に通う才媛。最後に、Andrew と Phyllida の実の娘だとわかる。
- John Siddaway : 弁護士。長年、Andrew の弁護士をしており、遺言書を預かっている。
- Sarah Siddaway : John の妻。最後に、犯人だと分かる。
- Robert Siddaway : Siddaway 夫妻の息子。ケンブリッジ大学の学生で、進歩的な考えを持っている。Violet と恋仲。
- Walter Baker : 巡査部長。
- Margaret Baker : Walter の妻。Andrew の家政婦で Violet の乳母。Andrew と恋仲だったこともある。
- Peter Baker : Baker 夫妻の息子。軍人。Violet と Robert とは幼馴染。
- Dr. Pritchard : Andrew の主治医。エリンフォード医療財団の会長。
- Phyllida Campion : ケンブリッジ大学の某カレッジの学長。独身を装っていたが、Violet の実の母親であることが最後にわかる。
- あらすじ
- 10 年前、Andrew は遺言書を作っていた。内容は、遺産の 3/4 はエリンフォード医療財団に(会長は Dr. Pritchard)、 Siddaway 夫妻に 250 ポンド、Phyllida Campion に 500 ポンド、 Peter Baker と Robert Siddaway に 1000 ポンドずつというものだった。 Baker 夫妻には生前分与してあった。Violet Wilson には教育資金のみであった。
- Cambridge に Poirot は Hastings を連れて旧友の Andrew Marsh に会いに行く。 Andrew は二人を自宅のクラブツリー荘に招待した。
- その夜、Andrew は自分の余命はもう長くないと Poirot に語る。 明日、遺言状を書き換えて、すべてを Violet に遺すことにするから、 Poirot に遺産執行人になってくれと話す。
- その直後、Andrew は何者かに電話で離れに呼び出され、殺害される。
- 翌朝、Andrew が死んでいるのが発見される。Dr. Pritchard は、死因は心不全だとし、 Baker 巡査部長も不審な点は無いとして、たいして捜査をしようとしない。 Poirot は、真相を突き止めることを決意する。
- Andrew の遺言書が無くなっていることもわかる。
- Andrew には実の息子がいるかもしれないという話が出てくる。それは Peter なのか?Robert なのか?
- Japp 警部が現れる。離れでインシュリンの壜を発見する。さらに、検死の結果、Andrew Marsh の腕に注射の痕が発見された。 そこで、Dr. Pritchard が容疑者として逮捕された。
- Phyllida Campion がロンドンへ Poirot に会いに行く。ところが、会う前に 地下鉄のエレベーターで何者かに突き落とされ、重傷を負う。その手当の時に、 独身のはずの Phyllida の身体に帝王切開をした痕が見つかる。 そこで、Poirot は Miss Lemon に病院で過去の出生の記録を調べてもらう。
- 最後に Poirot は、皆を集めて、真相を解き明かす。犯人は Sarah Siddaway だった。 彼女は、Andrew にインシュリンを注射して殺害し、遺言書を隠した。 Robert が Andrew の実子だという噂を流し、遺産を Robert のものにしようとしたのだ。 Violet が Andrew と Phyllida Campion の娘だということが分かり、遺産は Violet が相続することになった。 Sarah が Phyllida を突き落としたのは、Violet が Andrew の実子だと話されるとまずいからだった。
ヴェールをかけた女 The Veiled Lady
シャーロック・ホームズのThe Adventure of Charles Augustus Milvertonと途中までは 似た内容で、Poirot と Hastings が某ゆすり屋の家に女性依頼者の昔の手紙を取り返すために忍び込む。ホームズでも ポアロでもここからどんでん返しがあるのだが、ポアロの方がどんでん返しの度合いが大きい。
ホームズを意識してホームズを超えようとしているとみられる場面もある。 ホームズがゆすり屋の金庫から問題の手紙を見つけ出すのに対して、ポアロに言わせれば、
[真崎訳] 金庫だって?馬鹿馬鹿しい!金庫なんかあるものか。ミスタ・ラヴィントンは頭のいいやつだ。 金庫よりもっと巧妙な隠し場所があるにきまってる。誰だって、まっ先に金庫を調べるからな。というわけで、ホームズはまるっきり否定されている。なお、訳文はどちらかといえば、小倉訳の方が原文に忠実であることが分かる。
[小倉訳] 金庫だ?ばかばかしい!金庫なんかあるもんか。ラヴィントンは頭のいいやつだ。いいかね、君。 あいつは金庫よりもずっと気のきいた隠し場所を工夫してるだろうよ。金庫なんか、誰だってまっさきに探すものだからな。
[原文] Safe? Fiddlesticks! There is no safe. Mr Lavington is an intelligent man. You will see, he will have devised a hiding‐place much more intelligent than a safe. A safe is the first thing everyone looks for.
ただし、この小説にはひとつ疑問が残る。ゆすり屋のラヴィントンはオランダで殺されているのだが、 それを留守宅の使用人は知らなかったのか、という点である。ポアロは、ラヴィントンの留守宅に行って、 ラヴィントンが注文していた防犯錠を付けに来たと言って、留守宅の使用人から疑われていない。 ということは、使用人はラヴィントンが死んだことを知らなかったということだろうが、タイミング的に やや無理がある気がしなくもない。もっともラヴィントンのような男は身元を隠して活動しているだろうから、 なかなか身元が分からず、そのため知らせもなかなか届かなかったということは考えられる。
翻訳に関していくつか:
- Wimbledon の Buona Vista というのが出てくるが、これはおそらくラヴィントンの邸宅の名前である。 小倉訳は「ボナ通り」としていて誤り、真崎訳でも「ボナ・ヴィスタにある」庭のような書き方をしているから Buona Vista を地名だと考えている。でも正しくは「ブオナ・ヴィスタ荘」とでも訳すべきだと思う。 なお、Buona Vista を英語に直訳すると Good View である。だから「好景荘」なんかでも良いかもしれない。
- ポアロが、ラヴィントン宅の窓に仕掛けをしておいたと言うところ。
[真崎訳] 今朝、のこぎりで留め金を切っておいたんだ。
[小倉訳] この窓の留め金のとこに、鋸をあてて置いたからさ
[原文] Because I sawed through the catch this morning.
これは真崎訳の方が明確である。小倉訳の「鋸をあてる」では何をしたのかよくわからない。 - 偽のレディ・ミリセントが正体を現して毒づく場面。
[真崎訳] 「騙されたわ!」まるで人が変わったようにレディ・ミリセントが言った。「意地悪じじい!」
[小倉訳] 「畜生、いっぱいくわされたよ!」ミリセント嬢が打って変った様子で言った。「このすばしこいじじくそめ!」
[原文] ‘Nabbed, by the Lord!’ said Lady Millicent, with a complete change of manner. ‘You nippy old devil!’
どう訳すかは難しいところ。nab は「逮捕する」という意味だから「捕まっちまったよ」とでもするほうが正確そう。 nippy は、「素早い、機敏な」ということだから、小倉訳の方が忠実。
Suchet 版は第12話「ベールをかけた女」(脚本 Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:
- ほぼ原作に従っているが、原作には無い場面を主に3つ付け加えている。テレビドラマ的に面白くなるようにしてある。
- ポアロがブオナ・ビスタで窓に細工をする場面は映像化されている。原作では話だけ。
- ブオナ・ビスタで箱を見つけた後、原作ではポアロは無事ブオナ・ビスタを抜け出すのだが、 テレビドラマ版では、家政婦のゴッドバーが警官を呼んできて、ポワロは警察に捕まる。ヘイスティングスは捕まる前に逃げて、 ジャップ警部に助けを求める。ポアロが留置されている様子がユーモラスに描かれている。 ポアロは、ラビントンが前の週に殺されていたことを、警察署でジャップ警部から聞く。
- 最後にポアロとジャップ警部が偽ミリセントの正体を暴くと、原作では偽ミリセントのガーティはすぐ捕まってしまう。 これに対して、テレビドラマ版では、ガーティは仲間のジョーイ・ウェザリー(偽ラビントン)と宝石を手に一緒に逃げ出して、 捕物が行なわれる。それにふさわしいように、場所がポアロの部屋ではなく、自然史博物館になっている。
- 前半部にも少し改変がある。
- 冒頭は、宝石強盗の場面。次の場面からはほぼ原作に沿っている。
- ポアロがヴェールをかけた女(偽ミリセント)に会うのはアシーナホテルになっている。原作ではポアロの部屋。 後の成り行きから考えると、仲間のジョーイと一緒に行動するためだろう。
- ポアロはラヴィントンの住所を電話帳で調べる。ブオナ・ビスタ、シーダース・アベニュー。原作では通りの名前はわからない。 通りの名前を出すための工夫だろう。
消えた廃坑 The Lost Mine
本短編集の中でも最短の一編。Poirot が Hastings に対して昔の事件を語るという形を取っている。 阿片窟での捜査が出てくるという意味では、シャーロック・ホームズの The Man with the Twisted Lip を思い出すが、話の内容は全く別物である。
真崎訳と小倉訳が一致しないところを2か所:
- 被害者のウー・リンが話をした乗客の一人の説明。
[真崎訳] ひとりはダイアーという年寄りのヨーロッパ人で、
[小倉訳] 一人は、ダイアーというごろつきヨーロッパ人でね。
[原文] one a broken-down European named Dyer
問題は broken-down の訳だが、ジーニアス英和大辞典電子版だと「健康を損ねた、衰弱した」なので、どちらかといえば 真崎訳の方が正しそうだが、年齢はわからないので「ヨタヨタした」くらいの訳の方が良いと思う。 ところで European には イギリス人ではないというニュアンスがあるようにも思えるが、一方で、 Dyer はイギリス人の苗字なので、なぜ European と言ったのかよくわからない。 - 東洋人(中国人)がウー・リンを殺したと説明するところ。
[真崎訳] 東洋人にとってウー・リンを殺してテムズ川に投げ込むことなどなんでもないから、 ピアソンには相談もせずに自分流に片をつけてしまったのさ。
[小倉訳] 東洋人にとっては、呉齢を殺して、死体を河に放りこむなんて、朝めし前だもんだから、 彼の中国人の共犯者たちは、彼に一言の相談もなく、中国流に片づけちゃったのさ。
[原文] to the Oriental mind, it was infinitely simpler to kill Wu Ling and throw his body into the river, and Pearson's Chinese accomplices followed their own methods without consulting him.
全体としては見てわかる通り、小倉訳の方が原文に忠実で、共犯者が複数であることが明確である。 問題は their own methods の訳だが、どちらの訳の方が良いかは私には判断できない。 読んでわかる通り、クリスティには東洋人が残酷だという偏見があるようで、その偏見が強いと見れば、 「中国人の流儀で」と訳すだろうし、その偏見が強くないと見れば「彼ら独自のやり方で」となるだろう。 こういう場合はどちらとも取れるように「やつらの流儀で」とでも訳すのが良いと思う。
Suchet 版は第13話「消えた廃坑」(脚本 Michael Baker, David Renwick)。原作の通りに Poirot がずっと昔話をしているのでは ドラマにならないので、事件の捜査とともにドラマが進行するようになっている。その他にも骨組み以外は話がかなり大きく変わっている。 一つには、原作が短すぎるので、話を膨らませる必要があったものと思われる。原作との主な違いは以下の通り。
- 原作では、捜査に当たるのは基本的に Poirot だけ。警察からはミラー警部が出てくるが、彼はあまり頼りにならない。 それに対して、テレビドラマでは、ヘイスティングスがポワロと行動を共にするし、警察からはジャップ警部が出て来て、 協力して捜査を進める。
- ポワロとヘイスティングスは、ピアソンの依頼を受けて、事件に関わり始める。原作では、すでに Wu Ling の死体が 見つかっているが、テレビドラマでは、依頼の時点ではまだ見つかっていない。
- ジャップ警部は、死体が見つかってから事件に関わり始める。
- ジャップ警部は主に、船で Wu Ling と付き合いがあったことが分かっているレジナルド・ダイヤ―を追う。 ダイヤ―は原作では名前がちょっと出てくるだけでいなくなるのだが、テレビ版では、ダイヤ―が前科者ということもあって、 ジャップ警部がしつこく追いかける。最初から 1/3 くらいのところで、ジャップ警部が警視庁の指令室で電話を使って数台のパトカーに指示を出し、 チャイナタウンでダイヤ―容疑者を包囲して捕まえる様子が描かれている。しかし、証拠不十分で結局追い詰められなかった。
- ポワロとジャップ警部がホテルの Wu Ling の部屋でチャールズ・レスターの名前が書いてあるメモを見つけたところから(原作には無い)、 ポワロとヘイスティングスは、チャールズ・レスターを追う。レスターは、原作では銀行員 (bank clerk) だが、テレビドラマ版では 株式仲買人(stockbroker) である。レスターは、最初 Wu Ling のことをほとんど知らないと言っていたが(原作には無い)、 ホテルのフロント係が、レスターがホテルに来たと言ったので、改めて問いただすことになった。 すると、レスターは、中国人の店に行ったが、食事の途中、Wu Ling は電話を掛けに行ったまま戻ってこなかったと言う (原作と少し供述内容が異なる)。
- チャールズ・レスターに関しては、以下の原作にないことが付け加えられている。レスターは阿片中毒だった。 レスター夫人が夫の様子がおかしいと訪ねてくる。そして、夫の上着のポケットから Wu Ling のパスポートを見つけたという。
- 原作には無い The Red Dragon Club というチャイナタウンの賭博場兼阿片窟が後半の大きな舞台になる。 警察は、そこの阿片窟でダイヤーとレスターを見つける。ダイヤ―は阿片の取引で捕まえられる。 レスターは阿片で眠っている。
- 最後に、ポワロが The Red Dragon Club にピアソンを呼び出して、ピアソンをちょっとした罠にかけて捕まえるという テレビらしい演出がある。ピアソンに Wu Ling のパスポートがレスターのポケットにあることを言わせるのだ。 原作は全く違っていて、ピアソンがポワロを阿片窟で騙そうとするが、逆にポワロがピアソンのポケットの中に問題の書類を見つけて 事件が解決となる。
- ドラマ版では、ピアソンがレスターに罪を着せるのは、二人が The Red Dragon Club で会っているからだ。 ピアソンがギャンブル狂で、レスターが阿片中毒で、どちらも The Red Dragon Club に入り浸りという関係だ。 ピアソンの共犯者は、レスターの名前をわざとホテルの Wu Ling の部屋に残した。 翌日、ピアソンは、レスターをホテルに呼び出し、The Red Dragon Club に連れて行って阿片を吸わせた。 ピアソンは、そこでレスターのポケットにパスポートを入れた。
- テレビドラマでは、合間合間に Poirot と Hastings が Monopoly ゲームをやっている場面が差し挟まれる。
- ホテルの名前が原作では Russel Square Hotel であるところ、ドラマ版では St. James Hotel になっている。
- ひとつ不思議なところは、Wu Ling の偽物がホテルで Han Wu Ling と署名しているところだ。Wu が苗字で Ling が名前だと 何かまずいことがあったのだろうか?小倉訳では「呉齢」と漢字を当てている。苗字が Han ならその漢字としては「韓」が考えられる。 一方で、パスポートの名前は「郁安康」となっていて、Yu An-Kang としか読めないのが変なところである。 小道具係が中国語を読めなかったのだと思われる。Han Wu Ling と署名したのは、この小道具に合わせて無理矢理三文字にしたのかもしれない。
チョコレートの箱 The Chocolate Box
Poirot が Hastings に昔の推理の失敗を語る。失敗という意味では、 シャーロック・ホームズの『 黄色い顔』を思い出す。話の内容は全く別物だが、最後に Poirot が Holmes と同じようなことを言う。 Holmes は Watson に
Watson, if it should ever strike you that I am getting a little over-confident in my powers, or giving less pains to a case than it deserves, kindly whisper 'Norbury' in my ear, and I shall be infinitely obliged to you.と言ったのだが、Poirot は Hastings に
Or no -- remember it, and if you think at any time that I am growing conceited -- it is not likely, but it might arise. Eh bien, my friend, you shall say to me, "Chocolate box". Is it agreed?と言う。Holmes の場合は、この台詞で小説が終わるのに対して、Poirot の場合は、この後に Poirot と Hastings の間のユーモラスなやり取りが少しある。これは Poirot らしいところである。 Holmes が変人である点はあんまりユーモラスとは受け取れないが、Poirot の方はユーモラスな部分がある。
真崎訳と小倉訳の違いも見ておこう:
- フランス語の読み方が違っているところがいくつかある。これらはいずれも真崎訳の方が正しい。
- Avenue Louise: 〇アヴニュ・ルイーズ(真崎訳) ×ルイ通り(小倉訳)
- Félice: 〇フェリス(真崎訳) ×フェルシー(小倉訳)
- de Saint Alard: 〇ド・サンタラール(真崎訳) ×サン・アラール(小倉訳)
- cataract を「白内障」(真崎訳)と訳すのは普通。小倉訳が、今ではほぼ死語と思われる「そこひ」となっているのが、 今となっては珍しい。
- trinitrin も今となってはほぼ死語ではないだろうか。小倉訳ではそのまま「トリニトリン」としてあるが、真崎訳では 今となっては普通の「ニトログリセリン」に直してある。狭心症の薬である。もともと trinitrin という単語は、 ニトログリセリンに爆薬のイメージが強いので、薬用の用語として造語されたもののようである。
Suchet 版は第39話「チョコレートの箱」(脚本 Douglas Watkinson)。 事件の大筋は原作通りだが、外枠の物語を変えてある。さらに、それに伴って、ポワロの失敗談にはしていない。 間違った推理に導かれそうになるのだが、最後には自分でその間違いに気付く。
原作では、外枠の話は、ポワロがヘイスティングスに昔の推理の失敗談を語るということなのだが、 このドラマ版にはヘイスティングスは出てこない。代わりに、ブリュッセルで ポワロがジャップ警視(最近、警部から警視になった)とベルギー警察時代の同僚だったシャンタリエと 食事をしているときに昔の事件の真相を語るという形になっている。 ジャップはベルギーから黄金の枝コンパニオンに選ばれ、その授与式に出席するために ブリュッセルに来ており、その授与式の場面も入っている。 が、ポワロ、ジャップ、シャンタリエの食事の場面からやがて授与式の場面になり、 その後最後にもう一度、ポワロ、ジャップ、シャンタリエの食事の場面に戻るのが謎である。 最初の食事の場面と最後の食事の場面は違う場所なのか同じ場所なのかがよくわからない。
この大きな外枠の物語の変更に合わせたのか、事件の進行も少し変えてある。 以下のような改変がある。
- ポール・デルラールが亡くなった日の夕食会の参加人物のうち、 原作でイギリス人のジョン・ウィルソンに相当する人物がベルギー人のガストン・ボージュになっている。 彼は、ベルギーの諜報局の人という設定だ。デルラールがドイツの協力者かどうかを探るために デルラール家に入り込んでいた。ポワロのアパートに侵入するということまでしている。 これは、ガストン・ボージュも有力な容疑者にするための仕掛けだろう。
- 原作ではサンタラ―ルの肩書は書かれていない。一方、ドラマ版では、伯爵で、現ブリュッセル市長で、 チョコレート会社の社長。毒殺にはこの会社のチョコレートが使われている。
- ポール・デルラールが死ぬのは、原作ではサンタラ―ルとジョン・ウィルソンの目の前だが、 ドラマ版では、一人書斎の中で。不眠症で、一人夜中に起きて来て書斎にいた時という設定になっている。 二人の前で死んだのだったら、さすがに毒殺だとわかってしまうだろうから、一人の時に 死んだことにしたのではあるまいか。
- ビルジニーがポワロに事件の捜査を依頼するのは、原作ではポワロのアパートだが、 ドラマ版ではどこかのレストランである。ポワロはまだ私立探偵ではなかったので、アパートを 訪れるという設定が変だと思ったのだろう。ドラマによれば、これがポワロの私立探偵としての初仕事である。
- ドラマ版ではポワロの上司のブシェール警視というのが出て来て、ポワロが この事件に首を突っ込むのを止めさせようと躍起になっている。
- 原作では、ポワロはジャーナリズム関係の人間ということにしてデルラール家に入り込むのだが、 ドラマ版では、最初から警官ということでデルラール家を訪れる。
- 原作では薬屋の薬剤師には名前も付いていないのだが、ドラマ版では ジャン・ルイ・フェローという名前が付いていて、かつポワロと親しいことになっている。 ポワロはフェローにチョコレートをの分析をしてもらい、トリニトリンが入っていることがわかる。 さらに、事件後、フェローとビルジニーが結婚していたことが最後に明かされる。
- 原作では、ビルジニーは、途中でポワロにもう捜査をしないでくれと頼む。 これに対して、ドラマ版では、ビルジニーは最後までポワロに協力して真犯人を見つけようとする。 ビルジニーは、サン・タラ―ルから自白を引き出そうとするが、失敗する。 マダム・デルラールの告白もポワロと一緒に聴く。
- 原作では、マダム・デルラールが自ら告白するまで、ポワロは真相を間違えて捉えているが、 ドラマ版では、ポワロは最後になって自分でマダム・デルラールが犯人だと気付く。したがって、ポワロの失敗談には なっていない。