ポアロ登場

著者Agatha Christie
訳者真崎 義博
シリーズクリスティー文庫
発行所早川書房
電子書籍
電子書籍刊行2011/01/10
電子書籍底本刊行2004/07
原題Poirot Investigates (イギリス版 1924; アメリカ版 1925) / イギリス版 Poirot's Early Cases (1974)
原出版社イギリス版 The Bodley Head (Poirot Investigates), Collins Crime Club (Poirot's Early Cases) / アメリカ版 Dodd Mead and Company
初出 イギリスでは全部が週刊誌 The Sketch に掲載、アメリカでは全部が月刊誌 Blue Book Magazine に掲載
The Adventure of 'the Western Star' (1923/04/11 [UK]; 1924/02 [US] 原題 The Western Star)
The Tragedy at Marsdon Manor (1923/04/18 [UK]; 1924/03 [US] 原題 The Marsdon Manor Tragedy)
The Advencture of the Cheap Flat (1923/05/09 [UK]; 1924/05 [US])
The Mystery of Hunter's Lodge (1923/05/16 [UK]; 1924/06 [US] 原題 The Hunter's Lodge Case)
The Million Dollar Bond Robbery (1923/05/02 [UK]; 1924/04 [US] 原題 The Great Bond Robbery)
The Adventure of the Egyptian Tomb (1923/09/26 [UK]; 1924/08 [US] 原題 The Egyptian Adventure)
The Jewel Robbery at the Grand Metropolitan (1923/03/14 [UK] 原題 The Curious Disappearance of the Opalsen Pearls; 1923/10 [US] 原題 Mrs Opalsen's Pearls)
The Kidnapped Prime Minister (1923/04/25 [UK]; 1924/07 [US] 原題 The Kidnapped Premier)
The Disappearance of Mr Davenheim (1923/03/28 [UK]; 1923/12 [US] 原題 Mr Davenby Disappears)
The Advecture of the Italian Nobleman (1923/10/24 [UK]; 1924/12 [US] 原題 The Italian Nobleman)
The Case of the Missing Will (1923/10/31 [UK]; 1925/01 [US] 原題 The Missing Will)
The Veiled Lady (1923/10/03 [UK] 原題 The Case of the Veiled Lady; 1925/03 [US])
The Lost Mine (1923/11/21 [UK]; 1925/04 [US])
The Chocolate Box (1923/05/23 [UK] 原題 The Clue of the Chocolate Box; 1925/02 [US])
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2023/03/26
参考 web pages Wikipedia「ポアロ登場」
Wikipedia「Poirot Investigates」
Wikipedia「名探偵ポワロ」
Wikipedia -- List of Agatha Christie's Poirot episodes

ポアロ登場

著者Agatha Christie
訳者小倉 多加志
シリーズHAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS No.522
発行所早川書房
刊行1975/11/15 (4版)
入手どこかの古書店で購入(忘れた)
読了2023/03/26

小倉訳はずいぶん前に何度か読んだのだが、今回は Suchet 版テレビドラマを見つつ、真崎新訳と比べつつ読んでみた。 ポアロものの初期の短編集である。ポアロものの初期短編のうちから出来の良いものを選んで、最初の短編集として 出版したものであろう。

シャーロック・ホームズシリーズを意識したと思われる作品も多く、それらの比較も読みどころである。

Poirot Investigates イギリス版は 11 編、アメリカ版はそれに 3 編加えた 14 編、早川クリスティー文庫版(真崎新訳)はアメリカ版と同じ 14 編、 早川ポケットミステリ版(小倉訳)はそれから『<西洋の星>盗難事件』を除いた 13 編を収録する。 イギリスでは、残りの 3 編は Poirot's Early Cases の中に収録されている。

<西洋の星>盗難事件 The Adventure of 'The Western Star'

近接して起こった2つのダイヤ盗難事件のつながりをポアロが暴く。 ヘイスティングスが、道化役とミスリード役をしている。最後に、ヘイスティングスがポアロに ずっとからかわれていたことに気付いて怒るところがユーモラスで印象的である。真崎訳も よくはまっている。以下、最後の段落。

[原文] "I'm fed up!" I went out, banging the door. Poirot had made an absolute laughingstock of me. I decided that he needed a sharp lesson. I would let some time elapse before I forgave him. He had encouraged me to make a perfect fool of myself!
[真崎訳] 「もうたくさんだよ!」私は部屋を出て力任せにドアを閉めた。ポアロは私を徹底的に笑いものにしたのだ。 私は、彼に思い知らせてやろうと心に決めた。当分のあいだ、ぜったいに許さないぞ。すっかりその気にさせたあげくに、 笑いものにしやがって。

この小説はこの第一短編集の最初に置かれているが、雑誌初出は最初ではないので、過去の事件に対する言及がある:

Suchet 版は第19話「西洋の星の盗難事件」だが、ビデオの録画に失敗していて観ていない。

マースドン荘の悲劇(真崎訳) マースドン荘の惨劇(小倉訳) The Tragedy at Marsdon Manor

美貌の悲しみに打ちひしがれる未亡人が実は冷酷だったという物語。

小倉訳と真崎訳の相違点に注目して英語を見てゆく:

Suchet 版は第25話「マースドン荘の惨劇」(脚本 David Renwick)。David Renwick の脚本作品は、 本筋以外のところは原作から話を大きく変えてあるものが多いのだが、これもそうであった。 小説とテレビドラマでは、演出の仕方が違うべきだという主張がある感じがする。 以下、このテレビドラマ版の特徴:

安アパート事件 The Adventure of the Cheap Flat

格安条件には裏があるという事件。事件に名前が利用されているという意味では、シャーロック・ホームズの The Advencture of the Three Garridebs(三人のガリデブ)と似た発想である。 ただし、ガリデブ事件では Garrideb という珍しい苗字が利用されていたのに対して、こちらは Robinson という ありふれた苗字が利用される。

英語と翻訳に関していくつか:

Suchet 版は第17話「安いマンションの事件」(脚本 Russell Murray, Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

狩人荘の怪事件(真崎訳) 猟人荘の怪事件(小倉訳) The Mystery of Hunter's Lodge

ポアロがヘイスティングスからの報告を基に安楽椅子型で事件の真相を掴むが、証拠不十分で犯人を捕まえることに失敗する話。 しかし、最後には犯人に天罰が下る。最後は犯人に天罰が下るという終わり方は、シャーロック・ホームズでも 『オレンジの種五つ』で採用されていた。

真崎訳と小倉訳が一致しないところを中心に、英語や翻訳の問題を見てゆく:

Suchet 版は第30話「猟人荘の怪事件」(脚本 T.R. Bowen, Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

全体的に、トリックの骨組み以外は原作をかなり改変しており、創作の部分が多い。

百万ドル債券盗難事件 The Million Dollar Bond Robbery

債券の盗難事件。ポアロが関係者3人+αから事情を聞いただけであっさり犯人を特定してしまう。

真崎訳と小倉訳が一致しないところをピックアップしていく。だいたいは、小倉訳の誤りを真崎訳が少し訂正しているような 感じになっている。

  1. 航海に関するポアロの感想
    [真崎訳] 船酔いがなくて、イギリス海峡を渡る何時間かのあいだラヴェルギエが考案した酔い止め法をつづける苦行さえなければ、 そういう豪華客船に乗って旅をするんだが。
    [小倉訳 p.58] 船に酔っぱらわなくてさ。ラヴェルジェのあのすてきな捜査法を、イギリス海峡を渡る間の一、二時間つかうだけで すむんなら、ぼくもさっそくその豪華船にのって航海するとこだがなあ。
    [原文] If it were not for the mal de mer, and the difficulty of practising the so excellent method of Laverguier for a longer time than the few hours of crossing the channel, I should delight to voyage myself on one of these big liners.
    これは明らかに真崎訳の方が正しい。Laverguier はフランス語読みすれば「ラヴェルギエ」だし、これが船酔い防止の方法だという ことは、同じ短編集の『首相誘拐事件(総理大臣の失踪)』を読むと分かる。そちらでは小倉訳も「ラヴェルギエ」になっている。 実際、イギリスでの初出時期を見ると、本作品は『首相誘拐事件(総理大臣の失踪)』の翌週に出ているので、 ポアロが『首相誘拐事件(総理大臣の失踪)』でイギリス海峡(ドーバー海峡)を渡ったことを受けてこう言っているのだ。 ただし、両方の訳とも longer を訳していない。話題になっている船は大西洋横断の定期船のことなので、 ドーバー海峡を渡る数時間よりも長い航海は耐えられないなあと言っているのである。
    [拙訳] 船酔いがなくて、ドーバー海峡を渡る数時間よりも長い間ラヴェルギエの船酔い防止の素晴らしい体操をやり続けないと いけないなんて無理ゲーがなければ、喜んでそんな大きな定期船に乗ってみるんだがなあ。
  2. steak and kidney pudding
    [真崎訳] ステーキやキドニー・プディング
    [小倉訳 p.61] ビフテキや腎臓入りの腸詰
    これはどちらも誤りである。steak and kidney pudding という一つの料理が存在するのである。 イギリスの伝統料理である。腸詰でもない。
    [拙訳] ステーキ・アンド・キドニー・プディング(イギリスの伝統料理)
  3. Liverpool でポアロがやることになっていること
    [真崎訳] 私たちの計画では、四人の客室係に会い、この船で二十三日にニューヨークへ渡ったポアロの友人について 話を聞くことになっていた
    [小倉訳 p.66] わたしたちの予定は、四人のボーイに次々に会うことと、この船で二十三日にニューヨークへ行ったポアロの友人に 会って訊いてみることだった。
    [原文] Our proceedings consisted in interviewing four successive stewards and inquiring after a friend of Poirot's who had crossed to New York on the 23rd.
    これは真崎訳が正しい。ただし、辞書によると、proceedings には「計画」という意味もあるにせよ、どちらかといえば 「事の成り行き」とか「裁判手続き」とかいった意味の方が中心的なようなので、proceedings は軽く以下のように訳すのもありかもしれない。
    [拙訳] 私たちがやった作業は、客室係四人に順々に会って、23日にニューヨークに渡ったポアロの友人について尋ねてみることだった。
  4. London に戻ってから行くレストラン
    [原文] the Rendezvous Restaurant
    [真崎訳] ランデヴー・レストラン
    [小倉訳 p.67] チェシャ・チーズ
    小倉訳では前に行ったレストランに行くことになっているが、ここは大文字で始まっているので、普通に固有名詞だと思って 真崎訳のように単にカタカナにすべきところ。
  5. Ridgeway が犯人だったら面白かったろうにという感想をポアロが述べた後で付け加えた一言
    [原文] a piece of neat methodical work
    [真崎訳] 公式通りだからな
    [小倉訳 p.67] 頭がつかえるからね
    これはどう訳すか難しい所だけど、真崎訳の方が良さそう。ただ、原文が、ポアロが何でも きっちり整っているのが好きということを踏まえているのだろうということを考えると、 以下のような感じで訳すのが良いかもしれない。
    [拙訳] きっちり整った仕事ということになるだろうからね。

Suchet 版は第22話「100万ドル債券盗難事件」だが、ビデオの録画に失敗していて観ていない。

エジプト墳墓の謎 The Adventure of the Egyptian Tomb

エジプトを舞台にした連続殺人事件。ポアロが「メンハーラ王の呪い」を利用して怪しげな行動をとりながらも 見事に事件を解決する。

エジプトは 1882 年から 1922 年までイギリスの植民地だったため、イギリス人が観光で良く行く場所だったようである。 クリスティも母親の 保養のため 1907-1908 年の冬にエジプトに滞在した。本作品は、そのときの経験を基にしているのだろう。

メンハーラ王 (King Men-her-Ra) は第八王朝の架空のファラオのようである。とはいえ、第八王朝の初代もしくは二代目の王は Menkare というのだそうで、 音が似ていることからこのファラオのつもりなのかもしれない。

第二段落目の冒頭、Hard upon the discovery of the Tomb of Tut-ankh-Amen by Lord Carnarvon, と書かれている ツタンカーメン王墓の発掘は 1922 年のことであり、本小説の刊行の1年前である。Lord Carnarvon がこの発掘の資金を提供した。 その Lord Carnarvon が翌年に急死して「ツタンカーメンの呪い」と言われたことが、 本作品執筆のヒントになったと考えられている。ツタンカーメン王墓発掘を 主導していたのは、考古学者の Howard Carter である。本作品で言えば、Howard Carter が Willard 父子に、Mr. Bleibner が Lord Carnarvon にだいたい対応すると言っていいだろう。Mr. Bleibner も急死する。ただし、Howard Carter は不審死することはなかった。 なお、真崎訳には、私が見ている原文には存在しないカーターの名前が第二段落冒頭部に出てくる。原文にいくつかのバージョンが あるのか、真崎訳で説明のために加えられたものかはわからない。

その他、英語関連で気付いたこと:

Suchet 版は第34話「エジプト墳墓のなぞ」(脚本 Clive Exton)。エジプト風の風景が出て来て楽しいが、 実際のロケ地はスペインの Tabernas 砂漠とのことである。 テレビドラマでは、原作よりも展開を少しドラマチックにした演出がなされている。登場人物は原作とあまり変わらないが、 少しだけ変えてある。以下、まず、登場人物についてまとめ、次に演出についてまとめる。

登場人物の違い:

ドラマチックにするための演出など:

グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件 The Jewel Robbery at the Grand Metropolitan

ポアロものの短編2作目(1作目は『 戦勝記念舞踏会事件』)。ここではポアロがが宝石盗難事件を解決する。宝石を盗まれた金満家夫人や そのメイドがかなりカリカチュアライズされていてユーモラスである。ポアロとヘイスティングスのやり取りにも ユーモラスな部分が多く、ポアロものの一つの特徴のユーモアが存分に発揮された作品になっている。

以下、英語がちょっと気になったところのメモ:

Suchet 版は第41話「グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件」(脚本 Anthony Horowitz)。 原作が短くて比較的単純なものなので、原作の大筋を活かしながら、沢山のひねりを加えてある。 とくに演劇の舞台の要素を加えて、舞台の上で犯人が逮捕されるという華やかな演出にしてある。

まず、登場人物の性格付けが変えてあるのと、登場人物を増やしてある。ポワロとヘイスティングスは 原作にもドラマ版にも登場する。そのほかに原作にはいないミス・レモンとジャップ警部が登場する。 原作では名も無い警部が事件を担当するが、ドラマ版ではジャップ警部が担当する。それ以外は以下の通り:

筋書きにはいろいろな修飾やひねりが加えられている。

首相誘拐事件(真崎訳) 総理大臣の失踪(小倉訳) The Kidnapped Prime Minister

総理大臣がフランスで誘拐されたかに見えたが、実はイギリスで誘拐されていたという話。 ポアロがけっこうよく動くので楽しい。

地名メモ:

翻訳メモ:

Suchet 版は第18話「誘拐された総理大臣」だが、ビデオ録画が失敗していて視聴しなかった。

ミスタ・ダヴンハイムの失踪(真崎訳) ダヴンハイム失踪事件(小倉訳) The Disapperance of Mr. Davenheim

探している犯人が変装してすでに刑務所に入っているというトリックは、シャーロック・ホームズの The Man with the Twisted Lip(唇のねじれた男)でもあった。 ただし、筋書きはだいぶん違う。

ホームズを意識していると思えるポアロの台詞がある。ホームズの『唇のねじれた男』では、 変装した夫を妻は見抜けないのだが、ポアロに言わせれば、

[真崎訳] 女性は、たとえ世間の誰もがだまされても、自分の夫はすぐに見分けがつくものだよ。
[小倉訳] 女というものは、世間のほかの連中がごまかされたって、自分の亭主は、十中九分九厘見わけのつくものさ。
[原文] A woman nearly always knows her husband, though the rest of the world may be deceived!
というわけで、ホームズは女性を見くびっているんじゃないのかというクリスティの主張のようである。

英語メモ;ダヴンハイム氏の性格を表すのに look after Number One という成句が出てくる [真崎訳:ムッシュ・ダヴンハイムは“自分の利害を第一に考える”人物だった。 小倉訳:ダヴンハイム氏は、いわゆる自分をかわいがる男だからね。] 。number one が自分自身を指し、 look out for number one / look after number one / take care of number one / be careful of number one のような形で、 自己中心的な人物のことを表現するもののようだ。

ミスプリ;小倉訳の私が持っている版には文の一部が入れ替わっているミスがある(p.129)。
(誤) これが彼の好み彼のいわゆる<君たちイギリス人のおそるべき毒薬>よりはに合っているのだ。
(正) これが彼のいわゆる<君たちイギリス人のおそるべき毒薬>よりは彼の好みに合っているのだ。

Suchet 版は第15話「ダベンハイム失そう事件」(脚本 David Renwick)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

イタリア貴族殺害事件 The Adventure of the Italian Nobleman

伯爵と詐称している悪党がまた別の悪党に殺される話。

Poirot が解決するための手がかりの一つがカーテンの開閉状態なのだが、これが小倉訳では開閉状態が 反対に訳されているところがある。真崎訳では直っている。その理由が実は微妙な英語の問題なのである。

あと2点、小倉訳から真崎訳になって直っているところが最後の方にある。

Suchet 版は第38話「イタリア貴族殺人事件」(脚本 Clive Exton)。 このテレビドラマ版は、犯罪の部分はだいたい原作通りなのだが、その背景となるストーリーを大きく変えてあるのと、 捕物の部分を付け加えてある。

謎の遺言書 The Case of the Missing Will

ポアロが遺言書の隠し場所を当てる話。なぜポアロがあぶり出しだと当てられたのかはよくわからないが、 そのヒントとなることも翻訳で読んでいるとよくわからなくなっている。それを含めて 謎に関する英語と翻訳の問題を見てゆく。

ついでに部屋の内装と調度品に関する用語に関していくつか:

a small panelled room, [真崎訳] 羽目板張りの小さな部屋, [小倉訳 p.163] 腰羽目をはった小部屋
日本語で羽目板というと、板の木目が見えるような感じがするが、wall panelling でネット検索すると こういう木目の見えないものも出てくる。文字通りパネル(決まった大きさの板)を組み合わせた形の壁であれば、 別に木の板っぽさがなくても良いらしい。
a roll-top desk, [真崎訳] ロールトップの机, [小倉訳 p.163] 折たたみ式の蓋つき机
カタカナでロールトップと言われても私には何のことかわからなかったのだが、「ロールトップ」でネット検索すると 写真付き解説があって、どのようなものかがわかる。いかにもイギリスアンティークな家具だ。
chintz, [真崎訳] チンツ, [小倉訳 p.163] さらさ木綿
これもカタカナでチンツと言われても私には何のことかわからないが、やっぱりネット検索すると 「更紗」 と出てくる。更紗が何だかちゃんと知っているわけではないが、更紗と言われた方が分かる気がする (単に過去に聞いたことがあるというだけの話ではあるが)。

もひとつついでに Mrs Baker の語りを Devon 方言っぽくするために人称代名詞を変えているのも興味深い。

Suchet 版は第37話「なぞの遺言書」(脚本 Douglas Watkinson)。このテレビドラマ版は、 登場人物のうちの数名の名前とその性格付け以外は内容を全く違ったものにしてある。脚本家かプロデューサーは 原作が全く気に入らなかったと見える。

原作は、Andrew Marsh の遺言書を探す物語なのだが、ドラマ版は、Andrew Marsh 殺害の真相を探る物語になっている。 原作と全く違う物語なので、原作とは無関係に概要をまとめておく。

登場人物
  • Andrew Marsh : 被害者。資産家で、心臓が悪い。男女差別の古い考えを持っている。
  • Violet Wilson : Andrew が後見人になっている若き女性。ケンブリッジ大学に通う才媛。最後に、Andrew と Phyllida の実の娘だとわかる。
  • John Siddaway : 弁護士。長年、Andrew の弁護士をしており、遺言書を預かっている。
  • Sarah Siddaway : John の妻。最後に、犯人だと分かる。
  • Robert Siddaway : Siddaway 夫妻の息子。ケンブリッジ大学の学生で、進歩的な考えを持っている。Violet と恋仲。
  • Walter Baker : 巡査部長。
  • Margaret Baker : Walter の妻。Andrew の家政婦で Violet の乳母。Andrew と恋仲だったこともある。
  • Peter Baker : Baker 夫妻の息子。軍人。Violet と Robert とは幼馴染。
  • Dr. Pritchard : Andrew の主治医。エリンフォード医療財団の会長。
  • Phyllida Campion : ケンブリッジ大学の某カレッジの学長。独身を装っていたが、Violet の実の母親であることが最後にわかる。
あらすじ
10 年前、Andrew は遺言書を作っていた。内容は、遺産の 3/4 はエリンフォード医療財団に(会長は Dr. Pritchard)、 Siddaway 夫妻に 250 ポンド、Phyllida Campion に 500 ポンド、 Peter Baker と Robert Siddaway に 1000 ポンドずつというものだった。 Baker 夫妻には生前分与してあった。Violet Wilson には教育資金のみであった。
Cambridge に Poirot は Hastings を連れて旧友の Andrew Marsh に会いに行く。 Andrew は二人を自宅のクラブツリー荘に招待した。
その夜、Andrew は自分の余命はもう長くないと Poirot に語る。 明日、遺言状を書き換えて、すべてを Violet に遺すことにするから、 Poirot に遺産執行人になってくれと話す。
その直後、Andrew は何者かに電話で離れに呼び出され、殺害される。
翌朝、Andrew が死んでいるのが発見される。Dr. Pritchard は、死因は心不全だとし、 Baker 巡査部長も不審な点は無いとして、たいして捜査をしようとしない。 Poirot は、真相を突き止めることを決意する。
Andrew の遺言書が無くなっていることもわかる。
Andrew には実の息子がいるかもしれないという話が出てくる。それは Peter なのか?Robert なのか?
Japp 警部が現れる。離れでインシュリンの壜を発見する。さらに、検死の結果、Andrew Marsh の腕に注射の痕が発見された。 そこで、Dr. Pritchard が容疑者として逮捕された。
Phyllida Campion がロンドンへ Poirot に会いに行く。ところが、会う前に 地下鉄のエレベーターで何者かに突き落とされ、重傷を負う。その手当の時に、 独身のはずの Phyllida の身体に帝王切開をした痕が見つかる。 そこで、Poirot は Miss Lemon に病院で過去の出生の記録を調べてもらう。
最後に Poirot は、皆を集めて、真相を解き明かす。犯人は Sarah Siddaway だった。 彼女は、Andrew にインシュリンを注射して殺害し、遺言書を隠した。 Robert が Andrew の実子だという噂を流し、遺産を Robert のものにしようとしたのだ。 Violet が Andrew と Phyllida Campion の娘だということが分かり、遺産は Violet が相続することになった。 Sarah が Phyllida を突き落としたのは、Violet が Andrew の実子だと話されるとまずいからだった。

ヴェールをかけた女 The Veiled Lady

シャーロック・ホームズのThe Adventure of Charles Augustus Milvertonと途中までは 似た内容で、Poirot と Hastings が某ゆすり屋の家に女性依頼者の昔の手紙を取り返すために忍び込む。ホームズでも ポアロでもここからどんでん返しがあるのだが、ポアロの方がどんでん返しの度合いが大きい。

ホームズを意識してホームズを超えようとしているとみられる場面もある。 ホームズがゆすり屋の金庫から問題の手紙を見つけ出すのに対して、ポアロに言わせれば、

[真崎訳] 金庫だって?馬鹿馬鹿しい!金庫なんかあるものか。ミスタ・ラヴィントンは頭のいいやつだ。 金庫よりもっと巧妙な隠し場所があるにきまってる。誰だって、まっ先に金庫を調べるからな。
[小倉訳] 金庫だ?ばかばかしい!金庫なんかあるもんか。ラヴィントンは頭のいいやつだ。いいかね、君。 あいつは金庫よりもずっと気のきいた隠し場所を工夫してるだろうよ。金庫なんか、誰だってまっさきに探すものだからな。
[原文] Safe? Fiddlesticks! There is no safe. Mr Lavington is an intelligent man. You will see, he will have devised a hiding‐place much more intelligent than a safe. A safe is the first thing everyone looks for.
というわけで、ホームズはまるっきり否定されている。なお、訳文はどちらかといえば、小倉訳の方が原文に忠実であることが分かる。

ただし、この小説にはひとつ疑問が残る。ゆすり屋のラヴィントンはオランダで殺されているのだが、 それを留守宅の使用人は知らなかったのか、という点である。ポアロは、ラヴィントンの留守宅に行って、 ラヴィントンが注文していた防犯錠を付けに来たと言って、留守宅の使用人から疑われていない。 ということは、使用人はラヴィントンが死んだことを知らなかったということだろうが、タイミング的に やや無理がある気がしなくもない。もっともラヴィントンのような男は身元を隠して活動しているだろうから、 なかなか身元が分からず、そのため知らせもなかなか届かなかったということは考えられる。

翻訳に関していくつか:

  1. Wimbledon の Buona Vista というのが出てくるが、これはおそらくラヴィントンの邸宅の名前である。 小倉訳は「ボナ通り」としていて誤り、真崎訳でも「ボナ・ヴィスタにある」庭のような書き方をしているから Buona Vista を地名だと考えている。でも正しくは「ブオナ・ヴィスタ荘」とでも訳すべきだと思う。 なお、Buona Vista を英語に直訳すると Good View である。だから「好景荘」なんかでも良いかもしれない。
  2. ポアロが、ラヴィントン宅の窓に仕掛けをしておいたと言うところ。
    [真崎訳] 今朝、のこぎりで留め金を切っておいたんだ。
    [小倉訳] この窓の留め金のとこに、鋸をあてて置いたからさ
    [原文] Because I sawed through the catch this morning.
    これは真崎訳の方が明確である。小倉訳の「鋸をあてる」では何をしたのかよくわからない。
  3. 偽のレディ・ミリセントが正体を現して毒づく場面。
    [真崎訳] 「騙されたわ!」まるで人が変わったようにレディ・ミリセントが言った。「意地悪じじい!」
    [小倉訳] 「畜生、いっぱいくわされたよ!」ミリセント嬢が打って変った様子で言った。「このすばしこいじじくそめ!」
    [原文] ‘Nabbed, by the Lord!’ said Lady Millicent, with a complete change of manner. ‘You nippy old devil!’
    どう訳すかは難しいところ。nab は「逮捕する」という意味だから「捕まっちまったよ」とでもするほうが正確そう。 nippy は、「素早い、機敏な」ということだから、小倉訳の方が忠実。

Suchet 版は第12話「ベールをかけた女」(脚本 Clive Exton)。以下、このテレビドラマ版の特徴:

消えた廃坑 The Lost Mine

本短編集の中でも最短の一編。Poirot が Hastings に対して昔の事件を語るという形を取っている。 阿片窟での捜査が出てくるという意味では、シャーロック・ホームズの The Man with the Twisted Lip を思い出すが、話の内容は全く別物である。

真崎訳と小倉訳が一致しないところを2か所:

  1. 被害者のウー・リンが話をした乗客の一人の説明。
    [真崎訳] ひとりはダイアーという年寄りのヨーロッパ人で、
    [小倉訳] 一人は、ダイアーというごろつきヨーロッパ人でね。
    [原文] one a broken-down European named Dyer
    問題は broken-down の訳だが、ジーニアス英和大辞典電子版だと「健康を損ねた、衰弱した」なので、どちらかといえば 真崎訳の方が正しそうだが、年齢はわからないので「ヨタヨタした」くらいの訳の方が良いと思う。 ところで European には イギリス人ではないというニュアンスがあるようにも思えるが、一方で、 Dyer はイギリス人の苗字なので、なぜ European と言ったのかよくわからない。
  2. 東洋人(中国人)がウー・リンを殺したと説明するところ。
    [真崎訳] 東洋人にとってウー・リンを殺してテムズ川に投げ込むことなどなんでもないから、 ピアソンには相談もせずに自分流に片をつけてしまったのさ。
    [小倉訳] 東洋人にとっては、呉齢を殺して、死体を河に放りこむなんて、朝めし前だもんだから、 彼の中国人の共犯者たちは、彼に一言の相談もなく、中国流に片づけちゃったのさ。
    [原文] to the Oriental mind, it was infinitely simpler to kill Wu Ling and throw his body into the river, and Pearson's Chinese accomplices followed their own methods without consulting him.
    全体としては見てわかる通り、小倉訳の方が原文に忠実で、共犯者が複数であることが明確である。 問題は their own methods の訳だが、どちらの訳の方が良いかは私には判断できない。 読んでわかる通り、クリスティには東洋人が残酷だという偏見があるようで、その偏見が強いと見れば、 「中国人の流儀で」と訳すだろうし、その偏見が強くないと見れば「彼ら独自のやり方で」となるだろう。 こういう場合はどちらとも取れるように「やつらの流儀で」とでも訳すのが良いと思う。

Suchet 版は第13話「消えた廃坑」(脚本 Michael Baker, David Renwick)。原作の通りに Poirot がずっと昔話をしているのでは ドラマにならないので、事件の捜査とともにドラマが進行するようになっている。その他にも骨組み以外は話がかなり大きく変わっている。 一つには、原作が短すぎるので、話を膨らませる必要があったものと思われる。原作との主な違いは以下の通り。

チョコレートの箱 The Chocolate Box

Poirot が Hastings に昔の推理の失敗を語る。失敗という意味では、 シャーロック・ホームズの『 黄色い顔』を思い出す。話の内容は全く別物だが、最後に Poirot が Holmes と同じようなことを言う。 Holmes は Watson に

Watson, if it should ever strike you that I am getting a little over-confident in my powers, or giving less pains to a case than it deserves, kindly whisper 'Norbury' in my ear, and I shall be infinitely obliged to you.
と言ったのだが、Poirot は Hastings に
Or no -- remember it, and if you think at any time that I am growing conceited -- it is not likely, but it might arise. Eh bien, my friend, you shall say to me, "Chocolate box". Is it agreed?
と言う。Holmes の場合は、この台詞で小説が終わるのに対して、Poirot の場合は、この後に Poirot と Hastings の間のユーモラスなやり取りが少しある。これは Poirot らしいところである。 Holmes が変人である点はあんまりユーモラスとは受け取れないが、Poirot の方はユーモラスな部分がある。

真崎訳と小倉訳の違いも見ておこう:

Suchet 版は第39話「チョコレートの箱」(脚本 Douglas Watkinson)。 事件の大筋は原作通りだが、外枠の物語を変えてある。さらに、それに伴って、ポワロの失敗談にはしていない。 間違った推理に導かれそうになるのだが、最後には自分でその間違いに気付く。

原作では、外枠の話は、ポワロがヘイスティングスに昔の推理の失敗談を語るということなのだが、 このドラマ版にはヘイスティングスは出てこない。代わりに、ブリュッセルで ポワロがジャップ警視(最近、警部から警視になった)とベルギー警察時代の同僚だったシャンタリエと 食事をしているときに昔の事件の真相を語るという形になっている。 ジャップはベルギーから黄金の枝コンパニオンに選ばれ、その授与式に出席するために ブリュッセルに来ており、その授与式の場面も入っている。 が、ポワロ、ジャップ、シャンタリエの食事の場面からやがて授与式の場面になり、 その後最後にもう一度、ポワロ、ジャップ、シャンタリエの食事の場面に戻るのが謎である。 最初の食事の場面と最後の食事の場面は違う場所なのか同じ場所なのかがよくわからない。

この大きな外枠の物語の変更に合わせたのか、事件の進行も少し変えてある。 以下のような改変がある。