『源氏物語』は
この番組で以前に取り上げられていたので、紫式部の大河ドラマにちなんだものとしては
今度は『紫式部日記』か『御堂関白記』でもやるのかなあと思っていたら、ウェイリー版だった。
日記では「名著」とは言い難いということであろうか。
解説を聞くと、英訳とそれを日本語に逆翻訳したものの方が原文よりもよくわかるところが
いくつもあるし、新たな発見もあるということのようである。実際、私のような現代日本人に
とってはそちらの方がわかりやすい。
印象に残ったところとしては、『源氏物語』では醜いと描かれている末摘花が、
実は渤海の血を引く(ということはツングース系の)背の高い色白の美女だったのでは
ないかとも想像できるというのが面白かった。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 翻訳という魔法
『源氏物語』を題材にした能の演目は数多い。光源氏と女性たちの恋物語が題材になっている。
変わった作品として「源氏供養」がある。成仏できない紫式部の霊を僧が弔う話である。
1925 年に Arthur Waley が『源氏物語』を英訳した。最近、毬矢まりえと森山恵によるこれの
日本語訳(らせん訳)が出版されたので、今回はこれを読んでいく。
第1帖「桐壺」と Waley 版の特徴
物語の進行 | 解説 |
エンペラーはキリツボを愛していた。その二人の子がヒカル・ゲンジ。 |
- Waley の訳注によれば、第1帖は、宮中年代記 (chronicle) とおとぎ話 (fairy tale) が混在したスタイルで描かれている。
- 英語に翻訳されると (1) 複雑な敬語が無くなり (2) 主語が明確になり (3) 言葉が分かりやすく置き換えられる。
- 言葉の面白い置き換えの例には、修験者が exorcist、物の怪が alien というものがある。外の世界から
やってきた alien を追い出すのが exorcist。
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レディ・コキデンがキリツボに嫌がらせをする。その心労でキリツボは亡くなった。
ヒカル・ゲンジは、聡明で愛らしかった。占い師が不吉な予言をしたので、エンペラーはヒカル・ゲンジを
皇族から外した。
エンペラーは、フジツボを妃に迎える。フジツボは、キリツボに似ていた。
ヒカル・ゲンジはアオイと結婚するが、フジツボに思いを募らせる。 |
- Waley は、光源氏を Genji the Shining One と訳した。らせん訳では、シャイニング・プリンス。
- 当時「光り輝く」といえば「かぐや姫」。かぐや姫の光でおじいさんは元気になる。
弘徽殿女御も光源氏を嫌っていたが、彼が目の前に来ると、嫌い通すことが出来なくなった。
それが shining の力。光源氏は、神のような存在。
- キルケゴール『あれか、これか』の言い方では、ドン・ジョバンニが関係した女性は、
美の中で燃え立ち、輝かされ、浄化される。光源氏も同様。光源氏は、出会った女性の詩的な部分を引き出す。
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Arthur Waley (1889-1966)
- 天才的な語学力があり、ケンブリッジ大学では古典学を専攻した。
- 1913 年、大英博物館に就職。独学で中国語と日本語の古典語を習得した。
- 須磨の光源氏を描いた浮世絵を見て、『源氏物語』を読みたくなった。
- 1925 年、『源氏物語』(全6巻)の第1巻の出版をし、評判になった。
ヴァージニア・ウルフが大絶賛した。
『源氏物語』の全体構成
講師は『源氏物語』を5つのパートに分ける。
第一部 | 桐壺~明石 | 光源氏が神性を獲得するまで。 |
第二部 | 澪標~少女 | 光源氏が政治的な位を高めていく。 |
第三部 | 玉鬘~藤裏葉 | 光源氏の影が薄くなっていって、玉鬘や夕霧が物語の前面に出てくる。 |
第四部 | 若菜~雲隠 | 光源氏は女三宮を妻に迎えるが、柏木が女三宮と密通する。 |
第五部 | 匂宮~夢浮橋 | 薫と匂宮の物語。二人と浮舟が三角関係になるが、浮舟は出家する。 |
第2回 「シャイニング・プリンス」としてのゲンジ
今日は第一部を中心に見ていく。
第一部
物語の進行 | 解説 |
ゲンジは、ややこしい愛にばかりのめり込むのだった。 |
- 源氏が最も好きなのは、藤壺(父親の奥さん)。
- 「恋」は「乞う」もの、手に届かないものを望むもの。
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ゲンジが家臣の家にたまたま宿泊したとき、人妻のウツセミを強引に自分の部屋に連れ込む。
ゲンジはウツセミの心をかき乱したことに気付く。ゲンジはウツセミと関係を持ってしまう。
ウツセミは、苦しい思いを語る。
後日、ゲンジはウツセミに再び会おうとするが、ウツセミは逃げてしまう。 |
- 源氏と空蝉の恋で最も問題だったのは、空蝉が人妻であったということよりも、
源氏と空蝉の身分の違い。
- 源氏は、空蝉との恋を通じて「コンパッション」を手に入れた。
キリスト教の「パッション」は、イエスが十字架にかかること。したがって、「コンパッション」は
苦しみを共に感じること。古典ギリシャ語では「スプランクニゾマイ」。これは内臓が動くこと。
つまり、内臓がねじられるほどの深い憐み。
- このコンパッションは末摘花との恋で発揮される。
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ゲンジは町でユウガオを見出す。そのころゲンジはロクジョウの元に通っていたのだが、
ユウガオとの密会に漕ぎつける。
ゲンジは、ユウガオとの恋にのめり込む。しかし、物の怪が現れて、ユウガオは急死する。 |
- 夕顔は、ほとんど話さない。
- 源氏は、夕顔との恋を通じて「エンパシー(感情移入)」を手に入れた。
「エン」は「能動的に」、「パシー」は「苦しみ」なので、エンパシーは「苦しみを自ら思いやること」。
- 「コンパッション」と「エンパシー」を得たことで、光源氏は救済する人になった。光源氏が救済するのは、
紫上と末摘花。
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ゲンジは、オボロヅキヨとの密会がバレ、失脚して須磨に行く。
悪天候が続いていたとき、夢にエンペラー・キリツボが現れ、「この地を離れよ」と言った。
翌日、ゲンジは、明石に招かれ、アカシのニュウドウから歓迎される。その娘と恋をして子供をもうける。
エンペラー・スザクがゲンジを都に呼び戻す。 |
- 源氏は、須磨と明石での経験を通じて、「来し方行く末」を見る力を身に付ける。
つまり、過去と現在と未来を考えることができるようになる。
源氏は、須磨で初めて大挫折を味わい、成長した。
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第3回 『源氏物語』と「もののあはれ」
「あはれ」が使われている部分~「夕顔」より
原文 | Waley 訳 | 解説 |
板屋のかたはらに堂建てて行へる尼の住まひ、いとあはれなり。 |
It was a desolate spot, but the chapel itself was very beautiful. |
「あはれ」を desolate と beautiful に分解して訳してある。 |
しばしのほどに心を尽くしてあはれに思ほえしを、うち捨ててまどはし給ふ。 |
tell me why for so short a while you came to me and filled my heart with gladness
and then so soon forsook me, who loved you so well? |
らせん訳では filled my heart with gladness をさらに「わたしの心を奪い、酔わせ」としてある。 |
「あはれ」
Waley は「あはれ」をいろいろに訳し分けている。「あはれ」はもともと「あぁ」という深いため息。
だから、感動した時も「あぁ」、寂しい時も「あぁ」。だから、いろいろな場面で使われる。
美しさへの感嘆を表す語に「あはれ」と「をかし」がある。「あはれ」は「あぁ」という溜息。
「をかし」は、もともと「招ぐ(をぐ)」(=招く)という言葉で、美しいものに思わず招かれてしまうことを表す。
「あはれ」は観察者の側から語っている語だが、「をかし」は対象の側から語る語。
伊集院「今風の言葉で言えば、あはれ=エモい、をかし=ヤバい、かもしれない」。
本居宣長によれば、「あはれ」は情動であって、善悪や邪正など考えない。悪いと分かっていても
情動が動かされることがある。光源氏と空蟬、朧月夜、藤壺との関係は不義悪行である。
しかし、『源氏物語』においては、不義悪行にスポットを当てず、「もののあはれ」の深さにスポットを当てる。
すると、光源氏はよき人ということになる。
倫理的な問題というのは以下のようなことである。光源氏は、空蟬が嫌がっているのに関係を持ってしまった。
朧月夜は、朱雀帝の妃となる人である。藤壺は、父親の桐壺帝の妃で義母である。
そうした人々と密会するのは、今で言えば大問題になる。
平安時代ではこうしたことはあまり騒ぎにならなかった。中世になると仏教が盛んになるので、
仏教的には良くないことになる。明治時代になると、天皇が神になるので、『源氏物語』は「不敬の書」
ということになる。
折口信夫は、「もののあはれ」の「もの」を霊魂だと言っている。たとえば、桜に対して「もののあはれ」を
感じるということは、桜の霊魂と自分の霊魂とが感応すること。そこに倫理が入り込む余地はない。
六条御息所=レディ・ロクジョウ
六条御息所は、光源氏の年上の恋人。六条御息所の元旦那は、父親の桐壺帝の弟。
賀茂神社の祭りの時、六条の馬車が葵の従者に壊されてしまう。源氏は、葵の車に挨拶するが、六条には
気付かない。それからというもの、六条は苦悶した。そんな折、葵の体に異変が現れる。六条が葵を呪うことはなかった。
しかし、六条の苦悩が終わることはなかった。一方、悪霊は葵を苦しめ続ける。六条の生霊だという噂が立ったが、
六条には葵を憎しむ心は無かった。しかし、六条は、ある夜、夢を見る。六条は、夢の中で激情にかられ、葵を打ち据えていた。
紫式部は、人の心の闇を描いた。Waley 訳を読むと、六条の心の繊細さに気付かされる。
能の「葵上」では、葵上は小袖で表現される。六条御息所の怨霊が登場して、葵上を打ち据える。
僧侶が怨霊と闘い、怨霊を成仏させる。能では、葵上は死なない。Waley は能の翻訳もしており、
その中には「葵上」も入っている。
Waley は、『源氏物語』が人の内面を描いているところを高く評価したのではないか。
第4回 世界文学としての『源氏物語』
らせん訳(Waley 訳の逆翻訳)を作った毬矢 まりえ(俳人)と森山 恵(詩人)の姉妹をゲストに迎える。
Waley 訳を逆翻訳するときの工夫
カタカナの言葉に漢字のルビを振った。たとえば、ワードローブのレディ(更衣)、ベッドチェンバーのレディ(女御)など。
シェイクスピアとの関係
「賢木(さかき)」の帖で光源氏と頭中将が詠み交わす和歌:
(頭中将)それもがとけさひらけたる初花におとらぬ君がにほひをぞ見る
Not the first rose, that but this morning opened on the tree, with thy fair face would I compare
(光源氏)時ならでけさ咲く花は夏の雨にしをれにけらしにほふほどなくおとろへにたるものを
Their time they knew not, the rose-buds that today unclosed. For all their fragrance and their freshness
the summer rains have washed away.
これにはシェイクスピアの「ソネット18番」が重ねられている。
Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date:
『源氏物語』もシェイクスピアのソネットも若さのはかなさを嘆いている。
聖書との関係
「須磨」「明石」の嵐の場面で deluge という単語が用いられている。the Deluge とはノアの洪水のこと。
ものすごい洪水であることがわかると同時に、洪水が終わった後の好転への希望まで感じられる。
「紅葉賀」の青海波
「紅葉賀」で、光源氏と頭中将が青海波を舞う。40 人のフルートの音に松の音が重なる。
風が紅葉や黄葉を舞い散らす中で青海波のブルーが立ち現れる。
この色彩の華麗さは原文ではわからない。Waley 版とそのらせん訳ならでは。
末摘花
『源氏物語』では、末摘花の姿が奇怪だと書かれている。黒貂の毛皮をまとっている。
でも英語で読むと、西洋風の素敵な女性にも見えてくる。黒貂はセーブルであり、高級毛皮。
末摘花は渤海から来た人の血を引く女性かもしれない。
『今昔物語』に出てくる重明(しげあきら)親王の息子の容姿が末摘花にそっくりである。
重明(しげあきら)親王の奥さんは渤海の人かもしれない。
物語論
「蛍」の帖で、玉鬘と光源氏が物語論を交わす。光源氏は、作家が激しく感情を動かされ自分の胸には
しまっておけなくなった時に小説が生まれるのだと語る。だから、物語作家は、美談だけではなく悪徳や愚行も書く。
小説 (novel) は、ヨーロッパでは『ドン・キホーテ』に始まるもの。「物語」は、romance, story, tale などと
訳せば良さそうなところを Waley は敢えて novel と訳している。Waley は『源氏物語』に小説性、つまり
新しさを感じていたのだろう。
らせん訳
毬矢と森は、自分たちの逆翻訳を「らせん訳」と呼んでいる。これは、ヘーゲルの「物事はらせん的に
展開していく」という言葉から思い付いたもの。単に行って帰ってきただけではなく、いろいろな文化を
巻き込みながら新しくなっていく。