フッサールは、現象学という単語は知っていても著書も解説書もほとんど読んだことはない。
講師の西氏は、そういう難しげなものを可能な限り易しく解説していてありがたいと思う。
とはいえ、最後の回の「現象学で何ができるか」が「哲学対話のすすめ」になっているのは、
そのようなことなら別に現象学と言わなくても良いのではないかという気がしなくもない。
逆に言えば、現象学を現代に生かせる道はそれほど無いということなのかもしれない。
フッサールの考えは
エルンスト・マッハの強い影響下で作られたという意味では理解できる。しかし、その後
自然科学が 100 年余りかけて進んでみた後で見ると、マッハのような考え方はとても取れないし、
したがって現象学もあんまり維持できず、そこで学ぶべき点は
「本質を考えるための哲学対話のすすめ」になってしまったのではないだろうか。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 学問の「危機」とは何か
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』基本情報
- 現象学は、徹底して意識(心)の世界を掘り下げて考えていこうとする哲学。
- この本は、現象学についての集大成的な著作。副題は「現象学的哲学への入門」。
- 三部構成で、第三部は未完。
第一部ではヨーロッパの学問が危機に陥っているという話をし、第二部ではその危機がどこから来たのかを論じる。
第三部で現象学の話になるのだが、未完に終わってしまった。
- 善悪や美醜に関する共通理解は作れるのか。現象学では、人間に共通する思いはあると考える。
その共通理解を作る方法が「現象学」。
Edmund Husserl (1859-1938)
- 1859 年、オーストリア帝国の現在のチェコのユダヤ人家庭に生まれた。
- 数学を学ぶが、哲学に転向し、哲学を厳密な学問として確立しようとした。
- 1935 年、ウィーンとプラハで講演。それを基にして『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』が書かれた。
現象学の考え方
- 現象学では、宇宙も世界も一切が自分の「意識」に現れるものだと捉える。その「意識する体験」を
振り返ることで、あらゆる物事の意味と成り立ちを確かめることができると考える。
- 現象学では意識に集中する。たとえば、「リンゴがここにある」という認識は、特徴的な色や匂いや形が
与えられるから、生まれる。ありありとした感覚(ありあり感)が重要。
- 現実は、人間が意識の中で作っている。たとえば、リンゴが見えると言っても、本当に見えているのは
表側だけであるにもかかわらず、裏側も無意識のうちに作ってしまっている。
学問の危機
- 19 世紀後半、近代科学が発展し、人々の暮らしが変わった。一方で、武器が強力になったせいで、
第一次世界大戦は悲惨なことになった。
- ドイツは第一次世界大戦に負け、暮らしが行き詰まり、学問に対する反感も起こって、ナチスが台頭した。
- フッサールはユダヤ人だったので、大学から追い出される。弟子のハイデガーからも裏切られる。
- 第1部第2節「学問の危機は、学問が生に対する意義を喪失したところにある」
- 実証科学は発達したが、事実だけを語る学問は、我々が共有できる理念を一切語れない。
- 理性に基づく自由が大切。
- 現象学では、人間性に共通するものに基づいて、社会的に共有できる理念を再構築しようとした。
第2回 科学の手前にある豊かな世界
学問の成り立ちと世界の分裂
- この世界は、日常の世界(「生活世界」)と物理学が数式によって語る世界(「形態世界」)に分けられる。
形態世界が客観的な真の世界だと考えられている。しかし、よく考えると、それらのいずれが本物なのか。
- 生活世界の出来事には「習慣」があるから「予見」できる。その予見を厳密にするために数学が用いられる。
それが物理学だ。
- それで数学の起源に遡ってみると、幾何学の起源は、測量術である。測量術は、土地の大きさを客観的に測定する必要から生まれた。
幾何学は、それをいつでも誰でも共有できる知識にした。
- 理念としての完全な形(円や直線など)は、(1) 技術的な関心と (2) 人々の間での共有のために生まれた。
- ガリレイは、物の動きを数学化した。そこから物理学が生まれた。
- 物理学が成功し過ぎたので、実証主義的な学問観が幅を利かせることになった。
- 数学的自然科学では、意味や価値が失われてしまい、意味や価値は心の問題に押し込められてしまった。
世界は、自然と心的世界に分裂した(物と心の二元論)。物理の世界は客観的で、心は主観的だということになった。
- そうすると、価値の問題、認識の問題、自由意志の問題をどう考えたらよいのか、という難問が残る。
超越論主義
- 自然科学者は客観主義者である。
- とはいえ、物理学の理論は、(1) 生活世界の予見の必要性を起源としており、(2) 生活世界での知覚データを
用いているという意味で、生活世界を基盤にしている。
- 主観と客観を分断すると、主観の中にある認識と客観世界が一致するとは言えないという「認識の問題」が発生する。
- これに対して、ものごとを主観の側から考えていく哲学の流れがある。カントはそれを「超越論主義」と名付けた。
フッサールはそれを受け継いで、自らの哲学を「超越論的現象学」と呼んだ。
- 超越論主義においては、「あらかじめ与えられている生活世界の存在意味は主観的形成体なのであり、
学問に先だって経験しつつある生の所産なのである。その生のうちで、世界の(略)意味とその存在妥当とが
構築されるのだ。」つまり、世界は、主観の中で意味内容が作られると同時に、客観的に存在すると信じられるものなのである。
第3回 現象学的還元によって見えるもの
主客一致の難問
- 主客一致の難問:主観が客観にどうやって一致し、果たして正しい認識が得られるのか?
言い換えると、私たちの認識がなぜ現実と一致すると言えるのか?
- 哲学的には客観主義と相対主義がある。普通の人は客観主義を信じていると思うが、
価値の問題が入ってくると、客観主義は困ったことになる。「正しい」ことが往々にして独断になってしまうからである。
しかし、相対主義では共有できるルールが無くなる。現象学では、それらのどちらでもない第三の道を提案している。
現象学的還元と世界信念
- 主観において、意識体験や価値や認識が生じる。「それ自体において最初のものは主観性である。」
世界が最初にあるのではない。
- 意識には対象に向かっていく性質がある。これを「志向性」という。思い描く働きを「ノエシス」、
思い描かれた対象を「ノエマ」という。
- 「現象」とは対象が意識に現れてくること(意識体験)である。
- 「あらゆる対象を意識における信念・確信とみなす」という思考方法を「現象学的還元」という。
- 現象学的還元を行うためには、全ての常識をいったん脇に置いておく必要がある。これをエポケー(判断停止)
という。
- 「超越論的問題」とは、意識を超越した世界や対象が意識の中でどのように信じられているのか、という問いである。
- 意識から独立した客観的世界が確かにあるという信念を「世界信念」という。
- 世界信念が成立する条件は (1) 対象がありありと知覚され、目の前に与えられていること
(2) 自分の中で体験のつじつまが合うこと(体験の調和) (3) 他者との体験の調和、である。
- 他者との体験の調和を「超越論的間主観性」と呼ぶ。
知覚
- 世界について他者と共有できる認識を「客観的認識」という。そのときにカギになるのが「知覚」である。
- 「知覚は直感の根本様相であり、知覚は根源的本原性、すなわち「実物が目の前にある」という様相において
ものを呈示する。」
- 実証科学は、他者の知覚をお互いに(間主観的に)受け入れることで成り立っている。
- 感情や価値も同様にして学問的に深めることができるはずだ。
現象学の御利益
- 現象学は多様な他者たちと共生していく知恵や作法につながる。
- たとえば、神様を他者と共有することはできないが、神様を信じる心は共有できる。
第4回 現象学で何ができるか
本質観取
- 現象学では、主観の意識体験に立ち戻って、自らの体験を掘り下げる。
体験を反省することで本質を取り出すことを「本質観取」と呼ぶ。
- たとえば、椅子について、形を変えてみたり色を変えてみたりすることで、
それでも変わらない共通の本質を考える。それを言語化する。
- 「本質観取」では、さまざまな具体例を想像してみて、それらに共通するものを考える。
そして、それを言葉にして記述する。
西流の本質観取のやり方
フッサールの方法を哲学対話用にアレンジしてみた。フッサールだと一人で行っていたことを、
対話で行うことにする。
- 問題意識を共有する(知りたいこと、考えたいことを出し合う)。
- テーマについての多様な体験例を出し合う。
- 体験例の共通項を抜き出す。
- 〇〇とは何かを定義する。
幸福とは何かを話し合ってみる
- 話し合った結果分かった幸福に共通したこと:満たされている、不安が無い、ありがたい(感謝)
- そこで、「幸福とは」不安なく満たされていて、その境遇に感謝してありがたいと思えること
「本質観取」の試みは、人間とは何かを考えることにつながっていく。さらに、
良い生き方をするためのヒント、困っている人を支援するヒントにつながる。
『危機』書の出版に至るまでのできごと
- 1938 年 3 月、ナチスドイツがオーストリアを併合。その中で、フッサールは『危機』書第三部を書き続ける。
- 1938 年 4 月、フッサールは 79 歳で死去。『危機』書は未完となった。
- 1938 年 8 月、ベルギーの学生ヴァン・ブレダがフライブルクのフッサール家を訪ねる。彼は、
フッサールの遺稿をスイス国境の修道女宿舎へ運び込む。さらに、数か月かけて、ベルギーのルーヴァン大学に運んだ。
- 遺稿を基にフッサールの全集が発行された。
人類の真のあり方は、目標を目指す存在としてのみ可能なものであり、そしてもし、およそその実現が
可能であるならば、それは哲学を通じてのみ(略)実現される。 [第1部第7節より]