村上春樹で読んだことがあるのは、『回転木馬のデッドヒート』くらいで、そのときの印象としては、ふわっとした
アメリカ文学風の小説みたいな感じだった。しかし、ここで取り上げられている
『ねじまき鳥クロニクル』は、量的にも質的にももっと分厚いもののようだということが分かった。
悪との対決というテーマが、ノモンハン事件とシベリア抑留などの話と重ね合わされながら、寓話的に
描かれているということだった。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 日常のすぐ隣にある闇
『ねじまき鳥クロニクル』基本情報
- 8作目の長編小説で、1991 年から 1995 年のアメリカ滞在中に執筆された。
- 3部構成で、第1部泥棒かささぎ編と第2部予言する鳥編は 1994 年 4 月刊行。
第3部鳥刺し男編は 1995 年 8 月刊行。
- 各部のタイトルは、鳥の入ったクラシック音楽の曲に因む。
- 主人公は岡田亨(トオル)、最近まで弁護士事務所の事務員だったが、今は無職。
妻のクミコは編集者。飼い猫がワタヤ・ノボルという名前で、クミコの兄の綿谷昇の名前を付けたもの。
- 小説の冒頭で猫のワタヤ・ノボルがいなくなり、それを探すところから物語が展開する。
物語の進行と解説
物語の進行 | 解説 |
- トオルがスパゲティを茹でていたところ、謎の女から電話がかかってきた。
- クミコからいなくなった猫を探してほしいという電話がかかってきた。
- トオルとクミコの間には小さな不和が生じてきていた。
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- 村上は、デビューしたころからポップな感覚が際立っていた。
カート・ヴォネガットとかリチャード・ブローティガンらのアメリカ現代小説の影響も受けていた。
軽快で理知的だが、ユーモアやアイロニーも含んでいた。
- 「やれやれ」は村上文学によく出てくる言葉。
デタッチメント(超然とした態度、無関心)的な姿勢の反映とも見られる。
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- トオルは、猫を探しに路地の奥の空き家に向かった。すると、16 歳の少女の笠原メイが声を掛けてきた。
二人は交流を深めていった。
- トオルとクミコは、時折ねじまき鳥の声を聞いていた。毎朝、世界のねじをギイイイイイと巻くのだった。
- 空き家の横手には涸れた井戸があった。
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- 笠原メイは、死のイメージに取り憑かれている。彼女はトオルを井戸に導く。
井戸は闇に繋がる。
- デビュー作の『風の歌を聴け』に「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」という言葉が出てくる。
闇は、村上の最初からのテーマである。
- ねじまき鳥は、世界のねじを巻く。鳥の鳴き声が予言的な意味を持つという神話は、世界各地にある。
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この後も不思議な登場人物が出てくる。クミコは、猫探しのためにトオルを加納マルタに会わせる。
マルタは、水の音を聞ける。その妹が加納クレタ。マルタは、クレタが綿谷昇に汚されたと言う。
本田さんは、トオルとクミコが親しくしていた占い師。本田さんは、ノモンハン事件を経験している。
物語の進行 | 解説 |
- 本田さんが亡くなって、間宮中尉が形見を届けに来る。
- 間宮中尉と本田さんはノモンハン事件の1年前に出会い、山本という男に従って秘密の任務に携わった。
間宮中尉と山本は敵に捕らえられた。山本は、皮を剥がれて殺された。間宮中尉は涸れ井戸に放り込まれた。
間宮中尉は本田さんに救出される。
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- 戦中のモンゴルの涸れ井戸は、現代の東京の涸れ井戸と時空を超えて繋がる。
- 村上は、プリンストン大学でノモンハン事件などの歴史的資料をいろいろ読んだ。
その中で、過去の事件と現代とのつながりを強く感じるようになっていった。
- 間宮中尉は、井戸の中で神秘的な体験をしたと描かれている。これがやがて
岡田亨の井戸の中での体験に繋がってゆく。
- 村上の初期の作品は、日常的な風俗の描写が主だったが、『羊をめぐる冒険』(1982) あたりから
ファンタジー的な要素が入ってくる。『ねじまき鳥クロニクル』で初めて歴史の闇を探る方向が出てきた。
『ねじまき鳥クロニクル』では、一つの作品の中で、日常、ホラー・オカルト・ファンタジー、歴史の闇が
積み重ねられている。
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第2回 大切な存在の喪失
物語の進行と解説
物語の進行 | 解説 |
- 妻のクミコが失踪。
- 加納マルタから電話がかかってきた。クミコの兄の綿谷ノボルが会いたいと言っているという。
- 翌日、トオルは綿谷ノボルと会う。ノボルは、クミコには他に男ができたので、離婚に同意しろと言う。
ノボルはトオルを馬鹿にする。トオルは言い返す。
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- 綿谷ノボルは、高学歴の経済学者。弱い人に共感する能力が全く無い。
- トオルは引き下がらない。
- マルタの妹の加納クレタは娼婦をしていたことがある。ノボルは彼女の客だったことがあり、
クレタはノボルの得体のしれない恐ろしさを知っている。
- ノボルは恐ろしい人で、クミコの姉の死にも関わっていたらしい。
- ノボルで表象されているのは、権力の加害性、ポピュリズム的言動。因みに最近村上が訳した
ティム・オブライエン『虚言の国』もポピュリズムを風刺した現代アメリカ小説。
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- トオルは、空き家の涸れ井戸に下りた。トオルはクミコとの出会いを思い出す。水族館でのデートだった。
- クミコは、浮気をしていたのかもしれなかった。クミコは妊娠し、自分で勝手に中絶した。
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- トオルは、クミコの闇にようやく気付く。井戸の下は、自分自身や他人の心の闇を見つける場所であると同時に、
綿谷ノボルのような恐ろしいものに触れる場所でもある。
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- トオルは井戸の底で眠って夢を見る。それはどこかのホテルで、ロビーのテレビでは綿谷ノボルが演説をしている。
トオルは 208 号室のドアを開ける。謎の女の声がした。彼女に導かれて、ノボルは壁を通り抜けた。
- 目を開けたとき、トオルは、井戸の底にいた。
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- 「壁抜け」がトオルにとってブレークスルーになった。そこには性的なイメージが付与されている。
村上の性描写では、女性に巫女のような役割が与えられていることがある。ここでは、トオルに
異界と行き来する能力が与えられる。
- 井戸での体験の後、トオルの右頬に痣ができる。これは聖痕(スティグマ)であると考えられる。
日常的なことに魔術的な出来事を同居させるマジックリアリズム(ラテンアメリカ文学の潮流)を思わせる。
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- クミコから手紙が届く。ある男性と関係を持っていたことが語られていた。
- トオルは加納クレタからクレタ島で一緒に暮らすことを提案されるが、断る。
- やがて、路地の空き家は更地になり、井戸も埋められる。
- 秋になり、トオルは、区民プールで泳いでいる時、巨大な井戸の中にいると感じた。
謎の女はクミコだったと直感的に確信した。
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- クミコはどこかに囚われているという啓示を受けた。ここは、宗教学者のミルチャ・エリアーデの
ヒエロファニーをいう概念を連想させる。ヒエロファニーとは、聖なるものがふっと顕現すること。
- 村上春樹は、最初小説をここで終わらせるつもりだった。謎を残したまま終わらせるつもりだった。
ところが、途中で気が変わって第3部を書くことになった。
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第3回 根源的な「悪」と対峙する
物語の進行と解説
物語の進行 | 解説 |
- クミコが失踪して半年以上が経つ。クミコの兄の綿谷ノボルは衆議院議員になっている。
- 赤坂ナツメグがトオルに手を差し伸べ、秘密の仕事をさせる。
- 猫のワタヤ・ノボルが帰ってくる。サワラという名前に改名する。
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- 赤坂ナツメグとその息子の赤坂シナモンが登場する。
- ナツメグには特別のヒーリング能力があり、政財界の大物の奥さんたちを顧客にしている。
トオルの顔の痣にもヒーリング能力があることがわかり、ナツメグが客を取らせる。
- シナモンは、小さい頃、真夜中に不思議なものを見て以来、口をきかなくなる。
そのとき、ねじまき鳥が鳴いていた。
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- ナツメグは、例の空き家があった土地を購入した。新たに屋敷を建て、井戸を掘り直し、トオルに貸与した。
トオルはその屋敷でヒーリングの仕事をした。
- トオルは、涸れ井戸に降りて、例のホテルに行こうとする。しかし、ホテルの部屋の映像は浮かぶのだが、
ノックの音とともに通路は閉じてしまう。
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- バットが登場する。トオルは。札幌のバーで見かけた男を新宿で見かけ、追跡したら襲われるが、
バットを奪って逆襲する。1980 年代に日本では金属バット殺人事件が何度か起こっている。それを反映しているかもしれない。
- 第3部では様々な要素が登場する:笠原メイの手紙、首吊り屋敷の謎、真夜中の出来事、赤坂ナツメグの父親の話、
シナモンが書いた「ねじまき鳥クロニクル」。
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- ナツメグの父親は戦争末期に満州の動物園で獣医をしていた。岡田トオルと同じ場所に痣がある。
- 赤坂ナツメグは、満州から帰って来る時、満州に残った自分の父親の姿を幻視した。
父親は、動物園の猛獣たちを殺すように命じられた。
- この話の続きが、シナモンが書いた「ねじまき鳥クロニクル」にあった。日本人の兵隊が
中国人をバットで殴り殺す場面が描かれていた。ねじまき鳥が鳴いていた。
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- 痣とバットとねじまき鳥というモチーフが呼び掛け合うように小説が織りなされている。
- ねじまき鳥は、世界を正しているのか、恐ろしいことの連鎖を助長しているのか、両方に読める。
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- 岡田トオルがある晩家に戻ると、見知らぬ醜い男が待っていた。綿谷ノボルの使いの牛河だった。
- 牛河の計らいで、トオルはクミコとパソコン通信で連絡できるようになる。
クミコは放っておいてくれと書いているが、トオルはクミコが助けを求めていると感じる。
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- クミコは何かを抱えている。
- トオルはパソコン通信で綿谷ノボルとも会話できるようになる。そこで夢の話が出てくる。
小説の中では、現実と夢がつながっている。
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第4回 「閉じない小説」の謎
テーマは「闘争」と「救済」。
物語の進行と解説
物語の進行 | 解説 |
- 間宮中尉からトオルに長い手紙が届く。
- 1947 年、シベリアの街で間宮は山本を殺したロシア人将校「皮剥ぎボリス」を見かける。
ボリスは間宮を利用して収容所の実権を握っていった。間宮はボリスを殺す機会をうかがっていたが、失敗する。
間宮はボリスに「君はどこにいても幸福にはなれない」と呪いをかけられ、帰国させられる。
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- ボリスのモデルは、スターリンの恐怖政治を支えた政治家のラヴレンチ―・ベリヤであったと推測できる。
- 間宮中尉はボリスという悪と戦おうとして失敗した。一方、岡田トオルは綿谷ノボルという悪と
戦おうとしている。小説では、この2つのことが時空を超えて並行して起こる。
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- トオルは、井戸の底で瞑想し、再びホテルに抜けることに成功した。
ロビーのテレビでは、綿谷ノボルが右頬に痣がある男にバットで殴られ重傷というニュースが流れていた。
- トオルは、208 号室に向かう。トオルはそこにいた女にノボルの悪について語る。
トオルは女をクミコだと信じ、元の世界に連れて帰ると言う。
女はトオルに野球のバットをプレゼントする。
- トオルは侵入して襲ってきた男をバットで殴り殺した。
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- ノボルの悪は、人々の中に眠っている悪を引き出してきてそれを操るという種類のもの。
- 侵入してきた男が誰なのか、はっきりとは分からないように書かれている。悪の本質は形を見定めることが
できないということを示唆しているのではないか。
- 小説が書かれたのは、高度資本主義が成立した時代。弱い個人が強いシステムの暴力性の中で苦しむ危険を
村上は描こうとしたのではないか。この小説からは、小さな声を拾うことが大事なのだというメッセージが感じられる。
- トオルとノボルは鏡の裏表かもしれない。ノボルという悪は、トオルの中に潜んでいる悪を塊にして引き出してきたものかもしれない。
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- 気が付くと、岡田トオルは井戸の底にいたが、そこは涸れ井戸ではなく、水が溜まっており、水位が徐々に上がってきた。
トオルはシナモンとナツメグに助けられる。トオルの顔からは痣が消えた。
- 綿谷ノボルは、長崎で脳溢血に倒れ、病院で重体になっていた。
- パソコンの上で、クミコからトオルに手紙が届く。これから病院に行って兄を殺すという。
- トオルは笠原メイにすべてを報告する。
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- 詩人イェーツの言葉に「夢の中で責任が始まる」というものがある。村上春樹はこの言葉を『海辺のカフカ』で引用している。
岡田トオルはこれを実践しているように思える。
- それまでの村上春樹には喪失の物語が多かった。それがこの小説では、失ったものを戦って取り戻す物語になっている。
村上春樹の作風が、ここでデタッチメントからコミットメントに変わったとよく言われる。
- 物語は、完全には閉じていない。それが深みを出している。
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