高市政権が男尊女卑丸出しの奇天烈な皇室典範改正を行ってしまったが、そもそも天皇家が基本的に
男系継承となったのが何故かを勉強しておくために読んでみた。持統~孝謙天皇に至る皇位継承の
経緯と、その裏で暗躍する藤原氏の計略が書かれており、興味深かった。
筆者は建築家なので、建築の視点が加わっているのが特色であり、そのおかげで
歴史の見方が厚みのあるものになっている。以前に読んだ
歴史家による本
よりも説得力があると感じた。
サマリーは下に書いたが、もっと大雑把にまとめると、以下の通りである。(1) 持統天皇は、
「双系」の世襲による自分の子孫の皇位継承を確立しようとした(持統王朝)。ところが、
(2) 藤原不比等が、「男系」の皇位継承を確立して、藤原氏の娘を次々に入内させることで
権力を高めることを画策した。不比等の死後、(3) 藤原氏は、長屋王の変で長屋王一族を
一掃することで、権力を掌握した。以後、天皇は男系継承になった。
先日、NHK「歴史探偵」で「藤原京と持統天皇」が放送された。それによれば、藤原京が日本初の本格的碁盤目状計画都市で
あったことが近年明らかになっており、それを造ったのが、天武天皇と持統天皇であった。そして、持統天皇には数多くの業績があった:
(1) 全国の道路の整備 (2) 30 年ぶりの遣唐使派遣 (3) 国号「日本」を中国に認めさせる (4) 飛鳥浄御原令を施行した
(5) 「古事記」「日本書紀」の編纂 (6) 伊勢神宮の式年遷宮を始める (7) 大宝律令の完成。このように
本書とも共通する事績も紹介されていた。しかし、番組では、持統天皇を持ち上げたいあまり、
大津皇子を謀殺をしたのを政権の安定を図るための苦渋の決断だったと言ってみたり、持統天皇以降
壬申の乱のような骨肉の争いが無くなったと言ったり、ほとんど嘘としか言えないようなことを言っていた。
実際は、大津皇子を処刑するくらい冷徹な権力者だったからこそ数多くの大きなことをやってのけたのだろうし、
その後も骨肉の皇位継承争いが収まらなかったのだろう。
皇室典範改正に当たって、自民党の小林鷹之政調会長が、国会で
「皇位の男系継承は、二千六百年年以上にわたって先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統」
という発言を行った。小林は、東大卒でハーヴァード大学に留学した秀才であるにもかかわらず、こうした
歴史学をまるで蔑ろにした発言をするとは、おそらく嘘を百も承知で言っているのだろうから、
人品が下劣だということだ。こういう人たちに皇室典範をいじってほしくはない。
サマリー
プロローグ―アマテラスと「男系」の溝
基本的な問題設定は以下の通り:皇祖神が女性で、皇室は双系から始まったと思われるのに、その後、なぜ男系ばかりになったのか。
本書では<持統王朝>の誕生から途絶に至る過程を追うことで、その謎に迫る。
第1章 女性を始祖とする王朝への五つの視点
- 列島社会は双系だった。日本列島の社会は、古来、男系と女系が混ざる双系社会だった。
- 歴代遷宮が停止して「国家」が出来た。日本では、3世紀末から7世紀末まで、王の代替わりごとに王宮が移転していた(歴代遷宮)。
持統天皇によって恒久の都、藤原京が造られて、歴代遷宮の時代が終わった。
- 現実を導くあたらしい神話。持統天皇は、アマテラスと天孫降臨神話を創作することで、自分の即位と
孫の珂瑠(かる)王(文武天皇)への譲位を権威付けた。アマテラス=持統天皇、オシホミミ=草壁皇子、
ニニギ=珂瑠王(文武天皇)という対応関係がある。この意味で、文武天皇は女系天皇である。
- 女性天皇は全て「中継ぎ」だったか?推古天皇から称徳天皇までの15代のうち8代は女性天皇である。これが中継ぎであるはずがない。
特に持統天皇は、孫に譲位して上皇になることで世襲システムを作り上げた。
- 持統朝を総覧する。持統天皇は以下のようにして天皇制を確立した。(1) 息子の草壁皇子を天武天皇の後継者にした
(2) 草壁のライバルの大津皇子を謀殺した (3) アマテラスを創作した (4) 飛鳥浄御原令を施行して皇太子を制度化した
(5) 初めて現人神として即位した (6) 自らをアマテラスになぞらえた (7) 大嘗祭を創始した (8) 恒久の都としての藤原京を造った
(9) 孫に譲位して天孫降臨神話を具現化した (10) 30年ぶりに遣唐使を派遣した (11) 大宝律令を制定した
第2章 神話と結びつく<持統王朝>
1. 積極的に政治を行う皇后
- 679 年、天武天皇と皇后鸕野(うの)(のちの持統天皇)は、吉野に6人の皇子を集めて、天武と鸕野の息子の草壁皇子が
天武の後継者であることを誓わせる。
- 686 年、天武天皇が没すると、鸕野は、草壁皇子のライバルとなる大津皇子を謀殺する。ところが、689 年、草壁皇子が病没する。
鸕野は柿本人麻呂に挽歌を歌わせ、その中に「天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと)」(アマテラスの前身)を入れさせる。
- 蘇我氏が実権を握っていた時代、大王は兄弟間で継承されていた。鸕野は直系継承を目論み、自ら即位した後、孫の珂瑠王(文武天皇)
に譲位した。それを正当化するために、鸕野は以下のことを行った。(1) 飛鳥浄御原令を施行して皇太子を制度化した。
(2) 天孫降臨神話を創作して孫に位を譲ることを正当化した。
2. <天皇=神>の構図を立ち上げる
- 690 年、鸕野は史上初めて「神として」天皇に即位した。持統天皇はアマテラスに重ねられ、神器が捧げられ、
拍手(かしわで)で迎えられた。
- 持統天皇は、690 年に伊勢神宮の内宮の式年遷宮を最初に挙行した。692 年には外宮で式年遷宮が行われた。
- 伊勢神宮の正殿は、初期には板校倉造りだったが、やがて神明造りになった。この転換がいつ行われたかの確たる証拠はないが、
著者は第1回式年遷宮の時だったと考える。板校倉造りは、基本的には稲倉の造りなので、皇祖神アマテラスの神殿には相応しくないと
考えられて、回り縁のある神明造りに変えられた。
- 691 年、持統天皇は、史上初めて即位儀礼としての大嘗祭を行った。大嘗祭の元となったのは、収穫祭としての新嘗祭だった。
新嘗祭は元来女性の祭りであったので、大嘗祭を始めたのが女性天皇であるのはもっともなことである。
- 大嘗祭には、天孫降臨神話も持ち込まれている。大嘗祭が行われる大嘗宮は天孫ニニギの産屋を象徴している。
そして、大嘗宮の主たる建物である悠紀殿と主基殿は生まれたばかりの天孫ニニギが地上に降臨する場である。
- 697 年、持統天皇は文武天皇に譲位する。その際、神から委任を受けた持統が文武に皇位を授けたという形を取った。
3. 持統がアマテラスになった証
- 持統天皇は何度も吉野に行幸する。これは霊力を身に付けて、神になりきるためだったのだろう。
- 692 年、持統天皇は三輪氏の反対を押し切って伊勢に行幸する。これは皇統をリセットして「持統王朝」を確立するためだろう。
- 持統天皇の在位中は伊勢に斎王がいなかった。斎王はアマテラスに仕えるものなので、アマテラスと一体であるはずの持統が
飛鳥にいるときは、斎王が伊勢にいるのがおかしいということになるからだと考えられる。
第3章 天皇制の礎―恒久の都と更新の思想をつくる
権力は「永続」と「更新」を求める。持統王朝は、「永続」を藤原京に、「更新」を伊勢神宮の式年遷宮に託した。
1. <持統王朝>の都・藤原京
- 676 年、天武天皇が藤原京の建設を始める。ただし、藤原京という言葉ができたのは明治時代で、『日本書紀』では「新城(にいき)」と呼ばれる。
当初は、王宮をここに移すつもりが無かったのかもしれない。王宮の位置を決めたのは、684 年である。686 年に天武天皇が没する。
- 690 年、持統天皇が即位。691 年に改めて「新益京(あらましのみやこ)」の地鎮祭が行われる。
- 藤原京は 5.3 km 四方の碁盤目状都市で、その中心に藤原宮がある。大和三山もその中に取り込まれている。
南東部が丘陵地帯になっているので、無理のある配置である。天武天皇が「新城」を作って王宮の場所を決めたときは、
こんなに大きくするつもりではなかったのを、持統天皇が計画を拡大して「新益京」にしたのだと推測する。
- 持統天皇は、中国の『周礼』の都市モデルをお手本にした。天はドーム状で地は正方形という宇宙観に基づいており、
王城も正方形で、その中心に王宮があるべきだという考えに基づく。
- 大極殿や朝堂には、中国の建築様式である瓦屋根で礎石建ちが採用された。王宮を中国様式にしたのは、史上初めてである。
- 藤原宮は北側の天皇のゾーンと南側の臣下のゾーンに分けられている。間に大極殿南門(重閣門)がある。
- 天皇の住まいである内裏には、茅葺もしくは檜皮葺で掘立柱という従来工法が用いられた。
しかも、代替わりごとに建て替えられた。歴代遷宮の名残ともいえる。
2. <持統王朝>の伊勢神宮式年遷宮
- 690 年、藤原京の工事が再開し、歴代遷宮が終わりを告げるのと同時に、伊勢神宮の式年遷宮が始まる。
- 式年遷宮には、神威を更新・蘇生させる意味がある。持統天皇は、それによって間接的に天皇の権威を高めた。
3. 天皇陵から血統が見えてくる
- 持統天皇が関わった陵墓を見てゆく。それらは八角形の古墳である。
- 八角墳は、舒明天皇陵(段ノ塚古墳)から始まった。それを造ったのは皇極(=斉明)天皇で、中国思想に由来している。
持統天皇はこれを受け継ぎ、八角墳は文武天皇陵(中尾山古墳)まで続く。
- 688 年、持統の夫の天武天皇の遺体が野口王墓古墳に移される。
- 持統の息子の草壁皇子は、束明神(つかみょうじん)古墳に葬られた。調査により、かつては天武天皇量に匹敵する大きさの八角墳であったことが分かっている。
- 699 年、持統上皇は祖母の斉明天皇と父の天智天皇の営造に着手する。斉明陵は牽牛子(けんごし)塚古墳で、
天智陵は御廟野(ごびょうの)古墳である。
- 天智陵は藤原宮の真北、天武陵は藤原宮の真南にある。中国の方位観では、都城の南は墓域とされた。北は、宇宙の根源とされた。
- 持統天皇は、初めて火葬された天皇である。以後、文武、元明、元正までが火葬され、これら4代が持統王朝であると言える。
4. <持統王朝>の天皇陵から血統が見えてくる
- 持統王朝には、中国文明を取り入れた部分と日本風の部分がある。日本風なのは、式年遷宮や、上皇と女帝を認める天皇制である。
幕間 世襲王権はいつから、そしてどのように?
- 戦後の歴史学では、第10代の崇神天皇を実質初代の日本の王とみなす。『日本書紀』に「御肇国(はつくにしらす)天皇」と書かれているからである。
それは、3世紀後半の古墳時代が始まるころである。卑弥呼が亡くなったのが 240 年代なので、それに入れ替わる形で現れたのではないか。
- 現在の皇統に血統がつながるのは、6世紀の継体からであろう。それ以前は、王族と豪族の区別がはっきりしていなかったと考えられる。
- 『日本書紀』が初の女性大王であるとしているのが、推古天皇である。36 年に渡って政権を維持した。
- 次の女帝の皇極・斉明天皇は、史上初めて譲位と重祚を行った。板葺きの王宮を造ったり、八角墳を創始したり、飛鳥を水と石の都にしたりした。
- 著者は、天武天皇を天智天皇の弟ではなく、異父兄であると見ている。父親は用明天皇の孫の高向王であると考える。
すなわち、天武天皇はどちらかといえば女系の天皇だった(女系ならば皇極の子、男系ならば用明の曾孫)。
第4章 平城京遷都は「男系」継承への道
藤原不比等は、<持統王朝>に多大な貢献をしながらも、持統の没後、平城京を藤原氏の都とし、天皇を囲い込む。
1. 藤原不比等の企て
- 697 年、藤原不比等は、娘の宮子を文武天皇に入内させる。
- 701 年、宮子が首(おびと)親王(のちの聖武天皇)を産む。同じ年、不比等の後妻の県犬養三千代が光明子を産む。
- 不比等は、首親王を即位させ、光明子をその皇后にする野望を抱く。これは、当時の2つの掟に反していた。
首の即位は、天皇の母は皇族でなくてはならないという不文律に反していた。光明子を皇后にすることは、
皇后は皇族の出でなければならないとする大宝律令に反していた。
2. 「男系」継承にむかって転換を図る
- 藤原不比等は、皇統を「草壁-文武-聖武」とつなげることで男系化することを図る。彼らに
藤原氏の女性を入内させることを目論んだ。そうして、持統ら女性天皇を中継ぎ扱いにする。
- 702 年、持統天皇没。707 年、文武天皇没。
- 707 年、文武の母の阿閇が即位(元明天皇)。元明が即位したときは、天孫降臨神話が用いられず、
天智天皇が定めたという「不改常典(ふかいのじょうてん)」が利用された。これは父子直系継承を
定めている。これによって、元明は中継ぎで、「天智-…-文武-聖武」という繋がりが強調されることになった。
これは藤原不比等が図ったことである。
3. 藤原氏の、藤原氏による、藤原氏のための平城京
- 元明天皇は遷都にそれほど積極的ではなかったが、藤原不比等の説得により、708 年、遷都の詔を発し、
710 年に平城京に遷都する。
- 遷都を説得する決め手になったのは、娘の夫であり、妹の息子でもある長屋王を厚遇したことにあると
著者は考える。長屋王の邸宅は、平城宮の南東の一等地にあり、破格の規模であったことが分かっている。
長屋王は血統の良い教養人だったので、即位の可能性もあった。
- 平城京は、外京が東にはみ出したいびつな形をしている。外京は、水はけも眺望も良く、藤原氏の氏寺の
興福寺が作られた。
- 平城京は藤原京とは異なり、王宮が北の端にある。これは長安に倣ったものである。
- 平城宮の東側に東宮が張り出しており、そのすぐ東側に広大な藤原不比等邸がある。これは
母親が不比等の後妻である首親王(のちの聖武天皇)を東宮に入れるぞというアピールであろう。
- 平城宮は、3本の尾根筋の上にある。尾根は削って平らにしてあるが、尾根筋は水はけが良い。
最も水はけのよい東の尾根筋には、東宮と不比等邸が配置される。既存の下ツ道と呼ばれる街道は
朱雀大路に真っ直ぐ繋がり、その真正面に大極殿が配置される。中央の尾根筋は、大極殿と東宮の
間にあり、そこに内裏が配置される。
第5章 「男系」継承の樹立と<持統王朝>の終わり
藤原氏が長屋王家を滅ぼし、<持統王朝>を断絶させるまで。
1. 女系/女性天皇の時代
- 藤原不比等は、文武に入内していた蘇我系の石川刀子娘(とねのいらつめ)から嬪の地位を奪い、その息子が立太子できないようにした。
- 714 年、首(おびと)親王が立太子し、716 年、光明子が入内する。
- 715 年、元明天皇が孫の吉備内親王と長屋王の子女を皇孫としてから、娘の氷高内親王に譲位した(元正天皇)。
元明天皇は、将来の天皇候補として、吉備・長屋王の長男の膳夫(かしわで)王を考えていたのだろう。
膳夫王は両親が皇族で、母親が藤原氏である首親王より血統が良かったので、藤原氏は警戒しただろう。
- 720 年、『日本書紀』が元正天皇に献上された。藤原不比等は、そこに天皇の男系継承の色合いを入れた。
2. 藤原氏に包囲される天皇の座
- 720 年、藤原不比等没。721 年、元明上皇没。
- 724 年、元正天皇が首皇太子に譲位する(聖武天皇)。このとき、長屋王は左大臣になり、
朝廷のナンバーワンの地位に就いた。
- 聖武即位の宣命で、元正と聖武は擬似的に母と子という形を取っている。聖武の母が皇族ではない
という事実を糊塗するためのものであろう。
3. 聖武・藤原氏と長屋王の確執
- 727 年、光明子が男児を産む(基王)。聖武は、生後1か月の乳児を皇太子とするという
前代未聞のことを行う。長屋王は祝賀に行かないことによってこれに抗議した。
- ところが、728 年、基皇太子が死ぬ。
- 729 年、長屋王が謀反を図っているとして、藤原宇合が率いる軍隊が邸を包囲する(長屋王の変)。
長屋王、吉備内親王とその子3人、側室石川夫人の子の桑田王が自殺されられる。
同じ側室でも不比等の娘の長蛾子とその息子は罪に問われなかった。
- 長屋王謀反の話は、でっち上げだった。要するに、藤原氏が蘇我氏につながる皇族を一掃した事件だった。
- 長屋王の変の半年後、光明子が皇后になる。皇族でない者が皇后になるのは大宝律令に反していたが、
藤原氏がゴリ押しした。
- 738 年、聖武・光明の娘の阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が立太子。孝謙は不婚だったので、持統の血はこれで途絶えた。