知識の哲学(哲学教科書シリーズ)
戸田山和久著
産業図書
刊行:2002/06/20
名大生協で購入
読了日:2002/08/09
知識の哲学(認識論)についての非常に明快な教科書。
おかげで認識論というものがどういうものかよくわかった(少なくとも
わかった気がした)。
ふつう哲学の教科書はふつうは難しげなことがいっぱい書いてあって、
かなり気合いを入れないと読めないし、入れても挫折するのが多いのに対し、
この教科書はそんなことはない。実にすらすらと読むことができた。
こういう明晰な教科書を読むと、
普通の哲学者は、やっぱり自分の書いていることが
よくわかっていないのではないかと疑いたくなる。
ノートを取りながら読んだ。
サマリーを書いてある。
この前に読んだ
山鳥著「「わかる」とはどういうことか」
と重ねて読むと、いろいろ良く分かった気になる。
その結果、私なりに分かったことをまとめると、以下のようになる
(本に書いてあることを逸脱している部分もある)。
伝統的な認識論の問題は次のようなものである。
知識とは、信念のうちでまっとうな正当化をされたものである。
このまっとうな正当化とはいかなるものか?
しかし、この問いは問いの立て方自体がいろいろな点でおかしい。
- 本来知識の哲学は、現実の知識の動態をきちんと調べなければならない。
それは頭の中だけで考えて分かるものではなく、知識という現実の現象を
良く観察して分析してわかることである。その上ではじめて、
知識はいかにあるべきかという認識論の問いに答えることができる。
- 伝統的に想定されている知識は、一つのあるいは少数の文で表現されている
ものである。しかし、現実の知識は、ネットワークとして存在し、一つの文を
切り出して考えられるものではない。ネットワークは、個々の人間の頭の
中に存在すると同時に、社会全体としても存在する。さらに頭の中の
知識のネットワークは、文として表現できないかもしれない。
- 知識にはいろいろな種類があって、それを十把一絡げに
知識ということには問題がある。命題として表現できる知に限った
ところでそれは一様ではない。心の中に存在しているものも
そうでないものもあり、その分析を正しく行うことも重要である。
- 誤っている可能性のない知識はない。知識の信頼性には程度があり、
どこまでが知識とよびうる信頼性の高いもので、どこまでが信頼性が
なく知識とは言えないかという線引きは恣意的なものであり、
線引き自体に意味がない。むしろ、その程度を表現することを考えるべきである。
- 正当化を知識の要件ということにも問題がある。われわれは、
たとえば、動物の知識も知識と呼びたい。動物はそれを少なくとも
自分自身では(内在的には)正当化できない。われわれ人間も、自分の
全ての知識をいちいち正当化しているわけでもないし、できるわけでもない。
- 知識は、人間が「わかった」と思う感情とも独立ではあり得ない。
要するに「わかった」と思えることを知識と呼ぶのかも知れない。
- 知識の哲学は脳の科学と密接に関係する。
後日(2003/09/20)、哲学の専門家であるを見つけた。いろいろな立場があるということで。