哲学の最前線 ハーバードより愛をこめて
冨田恭彦著
講談社現代新書 1406、講談社
刊行:1998/06/20
名大生協で購入
読了:2006/10/07
著者の三部作
(他の二つは「観念論ってなに?」
「対話・心の哲学」)の第一作。他の二つが
とても読みやすかったので、第一作を読むことにした。本書の主題は、
ローティによる基礎づけ主義の完全放棄である。これは、
現代の時代の感覚にぴったり合った哲学であると感じた。
以下、各章のサマリー
サマリー
第1章 アメリカ哲学の中の「解釈学」
「理解」をどう理解するかに関するアメリカ哲学の展開の解説
- デイヴィドソンは principle of charity(好意の原理)という考え方を通して反相対主義を主張した。
人の発言を理解しようとするときは、その人が言っていることを基本的に正しいとしなければならない。
人間の考えることは、大筋において重なっている。そうでなければ差異をそもそも議論できない。
文化の差異は、全体のバランスからすれば小さい。通常は差異が誇張されているのである。
自分と相手の考え方が全く異なるという意味での相対主義は、証拠立てることができない。
- ドイツの「解釈学」で平行する考え方に、ガダマーの Vorurteil(先入見)がある。
それは、「言語は、すでに持っている知識やものの考え方(先入見)を投入しなければ理解できない」
ということだ。
- 科学哲学においては、ハンソンの「観察の理論負荷性」という考え方がある。すなわち、
観察には、すでに理論が関わっている。
- サールの言語哲学においては、言語の解釈における、整合的推論の重要性を指摘した。
- 以上のような考え方の結果として、ローティは、従来重要視された知識の基礎付けを放棄し、
循環を繰り返す中の暫定的均衡状態で手を打たなければならないとした。
第2章 指示理論をめぐって
言葉と実在との結び付きは、結局われわれの信念や思考とは独立ではないという説明
- クワインによれば、さまざまの信念はネットワーク構造を作っていて、単独では真偽を
定めることができない。これを全体論 (holism) という。クワインは、理論体系と
外界との境界にあるものを「観察文」と呼んだ。観察文とは、刺戟に対して即座に
同意・不同意ができるような文である。これと理論負荷性との関連は複雑になるので省略する。
- ところが、刺戟によって反応が起こり信念が形成されるとき、その信念が
世界を正しく表現するかどうかは明らかではない。その基本的な問題として、
信念を表現する言語が世界とどう対応しているかを考えたくなる。
その要素の一つが指示理論である。それは、対象と名前の結び付きを問題にする。
- 古典的なミルの指示理論では、固有名と対象とは直接結びついているとした。
フレーゲは、それでは足りないことに気づいた。固有名は、指示対象 (Bedeutung) と
結びついているだけでなく、意味 (Sinn) を持っている。
- サールは、「意味」をもう少し一般化して「記述群 (cluster)」が固有名に結びついている
と考えることで、伝統的指示理論を完成させた。記述群に含まれる記述の一つくらいが
間違っていても指示を変える必要はない。記述群はゆるく結びついているものなので、
われわれはふつういちいち固有名の意味を言うことはない。
- しかし、話し手がしっかり固有名の意味を記述できないことがある。
そこで、クリプキは、名前が人から人へと受け渡されるプロセスが重要だと考えた。
これを「指示の因果説」という。
- パトナムは、自然種名(たとえば、「水」とか「レモン」とか)に関しては、
本質的特徴を知っている専門家が社会のなかにいることが重要だと考えた。
これを「言語の分業説」という。
- 以上のような新しい指示理論に対しては、サールは以下のように反論する。
指示の因果説は、記述説の一形態である。名前の受け渡しも
記述の一種であると考える。言語の分業も同様で、話し手が十分に
同定記述を与えられなくても、専門家が記述できれば、それは記述の一形態だと
考えれば良い。
- 以上のような指示理論では、指示されるものは存在しなければならないことに
なっている(存在公理)。ところが、われわれはシャーロック・ホームズの
ように存在しないものについても語ることができる。そこで、ローティは
「…について語る」だけで十分なのだと主張した。そうすると問題は
元に戻って、対象と言葉の関係にはわれわれの信念が入ってこざるを得ない、
ということになる。
第3章 連帯への道
最後はローティで締めくくる。
- クワインの「観察文」は事実をありのままに写したものではないかもしれない。
しかし、世界が思考に介入していることを認めている以上、何でもあり
というものでもない。
- ローティの考えでは、世の中に絶対的知識など無いから、
とりあえずわれわれが正しいと思っているものから出発するより他にない。
これを「自文化中心主義 ethnocentrism」という。しかし、
これは相対主義ではない。ローティは「連帯」という考え方をする。
人間は、共に生きたいと思う同志として、互いに意見を交換して、
何をとりあえず良しとするかを考えるものである。