最近の歴史観を反映して、両シリーズともできるだけ「世間に伝わる伝説」を排し、 常識的な戦争の推移がどうであったかを解説している。
以下は、合戦の時代順に並べておく
古代の関ケ原とも言われる壬申の乱である。朝鮮出兵して白村江でひどい目に遭ったために 政権が不安定になって権力闘争が起こったのだとすれば、関ヶ原に似ているし、不破(関ヶ原のあたり)が 重要な拠点のひとつとなっていることも関ヶ原に似ている。関ヶ原の戦いで、家康が本陣を構えた桃配山の 名前の由来は、壬申の乱で大海人皇子が兵士に桃を配って激励したことにあるのだそうな。 しかも、戦場は関ヶ原の戦いよりも広域にわたっている。関ヶ原のときのように、政権内部での不和があって、 多数派工作がいろいろ行われたのだと推測される。
とはいえ、当時のまともな記録が「日本書紀」くらいしかなくて、しかも「日本書紀」が大海人皇子側に 立って書いてあるために、戦いの発端の真相はけっこう闇の中である。従来の解釈は、「日本書紀」を信じて、 天智天皇が、当時の慣習に反して弟の大海人よりも息子の大友に王位を継承したがったのが戦の発端とされてきた。 しかし、「日本書紀」の記述の一部を信じないとすると、さまざまな解釈ができることになる。 この巻では3つの説が紹介されている。
最近、知多半島の美浜町野間に行く機会があり、そこが義朝が討たれた場所であることを知り、
史跡巡りをしてきた。義朝の墓とか、義朝の首を洗ったとされる「血の池」とか、だまし討ちをした
長田忠致(おさだただむね)・景致(かげむね)父子の館の跡地とか、義朝が討たれた湯殿跡とされる場所とかがある。
館跡地と湯殿跡の距離が結構離れているのが疑問であった。長田親子は、その後頼朝に捕えられ処刑されたそうで、
磔にされたとされる松も残っている。辞世の歌「ながらえて命ばかりは壹岐の守(いきのかみ)
身の終わり(美濃尾張)をば今ぞたまわる」。頼朝から美濃と尾張を与えると騙されたということがあって、
この歌になるとのこと。
[参考 HP :
尾張歴史と伝説の旅:野間大坊〜法山寺]
伊勢は、以前に行ったことがある多度大社がこのあたりの氏神ということで、伊勢平氏にも崇敬されていたとのこと。
平家は驕り高ぶりの代名詞と見られることも多いが、 この巻の記述によると、平清盛は、心遣いのできる「良い人」だったということである。 そうでなければ、なかなかあれだけの出世と繁栄を得られなかったであろう。 たとえば、対立する後白河上皇と二条天皇の両方を支えてうまく立ち回っている。 またたとえば、土木工事においては、人柱を避けてその代わりに経石を沈めた。そのために 人々から感謝されて、関係する土地に清盛塚があるらしい。
それに比べて、この時期は、源氏の乱暴さが目につく。源為義は一族の内紛を抑えられず、 それが結局保元の乱の敗北につながる。源為朝は乱暴者で各地で問題を起こしていたらしい。 源義朝は、保元の乱で白河北殿に放火という禁じ手を使うことで勝利を収め、 平治の乱でも三条殿に放火して悲惨なことになった。こういった粗雑さが、 一族が全滅寸前になった原因なのだろう。もっとも、清盛が「良い人」だったので、 頼朝の命を助けてしまったのが、その後の平家の滅亡につながってしまうわけだが。
桶狭間は「迂回奇襲攻撃」というのが、従来の常識であったが、現在では、正面攻撃であったというのが 常識になっているようだ。迂回奇襲説は、江戸時代初期に小瀬甫庵が書いた「信長記」に基づく。 しかし、小瀬甫庵は桶狭間後に生まれた人なので、直接の情報を持っておらず、誇張がありそうだ。 むしろ、太田牛一の「信長公記」の方が信用できる。すると、まっすぐに今川軍に攻撃を仕掛けたとするのが 正しくなる。さらに、今川義元の陣は谷にあったのではなく、当時の軍事常識通り山にあったことになる。
ではなぜ、無勢で勝てたのか?ここはいまだ諸説紛々のようである。 講談社版で紹介されている考えは、今川軍が大高城を目指して 谷間に入って隊列が伸びていたところを側面攻撃した形になったということだ(有光有學氏の説)。 小学館版では、以下の3つの要因が挙げられている。第一には、多勢に無勢といっても、今川軍は 途中の城や近くの鳴海城・大高城に兵力を割いていたので、本隊は5000人程度、それに対する 織田軍は精鋭2000人程度でそれほど兵力に差があったわけではない。第二には、戦闘直前に 激しい雨のために視界が悪くなっており今川軍の守備が薄くなっていた。第三には、もともと義元本陣を 必ずしも狙っていなかったにもかかわらず、たまたま義元本陣を直撃する形になり首級を得ることに 成功した。要するに半分は運が良かったということである。
その他、信長は情報戦にも長けていたようである。デマを流すなどして、今川方の戸部城の戸部新左衛門、 鳴海城の山口父子が信長と通じていると今川義元に信じさせ、殺させている。そういういわば 汚い手を使って今川方の前線の力を弱めていたのも勝利の遠因だそうだ。
最近、名古屋市南部に引っ越したので、桶狭間の戦場がかなり近い。先日 (Feb 2008)、大高の歴史散策会があって、 ゆかりの地である大高城址を訪れる機会があった。さらに、大高城址からは、鷲津砦や丸根砦があった丘を 望むことができる。そのとき案内してくれた方は、桶狭間で今川軍が負けた理由は、今川の本拠から遠かったために ロジスティックスが不十分だったのではという考えを披露していた。
長篠と言えば、従来は「鉄砲の三段打ち」を連想するものだったが、これは嘘というのが現在の常識のようだ。 桶狭間の戦いと同様、小瀬甫庵が書いた「信長記」に粉飾があって、それを明治時代の陸軍参謀本部編 「日本戦史・長篠役」が踏襲したことにより定着した伝説で、実際はほぼ不可能であったとのこと。
武田軍が負けた理由は、慎重だった重臣を意気軒昂たる武田勝頼が一蹴してしまったことにあるようだ。 勝頼は、織田徳川連合軍の士気が低いと考えていたようである(小学館版)。小和田哲男氏の総括によれば、 勝頼は独断専行型で、これが軍内の不和を招いていたのが問題だったということだ(講談社版)。 冷静に言えば、織田徳川連合軍は 3 万 8 千人、武田軍は 1 万 5 千人だから、そもそも多勢に無勢であり、 普通にやれば勝てないはずであった。しかも、織田徳川軍が多数の鉄砲隊をうまく使ったのに対して、 武田軍の攻撃が単調であったことが、武田軍が大敗を喫した理由だったようだ。とはいえ、 武田軍の死者が1万人(「信長公記」)というのは壊滅的だが、一方で織田徳川軍の死者が6千人(「長篠日記」) というのもかなりのものであり、この数字が正しければ、武田軍もけっこう奮戦していることが読み取れるのである。
織田徳川軍の戦端の開き方も巧妙だ。設楽原で有利な陣取りをしておいてから、 織田徳川軍は士気が低いというデマを流し(小学館版)、武田軍を設楽原におびき寄せている。 その一方で、酒井忠次の別動隊が、長篠城を監視していた鳶ヶ巣山砦を早朝攻撃して武田軍の退路を断っている。 これらのことによって最初から有利な状況を作り上げている。
九鬼嘉隆のことを書いた小説「戦鬼たちの海」を読んだせいで この巻を買ってみる気になった。その小説を読んだきっかけは、鳥羽の答志島で九鬼嘉隆の首塚・胴塚を 見たことだったから、広い意味では地元ゆかりの武将の戦いである。
九鬼嘉隆の武将人生のピークが、第2次木津川口の戦いで毛利水軍を破ったことである。 これによって、信長と石山本願寺の戦いで信長の勝利が導かれる。この戦いの勝利のポイントは、 九鬼嘉隆が率いる織田水軍が用いた大砲付きの鉄甲船であることには誰も異論がないようである。 おもしろいのは、鉄甲船のアイディアを出したのが、「戦鬼たちの海」では九鬼嘉隆であるということに なっているのに対し、この小学館版では織田信長ということになっていることである(とくに 小学館版に書いている井沢元彦がそう主張している)。結局のところ記録が残っていないので、 事実はよくわからないのであろう。「戦鬼たちの海」(白石一郎著)では、九鬼嘉隆は船の建造に通じており、 第1次木津川口の戦いを家臣に偵察させて毛利水軍の戦法を聞いた上で、鉄甲船のアイディアを出したとしている。 井沢元彦は、信長の天才を信じているから、信長しかそんなことを思いつくはずがないと確信しているらしい。
第1次木津川口の戦いで勝利を収めた毛利水軍の村上氏、第2次木津川口の戦いで勝利を収めた織田水軍の九鬼氏、 どちらも秀吉の時代以降、水軍(海賊)としては衰退する。とはいえ、九鬼氏は、江戸時代を通じて、 摂津三田藩と丹波綾部藩の藩主になるので、それなりの安定を得たようだ。村上氏の方は、毛利家の家臣になって 独立性を失う。一族の来島(くるしま)村上氏は、豊後の小藩である森藩の藩主となる。
小牧・長久手の戦いは、実は尾張だけの戦いではなく、戦線が日本全国に広がった戦いだった。 戦端は伊勢で開かれる(天正 12 年 3 月 12 日)。13 日、どちらに付くか迷っていた池田恒興が 秀吉方に付くことを決めて犬山城を奪う。そのためもあって、当初の伊勢攻防戦では秀吉方が勝利する。
続く 3 月 17 日の羽黒の戦いでは、森長可が不用意に先走って秀吉方が敗戦。 これを受け、秀吉自身が大阪から出陣をする。その結果、大坂で競り合いが起こが、収拾される。 3 月 28 日に、秀吉が楽田城に入り、そこを本陣とする。29 日には、織田信雄が小牧山に移り、家康と合流する。 ここにおいて、本格的に両軍が対峙する。
4 月 7 日に、秀吉の別動隊が三河に向けて出陣する(三河中入り作戦)。ところが、それが家康方に察知され、 4 月 9 日の長久手の戦いでは家康側が勝利する。長久手の戦いで秀吉方が負けたのは、8000 名の大軍を率いていた 三好信吉(秀吉の甥で、のちの豊臣秀次)が簡単に敗走したことがかなり大きい原因のようだ。 秀次は当時 17 歳くらいだったみたいだから、そもそも秀吉の作戦が無理だったのではなかろうか? 身内が少なかったからとはいえ、あんまり身内を贔屓するとロクなことが無いようである。 秀吉方の「三河中入り作戦」は、従来は池田恒興が提案した策とされてきたが、 小学館版には、秀吉の発案ではないかという説(谷口央氏の説)が紹介されている。
以後、「秀吉 vs 家康」の戦線は長く膠着。秀吉は、伊勢へ向かって織田信雄をじわじわ追い詰める作戦に出る。 11 月に織田信雄が屈服して講和したことによって戦いが終わる。
韓国に行く機会があったので興味を持って買い、しばらく放ってあったのを、九鬼嘉隆に興味を持った時に (上の「大坂湾海戦」参照)読んだ。といっても、九鬼嘉隆の戦いについてはほとんど書かれていない。
秀吉の朝鮮出兵は、どう見ても明らかに無理だし無残な戦いだったから、戦いとしてはあまり興味深い部分もない。 ひとつ興味深いのは、朝鮮や明との交渉役の人々の振る舞いである。 秀吉の無茶な要求のおかげで、朝鮮や明との間で板挟みになってしまったから、苦肉の策を使っている。 日本を統一した秀吉が、対馬の宗氏に、朝鮮から服属使節を送るようにせよと命じたとき、 宗氏は困って偽の国書まで作って何とか朝鮮から通信使を派遣してもらう。 でも、結局会見がうまくいかなくて(両者違ったことを伝えられているのだから当たり前)、文禄の役が始まる。 文禄の役後の講和交渉でも、小西行長は明に対する降伏文書を偽造する。 でも、これも明からの使いが秀吉の考えとは違うことを言ったので(これまた両者違ったことを 伝えられているのだから当たり前)、慶長の役が始まる。 というわけで、間に立った人々のせっかくの苦労も水泡に帰してしまったわけである。
関ヶ原の戦いは、結果的から見ると、家康の調略の見事さが目立つわけだが、 三成だってこれだけの戦いができたのは立派なものだ。 両軍ともに結束に問題があったし、両軍ともに誤算があった。 で、結果が運なのか実力なのかの判断が難しいところである。
講談社版では、秀忠軍が上田城攻撃で遅参した理由に関して、2つの新説を書いているのが興味深い。 一般に流布している話では、秀忠が真田昌幸の挑発に乗ってしまったのが原因であるとされている。それに対し、 漫画とその下の解説 (第2巻 p.26) の方では、以前天正十三 (1585) 年の上田城攻略で撃退させられていることの トラウマのため、徳川軍が上田城攻めに固執したのが原因であるとしている。 一方本文 (第2巻 pp.18-19) では、もともと秀忠軍は上田城攻略のために出動しているのであり、 関ヶ原に向かえという指令が届くのが、天候不順のため 9 月 9 日まで遅れたのが遅参の原因であるとしている。 秀忠の性格が実直とされていることからすると、この最後の説が自然であるように思える。ただ、そうすると、 なぜ大軍をわざわざ上田城に差し向けたのかという疑問が残る。