日本とかかわりのある英文学を紹介する番組で、興味深かった。
紹介されている中で読んだことがあるのは、小泉八雲の『知られぬ日本の面影』や『怪談』の抄訳くらいだが、
他の読んでみたいと思えた。
できれば翻訳ではなく英語で読んだほうが良いということではあるが、なかなかそれほど暇でもないというところである。
放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 序―日本と英文学と出会い
本講座では、日本と縁の深い英文学を見てゆく。
- 日本における英文学の受容
- 明治時代になって、最初の10年間は、英語でエリート教育がなされた。
- 明治10年以降は、翻訳がさかんに行われるようになる。明治10年の西南戦争のため政府支出がかさみ、外国人お雇い教師を雇えなくなった。明治18年以降は、教育は日本語で行われるようになった。
- 明治中期以降、英文学は、英語学習のための教材となった。教養的価値も重要視された。
- 日本で愛された英文学
- 正統的英文学以外にも、Lafcadio Hearn や Somerset Maugham も日本では好まれた。
- 本講座では、Thomas Carlyle、Charles Dickens、Rudyard Kipling、Bertrand Russell、Somerset Maugham を紹介する。
- 著者は、Kipling の『少年キム』を翻訳した。好きな作品である。
- 日本を描いた作家と作品
- 本講座では、Kazuo Ishiguro、Lafcadio Hearn、Isabella L Bird、James Kirkup、Reginald H Blyth を紹介する。
- 原文が入手しやすくて読みやすい作家
- 今だと Ishiguro が入手しやすいし読みやすい。とくに『日の名残り』がオススメ。Russell と Maugham は、以前はよく英語教育で使われていたことでわかる通り、読みやすい。Kirkup も読みやすいが、今では入手できるものが少ない。
- 英語に自信があって普通の英文で物足りないのであれば Carlyle に挑戦してみてほしい。かなり難解である。
第2回 新渡戸稲造の愛読書―トマス・カーライル『サーター・レサータス』
- 新渡戸稲造の『武士道』
- 英語で書かれたもので、原題は Bushido, the Soul of Japan。新渡戸が病気療養中に口述筆記したもの。
- 美文調の英文で、決して読みやすい英文ではない。
- その新渡戸の愛読書が Thomas Carlyle の"Sartor Resartus"。新渡戸は繰り返しこの本を読んだので、
『武士道』の文章にも Carlyle の影響を見て取ることができる。
- Thomas Carlyle
- スコットランドで石工の息子として生まれる。
- 最初は牧師となるべく教育を受けたが、やがて文芸評論を行うようになる。
- Carlyle が有名になったのは、"The French Revolution : A History"、"On Heroes, Hero-Worship and the Heroic in History" による。
- "Sarter Resartus"
- もともと Fraser's Magazine に連載された。
- 題名の直訳は「仕立て屋の仕立て直し」とでもなるので、邦題としては『衣服哲学』『衣装哲学』が使われる。
- 語り手の編集者が、ドイツの大学教授の学問業績や思想を紹介するという仕立てになっている。
「汝のもっとも手近な義務を果たせ」自分でそれが義務だと分かっているものを!
汝の第二の義務は、そのときすでに明らかになっているであろう。
自分の手でなすべきことを全力でなせ。今日が終わらぬうちに働け。夜が来れば、誰も働くことはできないのだ。
- Carlyle がこれを書いたときには、健康上、経済上の不安があったようだ。当時は、産業革命による社会の転換期でもあった。
- 新渡戸稲造と『衣服哲学』
- 南部藩士の子。叔父の養子となって上京。東京外国語学校に入学し、さらに札幌農学校に入学。
- 新渡戸の講義の速記録を元にして『衣服哲学講義』が編集された。
- その『衣服哲学講義』によれば、新渡戸は、最初 Carlyle の何かの言葉に感銘を受け、大学のハリス先生に頼んで譲ってもらった。
- 新渡戸が当時苦しんでいたのは、おそらく母親をなくしたことも原因であろう。
- 新渡戸は、その後、教育家、国際人として大活躍する。
- 本の紹介
- 新渡戸稲造『修養』(角川ソフィア文庫)
- カーライル『衣服哲学』(岩波文庫) あまり読みやすくはない。
- Carlyle の原文は格調が高すぎて難しい。
第3回 英文学の名作と翻訳・翻案―チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパーフィールド』と若松賤子「雛嫁」
- Charles Dickens
- 数々の名作を著しており、舞台や映画などに翻案されているものも多い。
- 1812 年、ポーツマス生まれ。新聞記者となる。24 歳の時著した "Sketches by 'Boz'" が好評で、人気作家となる。
- David Copperfield
- Dickens の半自伝的小説。
- 子供の頃からさまざまの艱難辛苦を経験し、やがて作家として大成するという物語。Bildungsroman の一種。
- 明治時代の翻訳と翻案
- 明治時代には、翻案という訳し方が登場した。
- "Oliver Twist" の翻案としては『小櫻新八』(堺枯川)、『漂白の孤児』(松本泰・恵子;Oliver は織部捨吉という名前になっている)などがある。
- 若松賤子「雛嫁」は "David Copperfield" の抄訳。若い David と Dora の夫婦の成長物語として切り取られている。「雛嫁」は child-wife の訳。
ナアニネ、馬鹿らしい、あたしをドラ子ッて言わないで、雛嫁なんて呼んで頂戴といふのではないの。
たゞ、さういふ心持で居て頂戴といふの。あたしに腹がたつことがあつたら、アヽ、あれは雛嫁だから、仕方がないと、心に思つて頂戴。
第4回 キプリングの東と西―ラドヤード・キプリング「東と西のバラッド」、『少年キム』
- 誤解される Rudyard Kipling
- 帝国主義との関係で歪んだ引用をされることが多い。
East is East, and West is West, and never the twain shall meet
これは、東洋と西洋が相容れないという意味で引用されることが多い。しかし、文脈を考えるとそれは逆の意味。
東洋と西洋の間にはいろいろ違うところが多いけれど、どちらも同じ人間なのだから、共鳴することができる、
という文脈で使われている。
- 「東と西のバラッド」
- 上の文句は「東と西のバラッド」という物語詩に出てくる。
- 19 世紀、インドはイギリスの植民地であった。アフガニスタンとの国境周辺でイギリス軍が国境警備をしている。
そこで、イギリス軍の大佐の息子と盗賊団の首領のカマールが出会って互いに認め合う。
だが、東もなければ西も、国も、生まれも、育ちもない
二人の強者(つわもの)が、たとえ地の端と端から来たとしても、面と向かって相対するとき
- 『少年キム』
- [時代背景] インドに駐留するイギリスとロシアとが諜報合戦をしている。
- [物語の筋] キムはアイルランド部隊の兵士の子。キムは、ラマ僧から援助を受けてインドで最高の教育を受ける。
キムはやがてイギリスの諜報部員となる。キムの活躍によって、英領インドは守られた。
- [題詩] 第一章の題詩に鎌倉の大仏が登場する。
寛き心もて見守り給へ
「異教」の民が鎌倉の大仏に祈るとき!
この題詩は、キプリングが鎌倉を訪れたときに書いたもの。
- [物語の終わり] ラマ僧は老婆の家で悟りを開く。彼は、自分とキムの救いをそこで見出した。
- Kipling の考え
- Kipling は、植民地支配を肯定的にとらえていたのだろうが、そのなかで東西和合のありかたを模索していたと考えられる。
第5回 ラッセルと受験英語―バートランド・ラッセル『幸福論』
- 受験英語
- Russell は受験英語でよく使われていた。
- Bertrand Arthur William Russell
- 1872 年、名門貴族の家に生まれた。
- 18 歳でケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学。
- 1910-1913 年に "Principia Mathematica" を出版。
- 第一次世界大戦のころから反戦運動を始める。そのために禁固刑に処せられたこともある。
- 1950 年にノーベル文学賞を受賞。
- 日本における Russell の受容
- 少なくとも大正時代には注目されていた。1921 年に改造社の招きで来日したときの講演は大盛況だった。
当時は「危険思想家」ともみなされていた。
- 講師は、高校の時に受験対策も兼ねて一生懸命 Russell を読んだ。
- Russell の英文の特徴~受験英語として好まれるわけ~
- 規範文法にきちんと則って書かれている。
- 文章が論理的。なお、「英語が日本語より論理的」とよく言われるのは誤りで、これは言語の性質の問題ではない。
植民地支配のためにどうしても異民族間でもわかりやすくなるように英語を使わざるを得なかったことによる。
- 内容が理知的。内省的で、高い精神性を有する。
- 小単位でのまとまりが良いので、問題のために文章を切り取って使いやすい。
- 『幸福論』
- 第一部「不幸の原因」と第二部「幸福の原因」に分かれる。
- 不幸の原因=バイロン的厭世観、競争、退屈、興奮、疲労、嫉妬、罪悪感、被害妄想、世論に対する恐怖
- 幸福の要因=熱意、愛情、家庭、仕事、闊達な好奇心、努力、諦念
[参考1] バートランド・ラッセルのポータルサイト
[参考2] 『幸福論』は、わりと最近「100 分 de 名著」でも取り上げられていた。
第6回 モームはなぜあれほど日本で読まれたのか―サマセット・モーム『人間の絆』、『サミング・アップ』
- 受験英語
- Maugham も Russell と並んで受験英語でよく使われていた。
- William Somerset Maugham
- 1874 年、在仏英国大使館の顧問弁護士の四男として生まれた。
- 医学を学んだ後、作家となる。代表作に『人間の絆』『月と六ペンス』など。
- Russell と Maugham
- Russell と Maugham は同世代の人で、どちらも長生き。
- Maugham は、Russell の文章の質を高く評価してはいるが、言うことがよく変わることを批判している。
- Russell が世界的な評価を得たのに対して、Maugham は日本でだけよく読まれていた。
- Maugham が日本で人気があった理由
- 文章がわかりやすい。
- 東大教授の中野好夫が紹介して「お墨付き」を与えた。
- 権威に対して否定的な態度を取る Maugham の文学が、日本人に好意を持って受け入れられた。
- 読者に生き方を考えさせてくれる。
- 『人間の絆』のあらすじ
- フィリップ・ケアリは孤児。内反足という障害をかかえており、牧師館で生活。
- フィリップはミルドレッドという女とどろどろの関係になる。彼女は娼婦に身を落として物語から消える。
- 最後には、フィリップは医師として平凡で静かな人生を送ることを選ぶ。
- 『人間の絆』をめぐって
- 『人間の絆』には『デイヴィッド・コパーフィールド』と対応している部分がある。Maugham は意図的にそうしたのではないか。
- 『デイヴィッド・コパーフィールド』が明るい人生観を提示しているのに対して、『人間の絆』では人生の無意味さが語られる。
絨毯の織匠が精巧な模様を織り上げてゆく際に意図するのは、
単に自ら審美眼を満足させるだけであるのと同じように、人もまた自らの人生を生きればよいのだ。
今後は、いかなる過酷な試練に遭遇しようとも、すべては複雑な模様の完成に寄与するだけなのだ。
- 上記のフィリップの「悟り」は、クロンショーが送ってきたペルシャ絨毯の断片から得られたものだ。
このような以心伝心的な悟りが、『人間の絆』が日本人に好まれる理由の一つであろう。
第7回 カズオ・イシグロはどこまで日本人なのか―カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』、『浮世の画家』、『日の名残り』
- カズオ・イシグロ
- 1954 年、長崎生れ。5 歳の時からイギリスで暮らす。2017 年、ノーベル文学賞受賞。
- 作品に『遠い山なみの光』(処女小説)、『浮世の画家』、『日の名残り』、『充たされざる者』、『わたしたちが孤児だったころ』、
『わたしを離さないで』、『忘れられた巨人』がある。
- 『遠い山なみの光』『浮世の画家』
- 日本が舞台なのだが、不自然なところもある。登場人物がやたらとお辞儀をするとか。
- イシグロは、最初から正確で自然な日本を描こうとはしていなかったようだ。
- 『日の名残り』
- イギリスの執事の物語なのだが、日本人的な感性が描きこまれている。
- 物語の語り手は主人公のスティーヴンズなのだが、彼は必ずしも本当のことを語らない。
それが物語の端々に矛盾として現れる。
- 執事学校の先生は、『日の名残り』はイギリスの執事の職業倫理を反映していると言った。
にもかかわらず、著者は、日本人的な感性も反映していると感じる。
イシグロは、イギリスの執事の職業倫理の中に日本人的感性と響きあうものを感じたのではないか。
- 語り手の文体論
- 全知の語り手は、すべて本当のことを語ることが想定されている。
- 登場人物による語りは、必ずしも本当のことを語る必要がない。その代わり考えや思いを深く語ることができる。
[吉田注] NHK のテレビ番組「文学白熱教室」で、イシグロ本人も著者と似たようなことを言っていたと記憶している。
『遠い山なみの光』や『浮世の画家』は、日本を正確に描こうとしたものではなく、自分の記憶の中の日本を記録にとどめておきたかったと言っていたと思う。
『日の名残り』は、『浮世の画家』の舞台を日本からイギリスに移したようなものであり、日本にこだわらず、
人間に普遍的なものを描きたかったのだと述べていた。
第8回 日本を愛するためにやってきた作家―ラフカディオ・ハーン『知られぬ日本の面影』、『怪談』
- 昭和初期の受験英語
- Lafcadio Hearn は、昭和前期の入試に頻繁に登場した。
- 英語で日本を発信するという考えは昔からあった。
- Lafcadio Hearn (小泉八雲)
- 1850 年にアイルランド人の父親とギリシャ人の母親との間に生まれた。
- Lafcadio の名前は、生誕地のレフカダ島に因む。
- Hearn は、アイルランドで育ち、イギリスとフランスの神学校で学ぶ。
- 19 歳でアメリカに渡り、新聞記者になる。1877 年から 10 年間、ニューオーリンズに滞在し、そこでスペイン語を学ぶ。
- 1890 年、40 歳で新聞記者として来日。松江で英語教師の職を得て、小泉セツと結婚。その後、東京帝国大学文科大学講師などを務める。
- 日本に帰化して、小泉八雲を名乗る。
- 『怪談』
- 十七編の怪奇物語と、虫に関する不思議な物語を論じた三編の随筆が収録されている。
- そんなに怖い物語はない。多くの物語は、日本人にとっては「怪談」とは言えないもの。
- 副題が Stories and Studies of Strange Things となっていることから、Hearn にとって「怪談」とは不思議な物語という程度の意味だったのかもしれない。
- 『知られぬ日本の面影』
- Hearn が横浜に到着してから、松江を離れるまでに見聞したことを記した随筆集。
- Hearn がお布施をした場面がある。そこに不幸な少年時代と結びついたキリスト教への反感が見られる。
- Hearn は地蔵に心惹かれている。それは、地蔵が子供を護ってくれるからで、子供に辛い西洋文化への反感の反映だろう。
- これからの日本への教訓
- 外国や外国人におもねらず、日本人自身がそのままの日本の良さを認めること。
[吉田注] 『知られぬ日本の面影』は、以前「100 分 de 名著」で
取り上げられていた。その抄訳をだいぶん前に読んだことがある。昔の日本の良さに感動した覚えがある。
無論、Hearn のフィルタがかかっているから、昔の日本にも良い点悪い点いろいろあったのだろうとは思うが。
第9回 明治初期の日本を歩いたイギリス人女性―イザベラ・バード『日本奥地紀行』
- Isabella L. Bird
- 1831 年生まれ。世界各地を旅した旅行作家。
- 『日本奥地紀行』
- 1879, 1885, 1900 年の3つの版がある。それぞれ細かい異同がある。
- Bird は、Hearn と違って、冷徹な目で日本を見ている。Hearn の日本紀行が日本賛美なのに対して、Bird は日本の美しさも醜さも書いている。
- 書簡形式で書かれている。「はしがき」によれば、それは不満や困難や退屈さを書くためだった。
- 日本人の外見は不恰好 (ugly) で貧相だと書いている。
- 日本人は子供をよく可愛がると書いている。
- 通訳の伊藤鶴吉の第一印象は、表情がぼうっとしている (stupid-looking) ということだった。こずるい人物だったようである。
Bird は、伊藤がアイヌを見下しているのも気に入らなかった。
- Bird は敬虔なキリスト教徒だった。日本人もキリスト教を受容すべきだと考えていた。それが、日本人を否定的に見た一つの理由だった。
第10回 日本で英語・英文学を教えたイギリス詩人―ジェイムズ・カーカップ『イギリス人気質』
- James Kirkup
- 詩人。詩作や俳句の英訳をしている。
- 1918 年生まれ。ダラム大学で西洋近代語を専攻。第二次世界大戦後は教師になる。
- 1959 年、東北大学の招きに応じて来日。その後も、日本女子大学、名古屋大学、京都外国語大学で教鞭を取った。
- 日本の英語学習者のために多数の教科書を執筆した。そこで、日本では、彼の詩よりも随筆が知られている。
- 最初は、日本を好意的に描いていたが、高度成長期から批判的に描くようになった。
- Kirkup と日本との最初の接点
- 戦後間もなく、一通の手紙が『シールズ・ガゼット』という地元の新聞に載った。
それは、T.Kondoh 氏から元の収容所の捕虜に対して親愛の情を示したものであった。
- 元捕虜は、これを「厚かましさの極み」として投書したものだった。
- Kirkup は、手紙を弁護する文章を投稿したのだが、袋叩きにあった。
- 『イギリス人気質』
- 日本人英語学習者のために書かれた随筆。
- 日本人が外国人にやりがちな無作法を戒めている。
- 日本文化に対する批判も見られる。日本には、西洋文化にある品位、堅固さ、豊かさなどがない。
- 日本では、自由な意見交換ができない。日本では愛国主義が禁句になっている。
しかし、健全な批判精神があれば、愛国的であるのは良いことだ。
第11回 西洋文学の中に禅を読んだイギリス人―R・H・ブライス『禅と英文学』
- Reginald Horace Blyth
- Blyth は日本に定住して日本を愛した文学者なのだが、あまり知られていない。性格が控えめだったせいかもしれない。
- 1898 年 Essex 州生まれ。1924 年より京城帝国大学で外国人教師になる。1937 年、来島富子と結婚。
- 1938 年来日。禅や俳句の研究を行う。太平洋戦争中は敵国国民として抑留生活を送る。この間、1942 年に『禅と英文学』を出版。
- 終戦後、学習院の外国人教師となる。GHQ と日本政府の連絡係を務め、「天皇の人間宣言」の草稿執筆に関わっている。
- その後、外務省研修所、東京大学、日本大学、実践女子大学、早稲田大学、自由学園などで教鞭を執る。1964 年歿。
- Blyth と Kirkup
- Kirkup は年上の Blyth から多くのことを学んだ。
- 二人とも良心的兵役拒否者で、母親思いの一人っ子だった。
- 「天皇の人間宣言」
- 「天皇の人間宣言」の執筆に関わっていたのは、Harold G. Henderson、R.H. Blyth、山梨勝之進、幣原喜重郎らであった。
- 「天皇の人間宣言」の英文には Slough of Despond という『天路歴程』という寓話に出てくる地名が入れられている。
そのことによって、日本国民が苦難を乗り越える運命が暗示される。これを英文に盛り込んだのは、幣原かもしれないし Blyth かもしれない。
- 『禅と英文学』
- 内容は難解。一言でいえば、禅の諸相が西洋文学に見られることを解き明かした本なのだが、具体例が難しい。
- 「まえがき」より;いやしくもこの世で生きるかぎりにおいて、人は禅によって生きるのである。
- 戦後の日本人を批判
- 日本人の古来の礼法の奥ゆかしさを賞賛し、キスや握手は不衛生だと言った。
- 「戦後の日本人は dignity を失った」と慨嘆していた。
第12回 結―これからの日本と英語文学
- 復習
- Carlyle の "Sarter Resartus" は「永遠なる肯定」の哲学で新渡戸稲造に大きな影響を与えた。
- Charles Dickens は大文豪。日本では最初は西洋の風俗習慣を描いた小説として部分的に紹介された。
- Kipling は長らく帝国主義者として不当な評価を受けてきたが、実際は異文化融合の重要性を描いている。
- Russell や Maugham は受験英語でよく使われた。
- カズオ・イシグロは、日本人らしさとは何かという問いを突きつける。
- Lafcadio Hearn は日本を愛し、日本を美化した。
- Isabella Bird は冷徹に日本を見つめた。
- Kirkup や Blyth は日本で英語教育を行った。Kirkup も Blyth も日本にだんだん失望していった。
- 最近の日本における英文学の地位の低下
- 最近の日本では、英文学の地位が低下している。理由の一つは、英文学の枠組みが変化して、
「正典」を読めば済むというわけではなくなったことである。たとえば、V.S. Naipaul は英語で書くノーベル賞作家だが、
トリニダード出身でトリニダードのことを書いている。もう一つは、英語教育における文学教材の地位の低下である。
訳読偏重が批判されている。
- しかしながら、文学を用いない言語教育は無い。現代の学習者に勧めたい作家と作品を以下に挙げる。
①カズオ・イシグロの作品。読みやすく日本人が感情移入しやすい。
②David Lodge は学園コメディで有名。『小説の技巧』などの文学入門書もある。
③V.S. Naipaul の小説は隠喩を豊富に含んでいて難しい。随筆や旅行記が面白くておすすめ。
④Agatha Christie の推理小説。文学作品の引用も多い。英語もすっきりしていて読みやすい。
- 英語文学から学ぶこと
- 日本を描いた作家から謙虚に学ぼう。Hearn は日本を美しく描いた。が、日本を褒めすぎかもしれない。
Bird はもっと冷静。Kirkup や Blyth は日本が品格を失っていくことを嘆いた。
- 日本では今でも西洋に対する憧れとコンプレックスが蔓延している。
- 品格のある英語を味わうのは、ちょっとした教育では無理で、良質の英語文学を読まなければならない。