夏目漱石スペシャル

著者阿部 公彦
シリーズNHK 100分de名著 2019 年 3 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2019/03/01(発売:2019/02/25)
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読了2019/03/26

言わずと知れた夏目漱石特集。漱石は大作家として有名な一方、いろいろ欠点を指摘する人も多い。 しかし、こうしてまとめて紹介されて、これが日本の近代小説の揺籃期に書かれたもので、試行錯誤を繰り返していたのだということがわかると、納得できる。いろいろなやり方を試みては失敗もしていたのだ。 もともと漱石は多くの作品で女性をあまり生き生きと描いていないのだが、『明暗』に到ってようやく女性を生き生きと描ける(描く?)ようになったということも第4回の解説に書かれている。 漱石は理屈の人だったのが、情も描くようになったということと、近代小説の日本語がだんだんと成熟してきたということの現れということのようだ。 漱石は 37 歳で『吾輩は猫である』を書き始め、49 歳で亡くなったことを考えると、短期間でよくこれだけ多彩な作品群を生み出したなと思う。

紹介されている4つの小説は、それぞれ『三四郎』は「応援小説」、『夢十夜』は「不安小説」、 『道草』は「胃弱小説」、『明暗』は「対決小説」として紹介されている。 このうち『三四郎』と『夢十夜』は読んだことがある。 『三四郎』が応援小説という気持ちは良く分かる。三四郎は九州の田舎から出てきたわけだが、 私も北海道から出てきて不安と希望の混じる大学生活を送ったのである。 『三四郎』をイメージすると、今は無くなってしまった夜行の急行八甲田や上野駅を連想する。 八甲田には出稼ぎ列車の趣が残っていたし、上野駅に近づくにつれ小さな家がぎゅうぎゅうと立ち並んでいる様子が 東京にやってきたという感慨をもたらしていた。 『夢十夜』は数年前朝日新聞が漱石の作品の連載をしていたときに読んだのだが、そのときはよくわからない感じで 読書録も書かずにいたのだが、今回解説付きで改めて読み直し、もともと実験的な小説だったのだということがよくわかった。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 『三四郎』と歩行のゆくえ

夏目漱石
漱石は「お悩み引受人」。
成長物語としての『三四郎』
主人公の小川三四郎は23歳。九州から上京。
『三四郎』は、一種のビルドゥングス・ロマン(教養小説)ではあるが、三四郎がそれほど成長しないまま終わってしまう。
『三四郎』は、日本で初めての本格的な近代小説の試みであった。
名古屋の三四郎
列車で一緒だった女性と一緒に宿に泊まる。
夜何もなかったので、女に「あなたは余っ程度胸のない方ですね。」と言われる。
美禰子
里見美禰子はおしゃれな女性。
三四郎は美禰子と散歩しているとき、美禰子に「ストレイシープ」という言葉を教えられる。
美禰子は常に謎めいた女性。
『三四郎』は「応援小説」
三四郎はウブでぐずぐずしている受け身タイプ。その割に理屈をこねる。
三四郎は元祖童貞?読者は背中を押したくなる。
三四郎はあちこち歩きつつ「謎」と直面する。「謎」は「こころ」への入り口。
三四郎は恋愛にも至らない。美禰子という他者にも出会い損ねる。

第2回 『夢十夜』と不安な眼

ゴシックとしての『夢十夜』
『夢十夜』は小説の約束にとらわれずに書かれている。ゴシック的。
小説にはふつう「こころ」が描かれるものだが、ここでは描かれていない。
不可解なものが不可解なまま提示される。
第一夜
漱石は、言葉の冒険をしている。
女性が死んで植物として復活する。それは、神話的な思考だと解釈できる。
時間の流れが過剰に可視化されている。
第三夜
盲目の我が子を背負う男。その子は、百年前にお前が自分を殺したと言う。
19世紀から子供は聖なるものとされている。一方で、邪悪な子供という見方もある。その後者を強調する物語。
内面的な違和感をゴシック風に表現している。
ネガティヴ・ケイパビリティ=わからないものをわからないまま受け入れる力
第七夜
西へ西へと向かう船から身を投げる私。私は後悔する。
船は、西洋に向かっていく日本を表しているとも見られる。でも、それだけではいろいろ分からないところがあるのが面白い。
第八夜
因果関係のない物事の連鎖をそのまま受け止める。
反近代小説としての『夢十夜』
「すると」「やがて」などという接続詞で期待させておきながら何事も起こらずに終わる。
過去に起こったことではなく、現在起きていることという感覚が強い。
楽しみ方はいろいろ:①勝手に寓意を読み取る。②解釈が破綻するのを愉しむ。③象徴解釈の及ばなさ、詩のように果てしない闇を感じる。④因果や時間感覚が無効になることを愉しむ。

第3回 『道草』とお腹の具合

『道草』は「胃弱小説」
胃弱は、ずっと慢性的についてくる。過去の積み重ね。
『道草』は自伝的小説
漱石は、もともと当時のメインストリームの自然主義とは距離を置いていた。
『道草』は自らの体験に基づくという意味では自然主義的なのだが、暴露的ということではない。不快な現実やら気持ち悪さを描いている。
嫌な話を書くことは、作者にとっても救い。読者にとっても救いになりうる。
漱石の生い立ち
夏目金之助は1867年生まれ。
子供の頃、塩原家の養子となるが、9歳の頃、養父母の離婚をきっかけに夏目家に戻る。
21歳の時、夏目家に復籍。
熊本で中根鏡子と結婚。
神経衰弱になり、高浜虚子に勧められて『吾輩は猫である』を連載。一躍有名になる。
42歳で養父と絶縁。
『道草』と漱石の実人生
島田のモデルは、漱石の養父の塩原。
島田夫婦は、子供の頃は健三を可愛がってくれていた。一方で、島田夫婦は、健三に対して父母を確認させるような質問をいつもしていた。
健三と妻の間もギクシャクしている。健三は、奥さんに対して幼児的。漱石も健三も行動と心がずれている。
島田は、主人公の健三に何度も金を無心する。島田の元妻の御常(おつね)も健三に小遣いをもらいにやってくる。
健三は百円で養父と絶縁。しかし、これでは片付かないだろうと健三は言う。たぶん漱石独特の過度な罪悪感もその背景にあるのだろう。
漱石のあたまとおなか
漱石は胃弱。一方で、漱石は神経質だし、ちょっとしたことにも深い意味を読んでしまう「あたまの病気」の持主。あたまの問題に胃病が表現を与えることが、漱石にとっては救いになっていた。
『道草』の健三も、精神的な不快感を生理的な不快感として受け取っている。
『道草』には日常的な気持ちの悪さが描かれている。
こころの不安は未来的、胃の病は過去の集積。

第4回 『明暗』の「奥」にあるもの

『明暗』は「痔小説」
冒頭、主人公の津田は医師に痔を診察してもらっている。
津田は痔を患っている。手術をすることにする。
津田は、痔においても、恋愛においても、不快感を解決したいと思っている。が、なかなか解決しない。
『明暗』3つのポイント
①妻のお延は夫婦で芝居を見に行きたいのだが、津田の手術の予定と重なる。
②津田は資産家のふりをして結婚したものの、実は父親から援助を受けていた。 しかし、父親から援助を打ち切られ、いつもお金に困っている。
③津田は手術後温泉療養に行くのだが、実はかつての恋人の清子に会いに行くための旅。
『明暗』は「対決小説」
①お延vs津田:津田はお延と結婚して半年。でも手術の日と芝居の日が重なって、どちらを優先するかで小競り合いがある。 その後、津田の温泉行きをめぐってもお延は不安を募らせる。
②上司の妻吉川夫人vs津田:吉川夫人は、津田を支配したがる。津田に清子との再会をそそのかす。
③妹のお秀vs津田:妹との間もギクシャク。お秀は資産家に嫁いでいたので、お金を持ってくる。が、お金をすぐには出さない。
どの女性も多弁。そのために対決の構図が生まれる。売り言葉に買い言葉の中で、感じていることが浮き出てくるし、思わぬところから火がつく。
地の文の硬さについて
『明暗』の地の文は硬い。地の文が真相追及を引き受けている。
清子
清子は津田のかつての恋人。津田を振って別の男性と結婚している。
津田は清子に会いに温泉に行く。名目は、手術後の療養。
津田と清子の間の会話もギクシャクする。津田は男の理屈で話している。清子は変幻自在の感情で話している。
コミュニケーションは、情報の交換であるよりも、感情のすり合わせ。
『明暗』は未完
『明暗』は、津田が温泉に行って清子と会ったところで終わっている。
阿部「清子とお延の対決を見たい。」