夢十夜

著者夏目 漱石
シリーズ漱石全集 第十六巻 「小品 上」より
発行所岩波書店
刊行1956/12/22
初出朝日新聞連載 1908/07/25--08/05
入手F から借りた
読了2019/03/05

100 分 de 名著」で紹介されたのを期に読んでみた。 数年前朝日新聞が漱石の作品の連載をしていたときに初めて読んだ。そのときはよくわからなくて 読書録も書かずにいたのだが、今回改めて読み直してみた。 「100 分 de 名著」の解説では、これは一言でいえば実験的な小説なので、 理屈に合わないところを読者それぞれが好き勝手に楽しめばよいということのようである。

関連しそうなことをネット検索しながら読んでみると、第一夜から第六夜までは広い意味で宗教的な伝承を題材にして 想像を広げたものと読めば良いように思う。それで連想したのは三島由紀夫の「近代能楽集」である。 古典に題材を得ながら中身は換骨奪胎し現代風の幻想に作り変えるという意味では、同じ系統の作品である。 第七夜から第九夜は、漱石の実体験に基づく夢想と見るのが良さそうである。第十夜は由来が何だかよくわからない。

一夜ごとに読む

以下、リンクがあるところの()内はサイト名。

第一夜

[夢の内容] 美しい女が自分は死ぬといって死んでゆく。真珠貝で穴を掘って遺体を埋めると、埋めたところから白い百合が育って花開く。

ネット上で見つけた 読み解き (Tomotubby's Travel Blog) によると、白い百合は聖母マリアの処女性の象徴だとのこと。それから、 西洋絵画の解説 (神話伝説ふしぎ草紙) によると、真珠は聖母マリアの処女懐胎とイエスの象徴なのだそうな。ということであれば、死と再生の輪廻を西洋絵画風に描いた物語と読むことができる。

第二夜

[夢の内容] 自分は禅の修業をしている侍だが、なかなか悟れないし公案もわからない。和尚からも馬鹿にされる。

ここに出ている公案「趙州曰く無と」は有名なものらしく「趙州狗子」などといったキーワードでネット検索するとたくさん出てくる上、 「趙州狗子 (人間原理空間)」 のようなサイトにはかなり詳細な解説まで出ている。一言でいえば、「犬には仏性があるか」と偉い和尚に問うたら「無」と答えたというものである。 一切衆生悉有仏性のはずなのに変だねえという話である。

とはいえ、こういう公案を考える気にはなかなかなれない。「仏性」も「無」もあんまりちゃんと定義できない単語だし、 「無」は多義語でそれにひっかけて謎めいた答えをするというのも気に入らない。 漱石の『門』でも悟れないとか公案がわからないというテーマが出てきて、 これは漱石自身の参禅体験に基づいているらしい(新大乗)。 漱石もやっぱり禅は俺には合わないと思っていたのかもしれない。

第三夜

[夢の内容] 盲目の我が子をおぶっている。この子は態度がでかく、俺はお前に100年前に殺されたと言う。

『ゲゲゲの鬼太郎』にも出てくる妖怪「子泣き爺」 (Wikipedia伊豆高原「怪しい少年少女博物館」のブログ) を連想した。「子泣き爺」は背負うとだんだん重くなるのだが、この第三夜の子供も最後には「石地蔵の様に」重くなる。 朝日新聞再連載時の解説では、 『東海道四谷怪談』に赤ん坊が石地蔵になる話があることを指摘している。 というわけで、こういった妖怪伝承に百年前の殺人という幻想を付け加えて、「子泣き爺」が重くなる理由を前世の悪業に求めたということかもしれない。

第四夜

[夢の内容] 酒呑みの老人が、手ぬぐいが蛇になると言って川に入っていたが、上がってこなかった。

老人、酒、髯、瓢箪と来れば、寿老人もしくは福禄寿(両者はしばしば同一視されるらしい)である。 瓢箪は、どちらかといえば寿老人だとのこと(たとえば、「七福神の名前の覚え方と特徴」)。 寿老人は道教の神様である(たとえば、「寿老人(神仏ネット)」)。 老人が家を聞かれて「臍の奥だよ」と答えるのも臍下丹田を重視する道教(清明院)のイメージである。 結局、手ぬぐいは蛇にならないし、老人は川に入ったまま上がって来ないというのは、漱石の老子嫌いを反映しているという 深読み(研究生日常4.夏目漱石《梦十夜》)もある。

第五夜

[夢の内容] 敗軍の捕虜が敵将に殺される寸前、愛する女に会いたいと言う。女は裸馬に乗ってやってきたが、鶏の鳴き真似に驚き、淵に落ちた。

ここで鳥の鳴き真似をしたのは天探女である。これを漱石は「あまのじゃく」と読ませているが、『古事記』では あめのさぐめ (Wikipedia) と読むそうで ある。ただし、アメノサグメは、あまのじゃくの原型の一つらしいのであまのじゃくと読んでもそれほど問題というわけではない。 アメノサグメの物語には「雉名鳴女(きざしななきめ)(古事記(高天原の五島列島説)お勉強ブログ)」 というのもでてくるから、鶏の鳴き声が出てくるのも関係しているのだろう。 もっとも、鶏の鳴き真似という話は孟嘗君の逸話が有名だそうな: 夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

アメノサグメの話は、より大きな枠組みでは国譲り神話の中に出てくるので、敗軍の将は 「建御名方(たけみなかた)(Wikipedia) 」、 敵将は建御雷(たけみかづち)ということになるのかもしれない。

第六夜

[夢の内容] 運慶が明治時代の人々の前で仁王像を天衣無縫に彫っている。無造作に彫っているように見えるので自分も真似しようとしたが、もちろんうまくいかない。

運慶は今から見ても素晴らしいということを直接無粋に言うのではなく、時間が交錯する物語で軽妙に表現したものと見られる。

ネット上に、この話をミケランジェロの伝説と関係づける 興味深い論考(JTB の旅のエスプリ)があった。 ミケランジェロの伝説を運慶に当てはめたという見立てである。

第七夜

[夢の内容] 蒸気船で海の真中を進んでいて、心細くなったので身を投げる。でも後悔する。

ここからは一転して漱石の実体験を基にしているようである(たとえば、 相原和邦「「夢十夜」論の構想」)。漱石は、英国留学のためにプロイセン号に乗る。 船がインド洋に入ると、まわりはみんな海ばかりでひたすら太陽を追って西に進むだけになるので、心細くなったのだろう。 私も観測航海についていってまわりが海ばかりという風景を見たことがあるが、海ばかりというのも砂漠と似たようなもので荒涼としている。

なお、金牛宮はおうし座、七星はプレアデス星団とのことである (たとえば、「プレアデス星団(グレゴリウス講座)」)。

第八夜

[夢の内容] 床屋にいる自分の目に映る人々。

100 分 de 名著」で「離人症的」としているのが最も適切な表現であると思う。 床屋で鏡の中の人々を見たり、理髪師と会話をしたり、床屋を出て金魚売を見たりするのだが、どれもどこか現実にはまっている感じがしない。 漱石には解離性障碍の傾向があったという話(いつも空が見えるから)もあり、 これと符合する。

第九夜

[夢の内容] 帰らぬ夫を百度参りを続けて待つ妻。夫の侍はすでに浪士に殺されていることが最後に明かされる。

この夢は辻褄が合っている。他のはどこか辻褄の合わないところが描かれているのに、なぜかこれだけは理屈に合う。 合わないところがあるとすれば、夫が出てゆくところがあっさりしすぎているところである。

ここに出てくる八幡宮は実在する穴八幡@新宿区西早稲田 (電子文藝館)であるという考察がある。この考察でも、第九夜は夢にしては出来すぎているという感想が書かれている。 漱石は小さい頃里子に出されて親の愛情に飢えていた(PRESIDENT Online) ので、母親像を美化して描いたのがこの夢というのも一つの読み解きであろう。 穴八幡が、漱石が生れた場所に近い場所であるというのがその証拠である。

第十夜

[夢の内容] 庄太郎が水菓子屋(果物屋)で女にさらわれる。山で庄太郎は嫌いな豚に襲われる。何万頭とやってくるが、ステッキで触ると豚は谷底へ転がり落ちる。 そうして七日六晩豚を打ったが、最後に力尽きて豚に舐められる。

第十夜は解釈が難しい。ネットを見てもみんな好き勝手に解釈している。前半の水菓子屋の場面と後半の山の場面 の関係がよくわからない。もちろん夢十夜はすべてが不合理といえば不合理なのだが、それでも一つ一つの夢には それなりのまとまり感がある。ところが、これは二つの場面を取ってつけた感じがある。 そのせいか、国文学者の三好行雄に至っては、この第十夜を夢を十個にするための辻褄合わせだとしているらしい ( 土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの))。

ネット上では、女=豚という見解もある(たとえば、 国語を勉強しようhoncierge)。 そうすると前半と後半がつながるので、有力そうにも思える一方、他の小説での女性の描き方と合わない感じもする。

豚のイメージの元は、「ガダラの豚の奇跡」という絵だと言う考えもあるらしい(たとえば、 土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)随想 吉祥寺の森から)。 そう言われればそうかもしれないが、では前半の水菓子屋のシーンは何?という疑問もわく。

もっと素直に、漱石が本当に見た夢をあまり再構成しなかったのでこうなったという考え方もあっても良いと思う。 他のはそれなりの再構成がなされているのに、パナマ帽とか果物とか豚とかが出てくる夢を本当に見てしまったのかもしれない。