「100 分 de 名著」で取り上げられたのを機会に、ダイジェスト版である「ビギナーズ・クラシックス」を併せて読んだ。「ビギナーズ・クラシックス」では、本文の流れに沿って各段ごとの要約があり、要所では原文とその現代語訳が
書かれている。現代語訳も要約もわかりやすく平易で読みやすい。
著者は元高校教諭とのことで、わかりやすく訳するのに慣れているのだろう。それで、「ビギナーズ・クラシックス」は、話の流れを理解するのに役立つ。
『平家物語』の大筋は、子供の頃から知っていたわけだが、改めて大人向けの解説とストーリーを読むと、至る所に死の場面が散りばめられた平家鎮魂の物語であることがわかる。
敦盛や安徳天皇の最期の場面を原文で読んだのは、今回が初めてかもしれない(忘れているだけのような気もするが)。いずれも涙を誘う。
能のストーリーの多くは死者を弔うことだから、数多くの能の題材になっているのもむべなるかなである。そういうわけで、「100分de名著」の講師は、今回は能楽師であった。
今回ストーリーを読んで気になったのは、頼朝の冷酷さだ。平清盛は身内をみんな高官にしたのに対し、
源頼朝は猜疑心が強くて身内をほとんど殺してしまう。どっちもどっちで、それが元でどちらも一族が滅んだと言って良いのだと思う。
物語の中では、平家の人々は驕っていたかもしれないけど、個性的で人間的に描かれているのに対して、
源氏の人々は、無骨で粗野な武将たちと、冷たい頼朝だけみたいに見えるので、『平家物語』は成立するけど、
(光源氏ではない)『源氏物語』は成立しないかもしれない。もっとも物語には脚色がいろいろ入っているので、
実際がどうかはよくわからないけれど。
ところで、安徳天皇が亡くなるとき、念仏を唱えている。天皇家はずっと仏教徒だったということがここでもわかる。
明治以来のおかしな宗教政策はやめて、今の天皇家も仏教徒に戻ると、だいぶん日本仏教も能も生き返るだろうにと思う。
私自身は、たいした仏教徒でもないし、念仏のようなものは元々の仏教には無かったものだということも知っているわけだが、こうして『平家物語』における死を見てゆくと、念仏は、死が今より身近だった昔の人々が少しでも楽に死を迎えるための知恵だったのだという気がする。
「ビギナーズ・クラシックス」の付録情報にあるネットサイトの URL が古くなっているので(改版のたびにチェックすればよいのに、
そうしていないようだ)、検索で変更先 URL がわかったものを以下にメモとして残しておく。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリーと「ビギナーズ・クラシックス」からのメモ
第1回 光と闇の物語
能では、鎮魂の物語として、平家物語から題材が取られた作品が多い。
『平家物語』基本情報
- 12巻+灌頂巻より成る。
- 鎌倉時代に成立。
- 作者不詳。
- 史実を基にしたフィクション。
『平家物語』の進行と解説
物語の進行 | 解説 |
巻一 祇園精舎 |
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 |
- 平家物語は、平家一族の滅亡を語る。
- 桓武天皇の子孫で、下級貴族。やがて武士になる。
- 平清盛の父、平忠盛は、宋との貿易で莫大な利益を得る。
- 忠盛は、莫大な寄進をして昇殿を許されるようになる。
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巻一 殿上の闇討 |
忠盛は、貴族による闇討ち計画を巧みな準備と威嚇で避ける。
鳥羽上皇は、その心がけに感心した。 |
- 武士は闇の存在、貴族は光。
- 武士は、直感が鋭い。貴族は、過去を参照する。
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巻一 我が身の栄花 |
清盛の一族は政府の重要ポストの大半を占めた。 |
- 平清盛は以下のように当時の主要勢力である天皇家、寺社、貴族と良い関係を築き、太政大臣にまで上り詰める。
- 天皇家に寄進をするとともに婚姻関係を持つ。
- 寺社には寄進をする。
- 貴族とは婚姻関係を持つ。
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巻一 殿下の乗合 |
清盛の孫の資盛たちは、藤原基房らの一行に失礼をはたらいて、馬から引きずり下ろされる。
清盛は基房に対して怒るが、子の重盛(資盛の父)がたしなめる。
清盛は収まらず、部下に基房の従者たちを襲わせる(史実としては、そうさせたのは重盛かもしれない)。
重盛は、事件を反省して資盛を罰した。 |
- 平家の驕りによる悪行の始まり。
- 重盛は、儒教道徳の「忠」「孝」を体現するキャラクターとして描かれる。
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巻一 鹿の谷(ししのたに) |
鹿ケ谷で、平家を滅ぼす陰謀が画策される。謀議はその後露見。 |
鹿ケ谷は、現在も京都市左京区の地名にある。
山荘跡の場所は確定していないらしい。 |
巻二 教訓 |
鹿ケ谷の謀議には後白河法皇も加わっていたので、清盛は法皇を捕えようとしたが、
重盛は説得して止めさせる。曰く、清盛は出家の身なので、武装すれば「内には既に破戒無慚の罪を招くのみならず、
外にはまた仁義礼智信の法にも背き候ひなんず。」 |
「仁義礼智信」は儒教の徳目。江戸幕府も『平家物語』を重視した。 |
巻二 新大納言の死去 |
鹿ケ谷の謀議の首謀者だった藤原成親(なりちか)は結局殺害された。成親の子成経(なりつね)、平康頼、俊寛は
鬼界が島に流された。 |
Wikipedia によると鬼界が島は、薩摩硫黄島か喜界島のいずれか。原文には「硫黄が島」とも呼ばれると書いてあるが、
角川文庫(佐藤謙三校注)の注だと硫黄島とは別の島だとしてある。「100分de名著」では「硫黄島か」と書いてあり、
「ビギナーズ・クラシックス」では硫黄島としてある。 |
巻三 |
清盛の娘徳子懐妊のときの恩赦で藤原成経と平康頼は許される。俊寛は、島に取り残されて、やがて死ぬ。
徳子はのちの安徳天皇を出産する。重盛が病死。清盛は朝廷の要職を身内で固め、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する。 |
治承三年の政変。 |
巻四 厳島御幸 |
高倉天皇が安徳天皇に譲位。清盛はその外祖父となる。 |
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第2回 驕れる者久しからず
『平家物語』の進行と解説
物語の進行 | 解説 |
巻四 源氏揃へ |
源頼政が、以仁王に平家打倒の令旨を出すことを促し、以仁王がこれに乗る。 |
源頼政は老人で、どちらかといえば平家側の人間である。
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巻四 競(きおう) |
源頼政が、平家打倒をけしかけたのは、息子の仲綱が平宗盛に辱められたから。
頼政の郎党の渡辺競は、宗盛をだまして報復する。 |
源平合戦の発端はこのような些細なことだった。
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巻四 橋合戦 |
以仁王軍と平家軍が宇治橋で戦闘に突入する。橋の上での戦いでは平家軍が劣勢だったが、
足利忠綱という関東の若武者の指揮で渡河に成功。
以下、以仁王軍の「五智院の但馬」の活躍の描写。但馬が宇治橋の上で平家軍から矢をたくさん射かけられたときの対応:
但馬(たじま)少しも騒がず、上がる矢をばつい潜(くぐ)り、下がる矢をば跳(をど)り越え、
向かうて来るをば長刀(なぎなた)で切って落とす。敵(かたき)も御方(みかた)も見物す。
それよりしてこそ、矢切りの但馬とはいはれけれ。
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戦闘の場面では文のリズムがスピードアップする。声に出すのが大事。
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巻四 宮の御最期 |
勢いに乗った平家軍が勝利。源頼政は自害、頼政の一族は戦死。以仁王も戦死。 |
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巻五 都遷り(みやこうつり) |
清盛は福原遷都を行った。 |
遷都の目的は、寺社勢力から離れることと、日宋貿易で富を蓄えることであろう。
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巻五 大庭が早馬 |
源頼朝が伊豆で挙兵。しかし、石橋山の戦いで敗北。 |
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巻五 富士川 |
平維盛(これもり)を総大将とする平家軍が関東に向かう。富士川で合戦の前夜、水鳥の羽音に驚いて逃亡。 |
- 平家はすでに闇の力を失い、光の人(貴族)になってしまっていた。
- 大将の維盛は清盛の孫。23歳で、美男子だった。しかし、大将としては無能だった。
- 維盛は処罰されるどころか昇進。清盛は孫には甘かった。
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巻五 都還り |
清盛は都を福原から京都に戻す。 |
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巻五 奈良炎上 |
平重衡らが南都を焼き討ち。 |
清盛は、寺社勢力の力を削ぐために、奈良の仏教寺院を焼き討ちにする。
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巻六 新院崩御 |
高倉上皇が21歳の若さで死去。 |
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巻六 廻文(めぐらしぶみ) |
木曾義仲が挙兵を決意し、回覧文書を方々に送る。 |
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巻六 入道逝去 |
清盛が熱病で死去。以下、清盛の遺言の途中から絶命まで:
[1: ビギナーズクラシック版(元は角川文庫版)]
兵衛佐頼朝(ひやうゑのすけよりとも)が頭(かうべ)を見ざりつる事こそ、何よりもまた本意なけれ。
われいかにもなりなん後、仏事孝養をもすべからず。堂塔をも立つべからず。
急ぎ討つ手を下し、頼朝が頭を刎(は)ねて、我が墓の前に懸くべし。
それぞ今生後生(こんじやうごしやう)の孝養にてあらんずるぞ」と宣(のたま)ひけるこそ、いとど罪深うは聞こえし。
もしや助かると、板に水を置きて、臥(ふ)し転(まろ)び給へども、助かる心地もし給はず。
同じき四日の日、悶絶躄地(もんぜつびやくち)して、遂にあつち死(じ)にぞし給ひける。
[2: 100 分で名著版 (元は小学館古典文学全集版)]
前兵衛佐頼朝(さきのひやうゑのすけよりとも)が頸(くび)を見ざりつるこそやすからね。
われいかにもなりなん後は、堂塔をもたて孝養をもすべからず。
やがて打手(うつて)をつかはし、頼朝が首(かうべ)をはねて、我が墓のまへにかくべし。
それぞ孝養にてあらんずる」と宣(のたま)ひけるこそ罪ふかけれ。
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浄土教のマニュアルである源信の『往生要集』には「およそ悪業の人の命尽くる時は、風・火まづ去るが故に
動熱にして苦多し」とある。清盛の死は、まさに「動熱にして苦多し」であった。
法然の浄土教では、死に臨んで念仏を称えなければならない。しかし、清盛はそうしなかった。
『平家物語』が成立した当時の人々には、それこそが清盛の罪であると映っていたはずである。
現代人から見れば、清盛は、仏教的な価値観を超えた格好の良い悪役とも映る。
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第3回 衰亡の方程式
『平家物語』の進行と解説
物語の進行 | 解説 |
運命論 |
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日本人の運命論の源をたどると、中国の『文選(もんぜん)』に出てくる三命論に行き着く。
それによると、運命には「運」「命」「時」の三つの側面がある。「運」は大きな流れ、
「命」は天命、「時」は好機を捉える力である。
『文選』においては「運」は変えられないものだが、『平家物語』においては悪行や驕りが「運」を下げる。
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巻七 倶利伽羅落 |
木曾義仲軍と平家軍(大将は平維盛と通盛)が砺波山でぶつかる。兵力は木曾義仲軍のほうが少ない。
木曾義仲軍は暗くなるまで時間を稼いで、平家軍の周囲を囲む。木曾義仲軍は暗くなってから戦闘を始め、
鬨の声で自軍を大軍に見せかけ、道に不案内な平家軍を断崖絶壁に誘導する。平家の大軍は谷底に落下して敗北。 |
- 平家は闇の力を失い、源氏が闇の力を利用。
- 平家は「命」は持っていたものの、源氏が「時」をつかんだ。
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巻七 主上の都落ち |
平家の最高責任者の宗盛は、幼い安徳天皇を連れて西国に都落ち。 |
後白河法皇は鞍馬山から比叡山に逃れる。
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巻八 |
京都では義仲はやりたい放題で、振る舞いも装いも無骨だった。
義仲は、後白河法皇の不興を買うが、法住寺合戦のときに法皇を幽閉。
一方、源頼朝が後白河法皇によって征夷大将軍に任命される。
頼朝は、背は低いけれども、立ち居振る舞いは堂々としていた。 |
- 義仲は法皇の使者に無礼を働くのに対し、頼朝は法皇の使者を手厚くもてなす。
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巻九 前半(小朝拝~六箇度合戦) |
源頼朝軍が京都に攻め上り、義仲軍を討つ。義仲にはもはや味方が少なくなっていたので、
あっけなく敗れた。義仲を最後まで守ったのは、乳母子(めのとご、乳兄弟)の今井四郎兼平だった。
兼平は義仲を自害させようとしたが、うまくいかず義仲は敵兵に討ち取られてしまう。
それを聞いた兼平は、太刀をくわえて馬から逆さに飛び落ちて自害。 |
- 主君と乳母子の結びつきは極めて強かった。しかし、義仲とそれ以外の人々との関係は弱かった。
- 一方、頼朝は「御恩と奉公」システムで、大きな組織を統率した。
- 義仲はすぐに調子に乗って驕る馬鹿者である一方、最期まで運命を共にしてくれる仲間もいた。そこに共感する向きもあるだろう。
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源義経と梶原景時の確執~義経における衰亡の方程式~ |
- 屋島の戦いで梶原景時との確執が生まれる。
景時は、船を後退させる櫓(逆櫓)の装備をすることを提案したが、義経はそれは逃げ腰だとして取り合わない。
景時は、義経を猪武者と非難した。[巻十一 逆櫓(さかろ)]
- 壇の浦の戦いでは景時は先陣を志願するが、義経に馬鹿者と言われた。[巻十一 壇の浦合戦]
- 景時は、これらの遺恨により、頼朝に義経のことを讒言。義経が討たれる一因となった。[巻十二 土佐坊斬られ]
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義経は、平家を滅ぼした最大の功労者。
義経はスタンドプレーの人だった。一方、景時は仲間を守ることも考える。頼朝も景時寄りの考えだった。
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第4回 死者が語るもの
今回は、敗者の最期の場面を見てゆく。『平家物語』は、死を克明に描くことで、鎮魂を行っている。
『平家物語』の進行と解説
物語の進行 | 解説 |
巻九 坂落とし |
一の谷の戦いのクライマックス。義経軍三千騎が、鵯越から一の谷に向けて急坂を駆け下る。佐原十郎義連(よしつら)が先頭に立つ。
義経は平家の館に火を放ったので、黒煙が立ちこめる。慌てた平家軍は海へ逃走。 |
一の谷の合戦において、山の源氏、海の平家の対比がはっきり見られる。
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巻九 敦盛最期 |
源氏側の熊谷次郎直実が磯で敵の大将らしき人物を見つけ、戦いを挑む。海に馬を泳がせていた敵将は戻ってくる。
地上の戦いでは直実は圧勝。敵将の首を切ろうとするが、自分の息子くらいの年齢であることに驚いて、逃がそうとも思う。
しかし、味方の軍勢が近づいてきたので、やむなく首を切る。直実は、この若武者が腰に笛を差していることに気付く。
直実は、後に若武者が平敦盛だったと知り、やがて出家する。
熊谷、涙をはらはらと流いて、「あれ御覧候へ。いかにしても助け参らせんとは存じ候へども、御方の軍兵雲霞のごとくに満ち満ちて、
よも逃し参らせ候はじ。あはれ、同じうは直実が手にかけ奉つて、後の御孝養をもつかまつり候はん」と申しければ、
「ただ何様(なにさま)にも、とうとう首を取れ」とぞ宣ひける。
熊谷、あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ、心も消え果てて、前後不覚におぼえけれども、
さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。
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- 源氏の熊谷直実は、馬を海に泳がせることができなかった。平敦盛には、馬を海に泳がせる技術があった。
それでも敦盛が戻ってきたのは、命運が尽きたのを感じていたからかもしれない。
- 直実は、忠と恕の間で葛藤。忠は、一度決めたことをすること。恕は、相手と一体化すること。直実は、相手のお父さんに恕の心を持つ。孔子は、忠と恕の間で葛藤するときは、恕の方を取るべきだとしている。
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巻十 |
捕虜になった平重衡は鎌倉に送られる。毅然とした態度に皆が感服した。
屋島にいた平維盛は、屋島を抜け出し、高野山と熊野に詣でる。熊野沖で妻子のことを気にかけながらも入水。
享年二十七(満年齢だと 26)。 |
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巻十一 序盤(逆櫓~志度合戦) |
屋島の戦い。義経は少数の兵で奇襲。平家は、大軍が来たと思い込んで、海に逃れる。
義経軍が少数だと知るや、猛将平教経(のりつね)が反撃。夕刻に那須与一のエピソード。
四国の武士たちが義経に味方をしはじめたので、平家軍はまたも海に逃れる。 |
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巻十一 中盤(壇の浦合戦~内侍所の都入り) |
壇の浦の戦い。阿波重能(あわのしげよし)の裏切りによって源氏の勝利。知盛は重能の裏切りに気付いて討とうとしたが、兄の宗盛は認めなかった。
平家の敗勢が明らかになると、二位殿(清盛の妻で、安徳天皇の祖母)が八歳の安徳天皇を抱き、神璽と宝剣を持って入水。
安徳天皇は、伊勢神宮を拝み、念仏を称えて入水。
[1: ビギナーズクラシック版(元は角川文庫版)]
山鳩色の御衣(ぎょい)にびんづら結(ゆ)はせ給ひて、御涙におぼれ、小さう美しき御手を合はせ、まづ東に向かはせ給ひて、
伊勢大神宮・正八幡宮に、御暇(いとま)申させおはしまし、その後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、
二位殿、やがて抱(いだ)き参らせて、「波の底にも都の候ぞ」と慰め参らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ。
[2: 100 分で名著版 (元は小学館古典文学全集版)]
山鳩色の御衣(ぎょい)にびんづら結(ゆ)はせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、
伊勢大神宮に御暇(いとま)申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、
二位殿やがて抱(いだ)き奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」と慰め奉ッて、千尋の底へぞ入り給ふ。
平家の武将も次々に入水。教経は、義経を追いかけるも逃げられ、敵の安芸太郎・次郎の兄弟を両脇に抱えて海に飛び込む。
知盛は「見るべき程の事は見つ」と言って入水。宗盛と清宗の父子は、入水に失敗して生け捕りにされる。 |
- 裏切りを「かへり忠」と表現している。この時代には、主君の鞍替えをすることはそれほど悪いことだとはされていなかった。
- 宗盛は、戦いのリーダーに向いていなかった。安易に重能を信じてしまった。さらに、死に切れなかった。
- これに対して、教経や知盛は武士らしい最期を遂げる。
- 死を克明に語ることは、鎮魂。
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巻十一 終盤(内侍所の都入り~大臣殿誅罰) |
三種の神器のうち、神鏡と神璽は宮城に戻ったが、宝剣は海に沈んだままとなった。
宗盛・清宗父子は、鎌倉に送られ、宗盛は源頼朝と対面。父子は京都に送り返される途中で斬首。
義経は、梶原景時の讒言により、鎌倉に入れない。 |
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巻十二 |
七月、大地震が起こる。九月、頼朝は、土佐坊に義経を暗殺させようとするが、義経に逆襲され失敗。それを知り、頼朝は北条時政を司令官とする追討軍を出す。義経は都落ちをする。平維盛の子の六代は出家するが、三十余歳になったときに危険人物として斬られる。ここに清盛の子孫は途絶えた。 |
ここに書かれている 1185 年の地震は『方丈記』にも
記されているもので、どういう地震だったかははっきりしていない。
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灌頂巻 |
建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)は、源氏に助けられ、出家して大原の寂光院にいる。そこに後白河法皇が訪ねる(大原御幸)。
建礼門院は、六道を経験したと語る。建礼門院は、その後も平家一門を弔う日々をすごし、やがて死を迎える。建礼門院は、五色の糸を持って念仏を唱えて亡くなる。
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- 後白河院は、黒幕としていろいろやったが、結局権力は武士のものとなった。
- 大原御幸の風景描写は建礼門院と法皇の心情を暗示する。
- とふ=問ふ、訪ふ、弔ふ。これらのことを後鳥羽院はやっている。
- 寂光院の鐘の音が、冒頭の祇園精舎の鐘と響き合う。
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平家琵琶 |
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琵琶は、霊を招く楽器。
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