教養の書

著者戸田山和久
発行所筑摩書房
刊行2020/02/20(初版第1刷)
入手著者から頂戴した
読了2020/06/20

いつもながらの戸田山調で読みやすい本である。映画を例として多用するなど、楽しく読める工夫がいろいろしてある。 書いてあることは、ほぼ全部頷けるので心地よく読める。大学の「教養」とは何かを考える上で参考になる。 私も大学1年生向け授業をほぼ毎年担当しているが、その授業のたびに教養とは何かを考えることになる。 そういう意味で関心の高い問題だったので、頂戴してすぐに読み始めてみたものの、コロナ禍で途中ドタバタしたために、 途中で長い中断があり、読み終わるのに存外時間がかかってしまった。でも、最後の10章くらいは一気読みしている。

本書の特色は、第2部の内容が、ベーコンのイドラを解説して、イドラから逃れるためにどうすればよいのか ということを軸にしているところである。ということは、偏見や先入観から逃れてバランスの取れた見方を 身に付けることを教養として重要視しているということである。一方で、具体的にどのような科目が現代の教養か、 みたいなことはほとんど書かれていない。むしろ、将来何が役に立つかわからないから、何でも関心の赴くまま 学ぶことが推奨されている。おそらくこれは、どうせ知の世界は広大で一人で全部はカバーできないので、 一人の人が最低これだけは、という感じで欲張ったりはしないということが根底にあるのだと思う。 現代の教養を考えるうえで難しいのは、現代の世界(というか宇宙というか森羅万象というか)を理解しようとおもったら、 学ぶべきことが多すぎるということが一つにはある。

物理学者でかつて哲学者の伊勢田哲治氏に文句を言っていた須藤靖氏好意的な書評を朝日新聞に書いていた。

各章ごとの感想やらサマリーやら

以下、各章で印象に残った部分を引用してその感想を述べたり、サマリーを書いてみたりする。

序 私はいかにして心配するのをやめ、教養について書くことになったか

大学の4年間の教育は、「専門家育成をチョットだけ」ではないそれ自体完結した目的を持つべきだ。 そうでないと学生が気の毒じゃないだろうか。その目的こそ「教養の涵養」ではないかと思う。

そういえば、Ortega y Gasset もそのようなことを書いていたような気がする。 大学の専門教育は研究者養成を大きな目的として行われるのだが、一方で研究者になる人はごく一部であって、大多数の人は研究者にならずに 社会を支えてゆく。これは、大学で学ぶことは役に立たないという議論がしばしば発せられる一因となっている。 大学4年間の教育全体を教養と考える視点を持たなければいけないことに改めて気付かされた一節である。

第1章 キミが大学で学ぶことの人類にとっての意味

キミが大学に行くことの人類にとっての意味は、キミにこうした知的遺産の継承の担い手(リレー走者)になってもらうことだ。 このような人々がいないと、人類の幸福な生存は難しくなる。たくさんは無理かもしれないが、一定の人数はぜったいに必要だ。

私も、ときどき1年生にわざと刺戟的に「エリート教育」の必要性という言い方をすることがある。 一定レベルの知識人が一定数いなければ、世の中は成り立たない。「エリート」などと言うと鼻持ちならないと思われがちだが、 これは身分の問題ではなく、社会の中の役割分担の問題である。

第2章 たかが知識、されど知識

人生からより多くの楽しみを引き出すためには、それなりの知識が必要なのである。

古典をある程度知らないと、映画なども楽しめないよということが書いてある章。 とはいえ、いわゆる「古典」は数が多いし、科学的な「教養」などは日に日に増えていくのでなかなか難しいところではある。 最近は「NHK 100 分 de 名著」でだいぶん補っているのではあるが。

第3章 知識のイヤミったらしさとどうつきあうかについて、そして「豊かな知識」に何の意味があるのかについて

無知を嘲笑い、無理解を憎み、悪趣味をバカにするといった「悪徳」を避けようとするあまりに、自ら知の世界から 遠ざかろうとしないでほしい。これが私がキミたちにお願いしたいことなんだ。過度の倫理的潔癖さは反知性主義の餌食になりやすい。

反知性主義は、平等という仮面を被って現れる。たとえば、中国の文化大革命が典型的にそうであったし、 現代においてもエリートを敵視する風潮はいつでもある。しかし、それは社会全体にとっても危険な考え方だ。

第4章 教養イコール「知識プラスアルファ」のアルファって何じゃ、と考えてみる

教養が単なる知識ではない点を3つ挙げてある。

第5章 「読書の意義は何だろう」ということを教養の観点から考え直してみる

映画『華氏451』を題材にして、読書の意義を2つ挙げてある。

第6章 われわれは何に向かってわれわれを教養するのか

サマリー:「教養する」とは自らを教育することで、社会の担い手となる人物になること。

第7章 教養とは何かの定義を完成させるぜ!

著者による教養の定義をそのまま引用しておく。

われわれにとっての教養とは、「社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、 未来へ向けて社会を改善し存続させようとする存在」であるために必要な素養・能力(市民的器量)であり、また、 己に「規矩」を課すことによってそうした素養・能力を持つ人格へと自己形成するための過程を意味する。
ここでの素養・能力には、以下のものが含まれる。①大きな座標系に位置づけられ、互いに関連付けられた豊かな知識。 さりとて既存の知識を絶対しはしない健全な懐疑。②より大きな価値基準に照らして自己を相対化し、必要があれば 自分の意見を変えることを厭わない闊達さ。公共圏と市生活圏のバランスをとる柔軟性。③答えの見つからない状態に対する耐性。 見通しのきかない中でも、少しでもよい方向に社会を変化させることができると信じ、その方向に向かって①②を用いて努力し続ける したたかな楽天性とコミットメント。

よく考えられた定義だと思う。結局のところ、人々の役に立つ人材になるということだが、そのためには知識も必要だし、 柔軟性も必要だし、行動する力も必要だ、ということだ。

第8章 教養への道は果てしなく遠い。だのになぜ歯をくいしばりキミは行くのか

サマリー:教養への方向性とは、プラトンの「洞窟の比喩」の通り、苦しくても勇気をもって真実を目指すというということだ。

第9章 教養への道は穴ぼこだらけ

サマリー:教養への道を妨げるものとして以下のものが挙げられる:

第10章 科学が発展したら、人間はかなりアホだということがわかってしまったという皮肉

題名の通り、人間のアホさ加減を扱った章。アホと言ってもいろんな意味がありうるのだが、 ここで書かれているは認知心理学が扱うような認知バイアスである。

クイズを交えて楽しく読めるように書かれているのだが、最初に挙げられている2つのクイズには私も引っかかった。 第2問の方は、最近話題の新型コロナウイルスの検査数をなぜ抑えてあるのかという問題の1つの答えと本質的には同じ問題なのだが、 そういう問題であることに気づかなかった。いずれにせよ、論理と確率は人間にとっては難しい問題である。

認知バイアスに関連する問題として紹介されているのは、heuristics と schema である。heuristics に基づくバイアスは、 思いつきやすいことが起こりやすいと思ってしまうこと。schema に基づくバイアスは、図式化された偏見(ステレオタイプなど)が 頭に浮かびやすいということである。

第11章 ベーコンの後継者は誰か。彼らからわれわれが学ぶべきことは何か

サマリー:人間はアホなので、人工物で補完する。ベーコンもそのように宣っている。計算機もその一つで、 コンピュータや情報技術の発展をになった人の中にもそのような思想の人々がいた。 ビブリオバトルも、知性増強のための社会的な場としてデザインされたものだ。

第12章 どうやって、居心地の良い洞窟から抜け出すか

サマリー:イドラの洞窟でわかった気になっているとそこに安住してしまう。でもそれは独善だ。 それを抜ける方法としては、(1) 視点を変えてみること (2) 他者と出会うこと (3) 歴史をさかのぼることがある。

第13章 批判的思考(クリティカル・シンキング)って流行ってるよね。でも、何のためにそれが必要なんだろう

サマリー:批判的思考とは、反省的でメタレベルの思考である。それをするには豊かな言語を使いこなさなければならない。 言語を貧弱にすると思考のレベルが下がるというのが、オーウェル『1984年』のニュースピークである。

第14章 最後のイドラは「学問」だって。だったらどうすりゃいい?

サマリー

結局のところ、教養への道を歩み続けよう。

第15章 大学に入っても、大人になっても語彙を増やすべし

常に語彙を増やす努力をすべし。

第16章 歴史的センスの磨き方

歴史の学び方:グローバル・ヒストリー、専門分野の歴史から始める、自家製年表を作る

第17章 種族のイドラと洞窟のイドラに抵抗するための具体策

認知のバイアスを避けるために気を付けること:錯誤相関、相関と因果の関係、確証バイアス

第18章 市場のイドラを再考する―インターネットとの部分的つきあい方

ウィキペディアは多言語でクロスチェック、アマゾンのレビューは玉石混淆であることに注意

第19章 劇場のイドラに抗うための「リサーチ・リテラシー」

統計データを見るときには様々の注意が必要である:グラフのトリミング、概念の定義、調査の選択肢の作り方

第20章 論理的思考は大切だと言うけれど、論理的思考って何かを誰も教えてくれない…

サマリー:論理学が教えてくれることは演繹的推論の科学であって、日常的な論理的思考ではない。 論理的なコミュニケーションとは、証拠で主張をサポートすることにより議論することである。 でも、それを統一的に扱った学問は、まだない。

第21章 ライティングの秘訣

サマリー:たいていの文章には、それを読む相手がいて特定の目的を果たそうとするものである。 目的を果たす文章を書く方法を習得する第一歩は、プレーンで読みやすい文章が書けるようになることである。

第22章 ツッコミの作法

サマリー:学問の世界では、論文を書いて、それにツッコミを入れることで質を高めるという作法がある。 ツッコミの入れ方は以下のように分類される。

第23章 大学は天国じゃないんだ。かといって地獄でもない

サマリー:今の大学の在り方は当たり前というわけでもない。昔の中世型大学は、学びたい人が集まって講師を雇うものだった。 これに対して日本の大学は富国強兵策として始まった。著者によれば、大学は出会いの場と考えた方が良い。 他の大学の授業に潜り込むのもオススメ。在野の研究者というのもいてもよい。大学で学ぶ必要はないと思いつつも、 大学を最大限に利用するのが良い。

第24章 無駄な勉強をしたくないひと、何かの手段として学ぶひとはうまく学べない

つい最近、これを読む前に、〇〇の勉強は要らないのではないかという学生に勉強は無駄にするものだというお説教をした。 良い実験屋は無駄にハンダ付けをしているはずだし、良いプログラマーは無駄なプログラミングをたくさんしているはずだ。 本書もその話で終わっているのは、やはり大学生と接していると誰でもそういうことを言いたくなるということのようだ。

いろいろ