死との約束

著者Agatha Christie
訳者高橋 豊
シリーズクリスティー文庫
発行所早川書房
電子書籍
電子書籍刊行2012/04/10
電子書籍底本刊行2004/05
原題Appointment with Death
原出版社Collins Crime Club
原著刊行1938
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2021/08/01

本書は、ミステリー評論家霜月蒼氏によれば、クリスティーの全作品の中でも ベスト10に入る傑作である。仕掛けはシンプルだが、ボイントン夫人の造形、犯人の意外さなど、クリスティーらしい作品とのことである。

本書は3月にも読んだが、 最近テレビ (NHK BS プレミアム) で David Suchet 版(脚本は Guy Andrews)を見たので、再読してみた。 本書のポイントは、(1) 前半の第一部は、ジェラール博士とサラ・キングの対話を通じた登場人物の心理分析 (2) 後半の第二部は、ほとんどの人が嘘を含んだ証言をしている中でポワロが真相を見抜く過程、にあると 思うのだが、Suchet 版は驚くことにこの両方を捨てていた。 おそらく1時間半のテレビドラマではそういう細かい心理劇はできないと見たのだろう。 3月の三谷版はそこまで原作を変えていなかったのだが、2時間半あったのでもう少し余裕があった。 Suchet 版では、中東という背景とおおまかな人間関係は原作と一緒であるものの、筋書きをかなり変えてあり、 ほぼ別の作品と言ってよいものになっていた。Suchet 版では、 原作では比較的単純だった犯人に関わる人間関係と殺害方法を複雑化することで、最後に複雑な真相と複雑な過去が暴かれて 視聴者を驚かすということに重点が置かれるものになっていた。

Suchet 版のことは、ネタバレ付きで後で書くことにして、まずは原作の引用に関する覚書から。

クリスティは、古典からの引用による味付けも特徴の一つである。この高橋訳はその点全く不親切なので、気付いたときに 書き留めておきたい。3月に読んだときに 気付かなかった引用をいくつか加えておく。

第一部第十章:テニスンの『軽騎兵隊の突撃 (The Charge of the Light Brigade) 』より
Into the valley of Death / Rode the six hundred
これはクリミア戦争の バラクラヴァの戦いにおける軽騎兵旅団の突撃の場面を称えた愛国的な詩の一節である。 『新体詩抄』では『テニスン氏軽騎隊進撃ノ詩』として取り上げられ、上の一節は「死地に乗り入る六百騎」と訳されている。 『死との約束』では、サラがペトラに行く道中で馬に乗りながら、Down into the valley of death という言葉を思い浮かべる。 悲劇の予感である。高橋訳は「死の谷へと降りて行くのだ」。
第二部第四章:シェイクスピアの『ハムレット』より
Something is rotten in the state of Denmark (1幕4場)
マーセラスとホレイショ―が亡霊について行ったハムレットを追いかける場面で、マーセラスが言った言葉である。 これは、「何かが腐っている、デンマークでは」(河合祥一郎訳)、「この国のどこかが腐りかけているのだ」(福田恆存訳) などと訳され、マーセラスはおかしなことが起こっていると直感している。 『死との約束』では、サラが He (Dr. Gerard) seems to think - と言ったのに引き続いて、ポワロが That there is something rotten in the state of Denmark と引用する。 マーセラスと重ねて、ジェラール博士も犯罪の匂いを感じ取っているとポワロが言っているわけである。 高橋訳ではなぜか「デンマークの国に鼻もちならぬことがござる」と訳していて、意味がわからなくなっている。

翻訳の間違いというほどでもないけれど意味が取りにくくなっている箇所を一つみつけた。

第二部第十四章:ミス・ピアスの証言より
見かけたお嬢さんの髪の色が bronze だったと語っている場所がある。高橋訳では「青銅色」と書いて「ブロンズ」と ルビが振ってある。私は、髪の色が「青銅色」ってどういうこと?と思ったのだが、ネット検索してみてわかった。 青銅色は、青銅に付く錆の色なので青緑色なのだが、bronze は錆びていない青銅の色で、磨いた十円玉のようなの色であった。

Suchet 版の特徴と筋書き

Suchet 版は、原作に比べて心理描写を大幅に削るとともに、人間関係と犯罪自体を複雑化している。