ドグラ・マグラ

著者夢野 久作
電子書籍青空文庫
電子書籍刊行2007/11/29
初出1935/01/15 松柏館書店
電子書籍底本刊行ちくま文庫「夢野久作全集 9」1992/04/22(初版)、2002/09/05(第4刷)
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読了2022/09/04
参考 web pages青空文庫

奇書ということで有名な怪奇小説である。夢野は、若いころ、ポーの怪奇小説に衝撃を受けたらしい。 実際、似た読書感がある。どちらも、前半部は読むのに多少の忍耐が必要だが、後半部はそれを受けての 不思議な展開にぐいぐい引き付けられる。

内容はゴテゴテと盛りだくさんである。前半部には、精神作用のようなものに関して、手を変え品を変え長々と書いてある。 おそらく、夢野は人間の精神作用に限りない興味があって、知識と空想を混ぜて考えたことの 数々を書き連ねたくなったのではないだろうか。この部分は精神作用に関する一種のSFとも言える。 後半部は、唐の時代から始まる呉家の陰惨な因縁が書かれており、これが物語の本筋である。 「犯人」に関するどんでん返しも仕掛けられており、一種のミステリになっている。

SFとミステリを混ぜるのは普通は難しい。ミステリは現実的でなければならず、一方SFでは 起こりそうにないことが描かれるからだ。本小説の場合は、「心理遺伝」というSF的空想を軸に それをいわば「トリック」にして一種のミステリを構成するけれども、それで解決してしまうと ミステリとしては反則になるので、ミステリ的な部分は読み進めさせるための駆動力と割り切り、 物語の最後は最初に戻るというループ構造にすることによって、解決のない怪奇小説にしてしまっている。 夢か幻覚かわからないものが渦巻くうちに時間が進んだり後戻りしたりして、 大正十五年十月二十日と十一月二十日の間を往復する。

日本美術を縄文派と弥生派に分けるというような趣向があるが、それで言えば、『ドグラ・マグラ』は縄文派の 極致のようなものである。芸術のための芸術のようなもので、装飾のゴテゴテぶりが凄まじい。 とくに、使われている文体が多彩なことが目を引く。比較的くだけた感じの文体が多いのだが、それだけではない。 会話文に福岡弁が混じったりしている一方で、「如月寺縁起」は和漢混交調の絢爛たる文体である。 これを外国語に翻訳しようとすると大変なことになるだろう。もっとも、翻訳困難と言われるジョイスの『ユリシーズ』も 各国語に翻訳されているわけだから、工夫次第で翻訳できるであろう。でも、amazon や wikipedia によると、まともな 英訳はないようだ(amazon に機械翻訳らしきひどい訳があるようだが)。フランス語訳は出ているようだ。

芸術至上主義的な一面と同時に注目したいのは、正木教授の研究至上主義とそれゆえの破滅が描かれている点だ。 それゆえ、部分的には精神科の研究倫理を描いた小説と読むこともできる。正木は、一方で、精神病患者の 非人間的扱いを批判しつつも、自らの研究においては、研究のために千世子と一郎を裏切った非道な男で、 それゆえに自殺で終わらざるを得なくなる。

舞台が九州帝国大学精神病科なので、福岡の見知った地名がところどころで出てくる。

あらすじ

以下、感想を加えつつあらすじを書いてみる。書いてあるページ番号は、たまたま今読んでいる 青空文庫リーダー「i文庫HD」のとある設定で見たときのページ数である(全 1048 ページ)。

物語は、精神病院の独房(九大精神病科の七号室)から始まる。主人公の男(青年)が目覚めてみると、自分が誰なのか、 ここがどこなのかわからない。そこの若林鏡太郎(専門は法医学)医学部長が現れ、男に過去の記憶を思い出させようとする。 隣の独房のモヨコという美少女は、男の従妹で許嫁だと若林は言うのだが、男は全く思い出さない。 亡き正木敬之教授の部屋にも案内してもらう。部屋には奇怪な品々が置いてある。 正木教授は、当時の精神医学界を鋭く批判し、改革をしようとしていた。彼が行った実験と男は関係があるらしい。

男は、正木教授が遺したという6つのかなり長い書類 (pp.204--695) を読まされる。 前半は、人間の精神に関する考察で、これらは一つ一つ夢野の問題意識であるに違いない。

人間の精神の話とともに、とくに後半では、主人公の男のこれまでが徐々に明らかにされる。

男がこれらを読み終わってみると、若林教授はおらず、目の前に死んだはずの正木教授がいた。自殺したというのは嘘だったのだ。 今日が大正十五年十月二十日だとわかる。正木によれば、若林は策略を弄しているのだという。若林は、男が 自分が呉一郎だと認めるのを待っているのだという。正木が南側の窓から男に解放治療場を見せると、そこには 十人の狂人たちがいて、そのなかに呉一郎らしき人物がいた。その人物が振り返ると、それは正に自分の顔だった。 男は気絶しそうになるが、正木に抱き止められる。正木の説明によれば、男は離魂病で、夢を見ているのだった。 現実には、解放治療場には誰もいない。男には、過去の記憶が現在の意識の上に重ねられているのだという。

男は額に痛みを感じる。すると、正木は、また説明をひっくり返し、呉一郎と男は瓜二つなのだと言う。 呉一郎が昨夜壁に頭を打ち付けて自殺を図ったのが、今男に感じられているのだという。

正木は、男に絵巻物の由来を語る。唐の玄宗皇帝の時代の末期、呉青秀という青年画家がいた。 黛という美しい女を娶った。玄宗は楊貴妃に夢中になって、天下が乱れたので、青秀は、絵の力で玄宗を諫めようと考えた。 青秀は黛を絞殺して、死体が腐乱する様子を絵に描こうとした。ところが、思ったよりも腐敗が速く進んだので、 絵が完成する前に死体が白骨化してしまった。青秀は、他の死体を探したが、うまくいかない。放浪ののち、家に戻ってみると、 黛の双子の妹の芬がいた。世の中では、安禄山の乱が起こり、玄宗への諫言どころではなくなったので、青秀と芬の二人は 方々を放浪した。青秀は途中で命を落としたが、芬は男の子を生み、呉忠雄と名付けた。芬と忠雄は、唐津にたどり着き、 子孫に絵巻物を伝えた。

正木は、次に男に絵巻物を見せる。虹汀が焼いたふりをして焼かずに残しておいたものだと推測される。 表装には細かい刺繍が施されており、千世子はこれを手本にしていたに相違なかった。男が絵を見ると、描かれている女は 六号室のモヨ子にそっくりだった。その死体が徐々に腐乱していく様子が描かれていた。呉一郎は姪浜の石切り場で これを見て、心理的に呉青秀が乗り移ってしまったのだと考えられる。それが心理遺伝というものだ。 正木の推測では、呉青秀は忠勇義烈の顔の裏に名誉慾、芸術慾、変態性慾を隠していた。一方、モヨ子も一郎に 絵巻物を見せられて、黛芬姉妹からの心理遺伝が作動して、土蔵で仮死状態になった。

正木は、呉一郎に心理的暗示を与えて、徐々に快方に向かわせているのだという。正木は、男に再び離魂病という ヒントを与える。そして、男か呉一郎かが、呉一郎に姪浜の石切り場で絵巻物を見せた人物を思い出すまで待つのだと言った。 正木自身はともかく、若林は法医学者としてその人物を明らかにしなければならないのだという。

しばらくのやり取りの後、正木は「犯人は俺だよ」と言った。千世子殺しは、呉一郎の夢中遊行ではなく、自分が 麻酔を使って行ったこと。呉一郎に絵巻物を見せたのも自分。それらは、心理遺伝の実験のためだった。 すべては正木と若林が若いころから計画して行った企みだった。正木と若林は、学生の頃から精神科学に深い関心があった。 二人は呉家の伝説を調べた。絵巻物を持っているのは千世子に違いなかった。そこで、二人は千世子に近づいた。 最初、若林が千世子と同棲するようになった。しかし、若林が肺病を隠していたことがわかると、千世子は正木と同棲するようになった。 正木と同棲していた時、千世子は妊娠し、一郎を産んだ。明治四十年十一月二十二日のことだった。父親が誰かは明確ではない。 千世子は正木に絵巻物は本尊の中に戻したと告白した。そこで、正木はその絵巻物を寺に行って盗んだ。 正木は千世子を捨てて海外に逃亡した。

正木は男に、過去の記憶をとりもどして、自分と若林の研究の結果を発表してほしいと言う。 正木は、男にモヨ子と結婚生活を送ることを薦める。そうすれば過去の記憶を取り戻すだろうと言う。 しかし、男は怒りの感情に襲われ、それを拒否し、まず正木と若林に犠牲者に謝罪してほしいと言った。 すると、正木は尋常ではない様子で、ふらふらと部屋を出て行った。

訳が分からなくなった男は、再び絵巻物を手に取る。絵巻物の長い白紙の部分もずっと見ていって、最後まで 行った時、千世子の歌が書いてあり、そこに正木一郎母と書いてあった。つまり一郎の父親は正木だったのだ。 男は、部屋を飛び出し、大学を飛び出し、訳も分からず狂ったように歩き回る。どこをどう歩いたかわからないが、 気付いてみると、教授室に戻っていた。服は汗と埃まみれでボロボロになっていた。 机の上の書類はきちんと並べられていて、しばらく誰も触っていないようだった。 書類の下に新聞の号外があった。それは大正十五年十月二十日のもので、正木の自殺と解放治療場内の惨殺事件が 報じられていた。解放治療場内では、呉一郎が鍬をふるって数人の狂人と監視人を死傷させていた。 その後、呉一郎は、壁に頭を打ち付けて自殺を図る。 正木は、実験が成功したと言って教授室で書類を整理し、海岸で自殺した。 さらに、呉八代子が、自宅に放火して焼身自殺をした。

男は訳が分からなくなった。朦朧とする中、七号室に入った。寝ると、幻覚か夢か分からぬものが渦巻いた。