財産を持った老婦人が死んだ。その莫大な遺産は付添婦に遺された。それにポアロが関わってきて、 老婦人が殺害された可能性が強まってくる。
クリスティらしい巧みに心理を利用した筋の運びで良い作品だと思った。クリスティのちょうど絶頂期の作品でもある。 特異な点がいろいろある。最後まで物証と言えるものがほぼゼロ。依頼人が被害者ですでに死んでいる。 そんな中、殺人からしばらく経っているにもかかわらず、ポワロは関係者の心理の綾だけを利用して事件を解いていく。 事件を解くカギは、犯人の微妙な態度の変化にあるのだが、それは読者には気付かれにくいようになっている。 それで、最後まで警察が全く出てこないのに、良い塩梅に勧善懲悪が行われて最後は円満解決になる。 そのあたりの手際の良さを小説の最後のほうでミス・ピーボディが言葉にしている(作者による自讃か?)。
"You're a downy fellow, ain't you?" said Miss Peabody, stopping us as we emerged from the gate of Littlegreen House one day. "Managed to hush everything up! No exhumation. Everything done decently."
[加島訳] ある日、わたしたちが小緑荘の門を出てきたとき、ミス・ピーボディがわれわれを引きとめた。 「あんた、なかなか抜け目のない男だね!何もかもこそこそと片付けてしまってさ!死体再発掘はないし、 醜聞ひとつ立たないじゃないかね。お上品なもんだよ!」
ポアロが真相を明かすまで、読者からは犯人がうまく隠されている。 得をした人が犯人だという観点からすると、ミス・ロウスンが犯人のはずである。しかも、彼女は、他の人の証言と 合わないことをいくつか言っている。でも、他の重要登場人物もみんなチョイワルっぽいし、 何種類も毒や薬が出てきて読者は撹乱される。最後まで関係者のすべてがどことなく怪しいという状況が続き、 一気に解決するので爽快である。 霜月蒼の評価も高い。
全体は 30 章構成で、最初の 4 章が事件が起こるまでの話。 そこからの 24 章くらいまでが Poirot と Hastings が関係者に話を聞いて回る段階である。 25 章あたりから Poirot が解決に向けて動き出し、29 章で Poirot によって意外な真相が明らかにされる。
タイトルの「もの言えぬ証人」とは Wirehaired Terrier (a.k.a Wire Fox Terrier) の Bob 君のことであろう。 この小説では Hastings (というか作者)が、Bob 君の心の声を推測して書いているのが楽しい。 エンディングでは、Hastings と Bob 君が意気投合する。
"Now Bob and I understand each other perfectly, don't we?"
"Woof," said Bob in energetic assent.
[加島訳] 「ところがぼくとボブはね、おたがいに完全に理解し合っているんだ。そうだろう?え、ボブ」
「ワン」ボブは力をこめて賛意を表した。
Suchet 版や Les Petit Meurtres 版のテレビドラマとの概要も後述のようにメモした。 どちらも原作の大枠だけ借りて、かなり筋を変えたものになっている。 原作通りだと、基本的にポアロとヘイスティングスが関係者の話を聞いて回るだけになるので、 単調すぎるからそれはできなかったのだろう。 いずれのドラマ版も原作より霊の話を強調して、ちょっと怖かったりユーモラスだったりする場面として 使っているのが面白い。どちらのドラマ版でも、Emily (Emilie) 以外に原作では死なない人が一人殺されている という共通点もある。
時系列
以下、起こったことの時系列がわからなくならないようにまとめてゆく。 なお、このことからイースターの日曜日が 4/12 であったことがわかる。 すると、 事件が起こった年として最もありそうなのは、1936 年ということになる。 その前の 1925 年 はヘイスティングスが口ずさんだ "Little Man, You've Had a Busy Day" が発表された 1934 年より前ということになるので、それはありえないだろう。 それより前の 1914 年は、 『スタイルズ荘の怪事件』(おそらく 1917 年の事件)の前になるので、さらにありえない。
なお、以下のページ番号は kindle 版 (全 423 頁) に基づく。
日 | 起こったこと |
---|---|
イースターの前日(4/11, 土曜日) | チャールズ、テリーザ、タニオス夫婦が数日間滞在の予定で小緑荘にやって来る。 |
イースターの日曜日(4/12) | チャールズがエミリイの引き出しから 4 ポンドくすねる。 |
イースターの次の月曜日 (4/13) | ミス・ロウスンによれば、夜中、トントンという音がしてワニスの臭いがしたら、テリーザが階段のところにいた (pp.320-322)。 テリーザはこれを否認する (pp.341-342)。 |
イースターの次の火曜日 (4/14) | 夜、ドクター・ドナルドスンが小緑荘に食事に来る。 深夜(真夜中の 1 時だから正確には 4/15)、エミリイ・アランデルが階段から落ちる。打撲とかすり傷で済んだ。 |
イースターの次の水曜日 (4/15) | 朝、皆は予定通り帰る。 |
イースターの次の金曜日 (4/17) | エミリイが、ポアロと弁護士のウィリアム・パーヴィスに手紙を書く。 |
4/18-19 (週末) | タニオス夫婦が小緑荘を訪れる。 |
4/21 (火曜日) | エミリイが、弁護士のパーヴィスを呼んで、午後3時頃、遺産を付添婦のミニー・ロウスンに遺すという遺言書を作る。 このとき、パーヴィスによれば、遺言書は引き出しの中に入れられた。ところが、看護師のカラザースによると、 ミス・ロウスンは、遺言書はパーヴィスのところに送ったと言っていたとのこと (p.296)。 |
4/25-27 (週末~月曜日) | チャールズとテリーザが小緑荘を訪れる。このとき、チャールズはエミリイから新しい遺言書を見せてもらっている。 日曜日に少しだけドクター・タニオスが小緑荘を訪れる。 |
4/27 (月曜日) | 夕食後、小緑荘で降霊会が開かれ、エミリイ、ミニー・ロウスン、トリップ姉妹が参加する。 そのときエミリイに後光が現れる。その後、エミリイの具合が悪くなって病気になる。 |
5/1 (金曜日) | エミリイ・アランデルが死ぬ。 |
6/28 (日曜日) | ポアロがエミリイからの手紙を受け取る。ポアロとヘイスティングスは早速マーケット・ベイシングに行く。 不動産屋のガブラー・アンド・ストレッチャー商会、ジョージ亭、小緑荘(家政婦のエレンと料理人のアニー)、 ドクター・グレインジャーとドクター・ドナルドスン、モートン・マナー(ミス・ピーボディ)、 トリップ姉妹を訪れて話を聞いてゆく。 |
6/29 (月曜日) | ポアロとヘイスティングスは、チェルシーにテリーザ・アランデルを訪れる。そこで、チャールズにも会えた。 次に、ベイズウォーターにミニー・ロウスンを訪ね、ブルームスベリーにタニオス夫婦を訪ねる。 昼食後、チャールズから紹介状を貰い、4時ごろハーチェスターに弁護士のパーヴィスの話を聞きに行く。 その後、再び小緑荘を訪れ、エレンと庭師のアンガスと話をする。次に、薬局で薬剤師と話をし、その後、 看護婦のカラザースの話を聞きに行く。ジョージ亭で夕食を食べていると、ドクター・グレインジャーが 現れたので、メアリー・アランデルの死因について話をする。 |
6/30 (火曜日) | 10 時頃、ポアロとヘイスティングスが町を歩いていると、ミス・ピーボディに声をかけられたので話をする。 11 時頃、小緑荘でミス・ロウスンと話をする。ポアロとヘイスティングスがロンドンに戻ると、 アパートでドクター・タニオスが待っていた。妻の精神状態が心配だと言う。 ドクター・タニオスが出ていくと、ポアロとヘイスティングスは、テリーザに会いに行く。 そこにはドクター・ドナルドスンもいた。その後、ポアロとヘイスティングスはアパートに戻る。 |
7/01 (水曜日) | 朝、ポアロとヘイスティングスは、ミス・ロウスンに会いに行く。そこには、ベラ・タニオスが
子供たちを連れて逃げてきていた。ベラは何を心配しているのか言わない。そこに、ドクター・タニオスが
やって来たので、ポアロ、ヘイスティングスは、ベラと子供たちを連れて、ミス・ロウスンが取ってくれた
ウエリントン・ホテルに向かう。ポアロは、さらに、ベラと子供たちをコニストン・ホテルに逃がす。
午後 2 時、ドクター・ドナルドスンがポアロのアパートにやって来て、少し話をした。 一方、午後 4 時頃、コニストン・ホテルに男が一人現れ、子供たちを連れて行った。 |
7/02 (木曜日) | 朝、ミス・ロウスンから電話があった。ベラ・タニオスが睡眠薬を過剰に飲んで死んだという。 ポアロとヘイスティングスは、コニストン・ホテルに行ってそれを確認する。 |
7/03 (金曜日) | 朝 11 時、小緑荘に関係者を集めて、ポアロが真相を明かす。 |
地名
以下、地名についていくつかまとめておく。
地名 | 説明 |
---|---|
マーケット・ベイシング (Market Basing) | 本小説の舞台となる町。 大ロンドンの西に接する Berkshire 州にあるとされる架空の町である。 |
ハーチェスター (Harchester) | 弁護士のパーヴィスが事務所を構えている架空の町。Market Basing から約 10 マイル (16 km) のところにある (p.273)。 ところで、今、Harchester とネット検索してみると、英国のスポーツテレビドラマ 「 Dream Team」の舞台となる架空のサッカーチーム Harchester United がひっかかる。 こちらの Harchester はイングランド中部が想定されているようである。 |
スミルナ (Smyrna) | タニオス夫婦の本拠地。トルコ西部のエーゲ海に面する港町イズミルのギリシャ名。1919-1922 年の間、ギリシャが占領した。 1922 年に火災でギリシャ人地区が焼け、1923 年にはほとんどのギリシャ人はギリシャに帰った ということだが、ギリシャ人のドクター・タニオスはそれでもスミルナに残ったということだろうか。 |
英語・文化的背景メモ
以下のページ番号は kindle 版 (全 423 頁) に基づく。
- mulish look (p.36)
- mulish とは、「mule (ラバ) のような」ということで、「強情な」という意味である。
as stubborn as a mule という成句もある。これが含まれている文は
[原文] But her face bore the mild mulish look that many clever husbands of stupid wives know to their cost.
[加島訳] しかし彼女の顔にはひとつの表情―愚かな妻を持った賢明な夫がきっと手を焼く 例の生ぬるい頑固な表情が現れていた。
である。翻訳者の工夫の跡が見て取れる。 - Boule cabinet (pp.42-43)
- Boule は、17-18 世紀の家具職人 André-Charles Boulle の名前であり、華麗な装飾、とくに象嵌 (inlay) で有名である。 Boule や Buhl と綴ることもあるとのこと。こういう家具を置いているということは、小緑荘の内装は豪華なのだろう。
- Dr. Grainger, on the other hand, rallied her heartily. (p.51)
- rally をどう訳すかが問題である。加島訳は「元気づける、励ます」(ジーニアス英和大辞典電子版)を 採用し、「これとは反対にドクター・グレインジャーはミス・アランデルを心から励まし、力づけた。」としている。 しかし、これでは、このあとドクター・グレインジャーが「こんなに丈夫な患者ばかりじゃ医者の商売あがったりだね。」 という意味のことを言っているのと少し合わない。rally には、もう一つ古風な同音異義語で 「品よくからかう、ひやかす」(ジーニアス英和大辞典電子版)「to attack with raillery」(Webster) というものがある。 そっちだとすると、「一方で、ドクター・グレインジャーは、ミス・アランデルを精一杯冷やかした。」となる。こちらの方が、 文脈上は適切だと思う。
- Hallo, old man (p.71)
- ヘイスティングスの犬に対する呼びかけの言葉で、加島訳では「いよう、ワン公」である。 犬に対しても old man と言うもののようである。 ちなみに deepL 翻訳で「よう、ワン公」を英訳したら「Hey, doggie」となった。
- Parbleu (p.71)
- ヘイスティングスの問いにポワロが「もちろん、これだ」(加島訳)と答えた時の「もちろん」を表すフランス語。 ポアロはよくフランス語を混ぜて話すのだが、普通は私でもわかる程度のフランス語なのに、parbleu は私の知らない フランス語だったので驚いた。どうやらこの単語は少し古い単語で、20 世紀前半には今よりも頻繁に使われていたらしい。
- with adenoids (p.72)
- ネットで調べて今頃になって初めて知ったのだが、扁桃には、咽頭扁桃 (adenoid)、舌根扁桃、耳管扁桃、口蓋扁桃 (tonsil) の4つ があるのだそうだ。いわゆる扁桃肥大は、口蓋扁桃の肥大のことである。それで、アデノイドの肥大がどうして 顔を見ただけでわかるのか不思議に思ったが、アデノイド顔貌 (adenoid facies) という特徴的な顔立ちが あるのだそうである。私もそれに近いところがあるので、ショックを受けた。
- Chippendale, Hepplewhite (p.90)
- いずれも 18 世紀の有名な家具デザイナーの名前で、ここでは Victorian (19 世紀) と対比して用いられている。 Victorian な家具が装飾的で整った重厚な形をしているのに対して、 Chippendale は優美で繊細である。 Hepplewhite の椅子は楯の形をした背もたれで有名なようである。
- Valentine's beef juice, Brand's essence (p.99)
- Valentine's Meat Juice は、 Mann Valentine というアメリカ人が生み出した今でいうところのサプリの一種らしい。 1870 年に考案され、19 世紀末には世界中で売れたとのこと。とはいえ、当時のことだから、 本当に健康に有益だったのかどうかは不明。一方、Brand's Essence of Chicken は今でも販売されている健康食品である。
- a picture that was ajar (pp.108, 121)
- ミス・アランデルのうわごとの一部で、加島訳では「半開きの絵」。ajar という単語の使用が珍しい。 ポアロはそこを不審に思う。door が ajar とは言うけど、picture は ajar とは言わず、awry とか crooked とか 言うはずだ、と指摘する。それで、これは a picture on the jar (壺に描かれた絵)のことだと推理する。
- "Little Man, You've Had a Busy Day" (p.165)
- ヘイスティングスがポアロに向かって口ずさむ歌。 この歌は、1934 年に発表されたものだそうである。先に書いたように、このこととイースターの日付と曜日から 事件が起こった年が 1936 年であると確定できる。ヘイスティングスは当時の最近の歌を歌っているのである。 加島訳では、歌のタイトルを「小男よ。忙しい一日だったね」と訳しているが、小さな男の子に向けた歌なので、 いくらポアロをからかう意味があるからと言っても「小男よ」と訳するのはどうかと思う。「君は男の子だね。 忙しい一日だったよね。」などとした方が良さそうである。
- a busman's holiday (p.165)
- a busman's holiday とは、バスの運転手が休日にドライブするように、休みの日に自分の仕事と同じことを してしまうことである(ジーニアス英和大辞典電子版)。ここでは、ポアロが誰にも依頼されていないのに (被害者に依頼されたとも言えるが、報酬は期待できない)、自分の興味から探偵仕事をしてしまっていることを指す。 ヘイスティングスがポワロに "it seemed to me you've been treating yourself to a busman's holiday!" と 言っている。加島訳では「見たところ、どうやら自費出版ってかたちじゃないか」と工夫して訳している。 しかし、この訳ではちょっとわかりにくい気もする。もっと直接的に 「私に言わせてもらえば、君はボランティア仕事をしているね。」とでも訳した方が良いんじゃないかと思う。
- an earwig (pp.199, 231)
- チャールズがベラのことを評して an earwig のようだ、と言っている。加島訳は文字通り「ハサミ虫」と してあるので、それだけでは何の含意があるのかわからない。earwig には「盗み聞きする人、立ち聞きする人」という意味もあるようだから、 チャールズが言っていることは、ベラは a dreary woman(話がつまらない女)だけど an earwig(他人の話を よくこっそり聞いている)ということだろうか。ただ、それだと後でヘイスティングスがベラに会った時に an earwig という評に納得していることと合わない。earwig の語源が「耳の虫」であることや、古い意味として 「こっそり噂をささやく人」(OED) というのがあることも考えると、何か薄気味悪く寄り添ってくる人というような イメージを言っているような気がする。
- He's a dear little doggie (p.218)
- 加島訳は、「ほんとにかわいいワンちゃんで…」。ミス・ロウスンがボブのことをそう表現している。 これに対して、ヘイスティングスが遊び好きのテリアのボブ君の気持ちを代弁して「かわいいワンちゃん」 などと言われたくはない、と心の中で言っているのがユーモラスである。dear little doggie は、 男の子には相応しくないらしい。p.71 (上述) で、ヘイスティングスが old man と呼びかけたのと対照的である。
- Norman Gale, Evelyn Howard, Dr. Sheppard, Knighton (p.249)
- ポアロが過去の事件を思い出しながら言った名前である。Norman Gale は『雲をつかむ死』の犯人、 Evelyn Howard は『スタイルズ荘の怪事件』の犯人の一人、Dr. Sheppard は『アクロイド殺し』の犯人、 Knighton は『青列車の秘密』の犯人である。
- Now don't go and dog and bone it. (p.314)
- ミス・アランデルがよくものをしまった場所を忘れていたので、よくエレンはミス・アランデルに こう言っていたという。犬が骨を埋めた場所を忘れるようなことをしないでくださいね、という意味で 二人の間だけで通じる会話だったようである。実際、この表現をネット検索しても、この小説のこの場所しか ひっかからない。英語の調子の良さを訳するのは難しいが、加島訳では長くならないように「犬忘れなさらないで」と 工夫してある。