愛国殺人

著者Agatha Christie
訳者加島 祥造
シリーズクリスティー文庫
発行所早川書房
電子書籍
電子書籍刊行2012/05/25
電子書籍底本刊行2004/06
原題One, Two, Buckle My Shoe [UK] / The Patriotic Murders [US]
原出版社Collins Crime Club [UK] / Dodd, Mead and Company [US]
原著刊行1940 [UK] / 1941 [US]
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読了2023/04/08
参考 web pages Wikipedia「愛国殺人」
Wikipedia「The A.B.C. Murders」
愛国殺人 in 「名探偵ポワロ」データベース
Wikipedia「名探偵ポワロ」
Wikipedia -- List of Agatha Christie's Poirot episodes

童謡の One, Two, Buckle My Shoe の各一節を各章の題名とする趣向。その題名に関係したことがそれぞれの章で起きる。 Suchet 版のテレビドラマを見ながら読んでいった。

霜月蒼のクリスティ紹介本 では本作品は酷評されているが、読んでみるとそんなこともなくて、結構工夫された作品であると思った。 霜月の酷評ポイントは、描かれている陰謀話や左翼演説が陳腐で薄っぺらだということだ。そのこと自体は 当たっている。しかし、本作品ではそれは主題ではないし(飾りの部分)、クリスティの政治談議など 最初から期待できないので、陳腐だとは思ったが私はそれほど気にならなかった。それより楽しむべきは、童謡に乗せた筋運び (ただし、後述のようにこれは加島訳だとわからなくなっているところもけっこうある)だとか、 入り組んだ人物関係をポワロが解きほぐして意外な(そして国家的陰謀とは無関係な)真相が立ち現れるところである。 なお、Suchet 版では陰謀話や左翼演説のそれぞれを象徴する Mr Barnes と Mr Howard Raikes が 出てこないから、本作品のそういう意味での欠点が消されている。

それに関連して、原作でちょっと問題なのが Howard Raikes の存在だ。行動の怪しさが最後まですっきり解決されない。 Suchet 版テレビドラマではあっさり切り捨てられているので、物語がすっきりしている。

翻訳で気付いたことが一つ。「ごお、ろく、薪木をひろって」の第4節は Poirot と Japp 警部の電話による会話なのだが、 日本語版では、どっちが Poirot でどっちが Japp 警部だか途中でわからなくなる。それは、たとえば、会話の途中に 「ポアロは答えた。」という地の文があった時に、ポアロが言ったのがその前の台詞なのかその後の台詞なのか よくわからないからである。その点英語では Poirot said: のようにセミコロンがあるので、セミコロンの後に書いてある ことを Poirot が言ったことが明白である。日本語にはセミコロンが無いので、「ポアロは「」と言った。」のように 地の文で台詞を挟まないといけないはずである。とはいえ、この翻訳では、「ポワロは答えた。」のような文の後に ポワロの台詞が来るように統一されているので、それが分かれば問題は無い。

他作品との関連で、『二重の手がかり』に出てきたヴェラ・ロサコフ伯爵夫人を Poirot が懐かしく思い出す場面が出てくる(「じゅうさん、じゅうし、女中たちはくどいている」の第3節)。 『二重の手がかり』はけっこう初期の作品なので、ここでいきなり登場するのにはちょっと驚くが、 クリスティはなぜか思い出してしまったのだろう。

物語が複雑なので、読みながら2つメモを取っていった。以下はそれらのメモである。

最初の方で歯医者の Morley が殺される。これが最初の殺人事件である。殺害時刻はおそらく 12:05--13:00 の間。 午前中、患者がたくさん出入りしてわからなくなるので、表にまとめておく。

Henry Morley の患者
予約時刻名前容姿、性格、事件の日の行動など
10:00Mrs Soames新しい義歯のため。
10:30Lady Grant年輩。Lowndes Square 在住。
11:00M Hercule Poirot
11:30Mr Alistair Blunt中肉中背。有名な銀行家。
急患Miss Mabelle Sainsbury Seale40 過ぎの女優。鼻眼鏡。髪を曖昧な色に染め、だらしなくカール。洋服は芸術家風で似合わない。おしゃべり。
12:00Mr Amberiotis太ったギリシャ人。Savoy Hotel に滞在中。12:05 診察室に入る。12:25 帰る。
12:30Miss KirbyWorthing 在住。Alfred は Miss Shirty と呼んでいる。45 分間待たされた挙句、13:15 怒って帰った。
同僚の Reilly の患者
予約時刻名前容姿、性格、事件の日の行動など
10:00Betty Heath9 歳の少女。
11:00Colonel Abercrombieインド生まれのイギリス軍人。Poirot のすぐ前に診察室に入った。
11:30Mr Howard Raikes アメリカ人らしい。Holborn Palace Hotel に滞在中。診察を受けずに帰ってしまった。Poirot が感じたところでは、顔付きが凶暴。 革新的な思想の持ち主。Alistair Blunt の義理の姪の娘である Jane Olivera が愛している。
12:00Mr Barnes退職した元内務官僚。高い声の小柄な人。
従業員など
仕事、役割名前容姿、性格、事件の日の行動など
page boyAlfred Biggs (男)よく人の名前を間違える。
秘書、助手Gladys Nevill (女)背が高く、色白で、弱々しい感じ。有能で利口。当日午前、嘘の電報に騙されて休みを取り、午後戻ってくる。
被害者の妹Georgina Morley (女)背が高く、こわい顔をしている。
Gladys の婚約者Frank Carter (男) 色白で中背。最近失職したが、また良い仕事にありついた。Morley のおぼえめでたからず。12 時少し過ぎに来て、いつの間にかいなくなっていた。 12 時半ころ女中の Agnes が階段で目撃。

本作品の章題は、童謡から取られている。歌詞のそれぞれの行の末尾は、数字と韻を踏んでいる。 それで、その歌の歌詞に対応する出来事がそれぞれの章にある。それもまとめておく。

章題対応するできごと
いち、にい、わたしの靴のバックルを締めて
one, two, buckle my shoe
Miss Seale が、靴のバックルをタクシーのドアに引っ掛けて、バックルがちぎれる。
さん、しい、そのドアを閉めて
three, four, shut the door
Japp 警部と Poirot が Amberiotis 氏に話を聞きに行こうとホテルを訪れると、氏は 30 分前に亡くなっていた。 Poirot は扉が閉ざされたように感じた。
ごお、ろく、薪木をひろって
five, six, picking up sticks
"picking up sticks" は、手掛かりをつかむことの隠喩である。この章ではたくさん手掛かりが出てくる。 Barnes は陰謀論を匂わせる、Reilly が死体を動かしたと推理される、Miss Sainsbury Seale が失踪する、 Howard Raikes は資本家を憎む改革思想の持主、Frank Carter は Morley を嫌っていた、 Jane Olivera は Howard Raikes を愛している。
"picking up sticks" の一節は、実は次章に "lay them straight" とまとめて出てくる。
しち、はち、きちんと積みあげ
seven, eight, lay them straight
この加島訳では、"lay them straight" をタイトルでは「きちんと積みあげ」と訳し、本文では「まずきちんと並べろ」 と訳してあるので対応が分かりづらい。本文中では、地の文として Poirot の心中が語られる部分で出てきている。 いろいろな手がかりを集めてそれらをきちんと並べるという Poirot ご自慢の方法論のことである。
くう、じゅう、むっくり肥っためん鶏さん
nine, ten, a good fat hen
"a good fat hen" は、Poirot が Mrs Olivera(Alistair Blunt の義理の姪で、Jane の母親)を形容するのに使っている言葉。 Poirot は、その声や言い回しが自分を電話で脅迫してきたものとほとんど同じであることに気付く。
じゅういち、じゅうに、男衆は掘りまわる
eleven, twelve, men must delve
Blunt 邸では、Frank Carter が Dunning Sunbury の名前で庭師をしていて、熱心に土を掘っていた。ただし、ここの 「掘る」は dig で、delve ではない。
じゅうさん、じゅうし、女中たちはくどいてる
thirteen, fourteen, maids are courting
Regent's Park で Poirot は、子守女とその恋人たちの愛の囁き (courting nursemaids and their swains) を眺めている。 Poirot はその中に Jane Olivera と Howard Raikes の姿を見かけて声をかける。
Poirot に声をかけられて Raikes が居づらくなっていなくなったとき、Poirot が Jane に "Two is company, three is none" という諺を引いて、"When you are courting, two is company, is it not, three is none?" と言ったのに対して、Jane が "Courting? What a word!" と言っているのが面白い。court は、辞書(プログレッシブ英和中) にも ((古風)) と書いてある通り、普通は使わない古い言い方なのだろう。
じゅうご、じゅうろく、女中たちは台所にいて
fifteen, sixteen, maids in the kitchen
歯医者の Morley の小間使いの Agnes Fletcher が今になって Morley 殺害の日に Frank Carter を階段で見たと Poirot に話す。 それまで黙っていたのは、事件は自殺で解決したと思っていて、コックと話して事件には関わり合いにならないようにしようと思っていたからだった。
じゅうしち、じゅうはち、女中たちは花嫁のお仕度
seventeen, eighteen, maids in waiting
"in waiting" は辞書(ジーニアス英和大電子版)によれば、「王族に仕えて、かしづいて」という意味。 とすれば、"maids in waiting" は、体制に仕える Alistair Blunt の隠喩であるか、 経済界の大物 Alistair Blunt の周辺の女性たちの隠喩であるかのどちらかであろう。
加島訳がどうして「花嫁のお支度」になっているのかは不明。
じゅうく、にじゅう、私のお皿はからっぽだ…
nineteen, twenty, my plate's empty
最後に Poirot が "Nineteen, twenty, my plate's empty" と独り言を言う。 これは、事件が解決したという比喩のつもりか?

Suchet テレビドラマ版のあらすじといろいろなメモ

Suchet 版は第33話「愛国殺人 (One, Two, Buckle My Shoe)」(脚本 Clive Exton)。

けっこう原作に忠実なドラマ化だが大きな違いもある。まず、違う点を挙げていく。

以下は、原作の章立てに沿って原作との主な違いを見てゆく。

  1. One, Two, Buckle My Shoe
    • セインズベリ・シールとボライソオ夫人の会話の場面はテレビドラマ版には無い。
    • アリステア・ブラントの会社の重役の名前がアーンホルトになっている(原作ではロザスタイン)。
    • 治療に来たセインズベリ・シールが、本人ではないことがテレビ映像ではわかってしまう。
  2. Three, Four, Shut The Door
    • 待たされて怒って帰る患者の名前が Mrs Pinner になっている(原作では Miss Kirby)。
    • アリステア・ブラントは、アーンホルト財閥の総帥ということになっている(原作では財閥は出てこないし、 ブラントは、レベッカ・アーンホルトと結婚して有力な銀行家になった)。
    • ジャップ警部とポワロが(偽)セインズベリ・シールと面会する場面はテレビドラマ版では次章に相当するところに移してある。 つまり、モーリーの死因がわかった後にしてある。
  3. Five, Six, Picking Up Sticks
    • 原作にはいないアーンホルトとポワロが面会する場面が出て来る。アリステア・ブラントとレベッカとの結婚について説明させている。
    • バーンズ氏、ハリスン夫人、ハワード・レイクスはそもそも出てこないので、彼らとポワロとの面会は無い。
  4. Seven, Eight, Lay Them Straight
    • マートン夫人は出てこない。
    • ポワロがミス・モーリイに会うのは、原作では田舎でだが、テレビ版では引っ越し中の歯科医院で会う。
    • 原作ではある種架空の人物であるチャップマン夫妻がモンタギュー・ホテル(これも原作には無い)にいる。 ただし、事件とは無関係な人たちだった。
    • その場面の後でポワロが Sommerset House(戸籍本署)を訪れて調べ物をするシーンが挟まれる。これは原作には無い。 その意味は、真相開示の段になってわかる。ということは、この時点でポワロはすでに犯人の見当を付けていた ということになる。
  5. Nine, Ten, A Good Fat Hen
    • 原作では、ポワロが田舎のブラント邸に行くのを邪魔する人々がいるのだが、そうしたことは省かれている。 それで、テレビ版ではこの章に相当する部分は短く終わる。
  6. Eleven, Twelve, Men Must Delve
    • ハワード・レイクスが出てこないので、フランク・カーターを捕まえるのがヘレン・モントレソーになっている。 話の筋としては、ハワード・レイクスがやるより自然であると言える。
  7. Thirteen, Fourteen, Maids Are Courting
    • ライリイ、アダムズ夫人、ハワード・レイクスが出てこないので、ポワロとグラディスとの面会だけになっている。
  8. Fifteen, Sixteen, Maids In The Kitchen
    • 重要な章なので、バーンズが出てこないこと以外は、短縮されてはいても原作通り。
  9. Seventeen, Eighteen, Maids In Waiting
    • 真相開示は、原作ではポワロがブラント邸に行って、二人で会話する中で行なわれるのだが、 ドラマ版では、ポワロがブラントの銀行の会議室に関係者を集めて行なわれる。
  10. Nineteen, Twenty, My Plate's Empty
    • ドラマ版の最後の場面は、ポワロとジャップ警部のユーモラスな会話。 原作は、ポワロとバーンズとの会話とその後のポワロの独り言で終わる。