デューイ「論理学」ノート

第6章 探究のパターン

2001/10/27
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2001/11/04
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これまでの要約 本章では、常識と科学に共通する探究のパターンを考察する。

ある型の操作に従うとき、題材に新しい形式に関連した性質が生じる。 たとえば、法律は、日常の取引から定式化されたものである。 このことによって、犯罪や契約などの概念が生まれた。 いったん概念が生まれると、操作方法が定式化され規定される。 これと同様、探究をコントロールすると、題材に論理形式が発生する、 と私は主張する。

私の主張を受け入れるかどうかは別としても、探究の方法を探究することは 論理形式の理論にとって重要である。なぜなら

  1. 客観的に観察できる題材を用いているため、主観や精神的な状態や過程に 影響されることが避けられる。
  2. 論理形式の自立性がはっきりする。論理形式は、経験的素材から導かれたもの ではあるが、いったん確立されれば、その経験的素材を変化させることもある。
  3. 論理学の理論が、超越的で観察不能なものから解放される。

従来、人が現にどのように考えるか、どのように考えるべきか、の区別は、 心理的なものと論理的なものの違いとされた。私の立場では、 その区別は、良いやり方と悪いやり方の違いでしかない。 目的を達することができないことが過去の経験からわかっている 探究方法をとる人は、すべきでない考え方をしているのである。 探究のパターンの研究は、過去の様々の探究が有効であったかどうかを 調べることで、点検されコントロールされる。
(吉田注)このあたり、典型的に プラグマティズム的である。

探究を以下のように定義する。

探究とは、不確定な状況を、確定した状況に、すなわち元の状況の諸要素を ひとつの統一された全体に変えてしまうほど、状況を構成している区別や 関係が確定した状況に、コントロールされ方向付けられた仕方で転化させる ことである。
Inquiry is the controlled or directed transformation of an indeterminate situation into one that is so determinate in its constituent distinctions and relations as to convert the elements of the original situation into a unified whole.

不確定な状況は open であり、確定した状況は closed である。 「コントロールされ方向付けられた」という意味は、 探究の含む操作が、客観的に統一された現実の状況を実際に確立する度合いによって、 探究の有効性が決まる、という事実を指している。 状況が変化する段階では、シンボルの利用による 論議(discourse)が手段として用いられる。 また「状況」の意味については第4章参照。

探究に先立って疑問が生じなければならない。疑問が生じるのは、 不確定な状況があるからである。不確定というのは漠然とした不確かさではない。 ある特定の探究を促すような、他の不確定さとは異なる特性を持つ不確定さ でなければならない。不確定さが unique でなければ、それに対する反応は、 探究ではなく、単なる混乱である。

探究に先立つ疑問は、我々が持つものではあるが、 決して個人的なものではなく、状況に備わったものである。 未解決の状態は、有機体と環境の相互作用における不均衡状態である (第2章参照)。状況は確定しているが、 われわれが知らないだけ、ということではない。環境は有機体との 相互作用に入ったときのみ環境となるからである。 有機体が、結果を予想して、反応活動を選ぶとき、相互作用は探究となる。

未解決または不確定な状況は、探究を行う過程に入って 問題状況 (problematic situation)となる。 不確定な状況は、探究の必要条件ではあるが、それだけでは認識以前である。 状況が探究を必要とすると見られたとき、はじめて状況は問題状況となる。

問題状況から問題をうまく取り出すことができれば、探究はうまく進む。 完全に不確定な状況は問題に転換できない。観察可能な構成要素、 すなわち関係する事実、を取り出すことが必要である。 たとえば、火災に対する対処を議論するときには、通路や出口の位置を 確認する必要がある。

事実が設定されると、解決の可能性が 観念(idea)として現れる。 観念は結果の予想である。事実が分かってくると、問題に対処する方法が 明瞭となってくる。観念が明瞭になってくると、何を観察したり実行したり しなければならないかがはっきりしてくる。観念は探究が進むにしたがって 良くなってゆく。観念は、初めは暗示(suggestion) として生じる。それが推論によって検討されてはじめて観念となる。 推論が適切であったかどうかは、現実との比較により行われる。 暗示と観念は、シンボルによって表現される (シンボルについては第3章参照)。

暗示(suggestion)は、従来の論理学では 不十分な扱いしか受けていない。暗示は、それ自体は論理的でないが、 論理学上の観念を作るために必要なものである。従来の経験主義的な理論では、 暗示は、事物を心に映したものとして観念と同一視された。そのため、 観察を方向付ける観念の役割が無視された。一方、合理主義では、 観念のない事実は意味がないとされ、観念こそが究極的な実在であるとされた。 カントはそれらが一方的であることを見抜き、知覚のない概念は空虚であり、 概念のない知覚は盲目である、と考えた。しかし、そのカントも、知覚と 概念が異なった源から発し、それを統一する悟性が必要であるとした点で 誤っている。知覚と概念はともに探究の中で決定されるのである。 知覚は問題を位置づけ記述する。概念は可能な解決方法を表す。 両者の区別は、論理的な分業を表している。

推論(reasoning)は、観念を発展させるために 行うシンボルの操作である。推論においては、意味が他の意味と 関係付けられて検討される (意味については第3章参照)。 その結果、到達する観念は、適用可能性をテストするための操作を示している。 科学を考えると分かりやすい。暗示され受け入れられた仮説は、 他の概念構造と関係付けられて展開され、実験を方向付ける形式に到達する。

事実と観念は関係がある。事実は、問題の提示であり、観念は、 可能な解決の提案である。両者の区別は、探究の上での役割上のものである。 事実と観念はともに操作的(operational) である。観念は、観察の操作を方向付けるという意味で操作的である。 事実が操作的であるというのは、事実が目的に応じて選びだされて 記述されることを指している。事実は、観察という操作の結果であるだけでなく、 明確な結果を生むために、個々の事実を結合したものである。 事実は、証拠として役に立たなければならない。切り離された事実は 役に立たず、組織化されたときに初めて役に立つものとなる。

事実→観念→観察→事実の整理→観念の修正→新たな観察→事実の整理→…
という連鎖の結果として統一された現実の秩序が生じる。

探究にはシンボルが不可欠である。観念が示す可能な解決方法は、 あくまでも可能性なので、シンボルを使わなければ表現できない。 事実も、つねに修正と整理を受ける暫定的なものなので、 事実そのものではなく、代理であるシンボルを通して受け取らなければならない。

常識も科学も探究のパターンは共通である。常識と科学の違いは、 テーマの違いである。

常識の問題とその探究は、周囲の利用と享受に関するものである。 そのため、そのシンボルは、集団の習慣としての文化の中で決定される。 意味は、集団の環境条件や利害に結び付いている。

科学的探究においては、意味は特定の集団の利害から解放された。 意味は、意味の互いの関係に基づいて決定される。そこで、 関係が探究の目的となり、相互関係と無関係な性質は重要でない。 このことがはっきりしたのはようやく現代になってからである。 たとえば、「運動を生じさせる力」といったような「性質」は、 現代においては、位置や時間の関係として解釈されるだけである。 科学が、周囲の環境と限定された関係を持たないということは、 科学の対象が抽象的な性格をもつということである。 科学のテーマは、特定の時と場所に存在する諸条件に縛られない。
(吉田注)地球科学や環境科学が どれほどの抽象性を持つか考えてみると面白いであろう。

まとめ:探究は2種類の操作からなる。ひとつは、 観念的(ideational)なもので、解決の方法を予想し、 新しい観察を方向付ける。もうひとつは、観察の技術や諸活動である。 探究がうまくコントロールされるためには、シンボルが必要になる。 探究により、状況は時間的に変化してゆく。

用語について:探究を受ける素材を 題材(subject-matter)と呼ぶ。 題材を、観察や観念形成という脈絡の中で述べるとき、 内容(content)と呼ぶ。 「内容」は、とくに「命題の内容」を指す。 題材のうちで、探究によって一定の形に整理されたものを 対象(object)と呼ぶ。 言葉から予想されるように、対象は探究の目的(objective)である。 対象(object)は、通常、観察されたり思考されたりするものを 指すのに使われるので、上の意味で使うと混乱を招きそうだが、しかし、 「事物は、探究の結果として確定したときのみわれわれにとっての 対象となる」ということを考えれば、混乱は生じない。

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