デューイ「論理学」ノート

第7章 判断の構成

2001/12/22
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2001/12/24
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判断(judgement)は、決着の付いた 探究結果である。
判断(judgement)言明(assertion)最終的、現実的
命題(proposition)肯定(affirmation)中間段階的、代理的
(吉田注)この章では、主として、 論理学における判断とはどういうものか、が扱われる。 単なる命題ではない。以下の「5. コプラ」の項参照。

判断の例は、裁判の判決である。判決は、公判での探究の結果であり、 現実に影響を与える。判断は、中間段階での諸命題を確定して行くうちに 現れる。最終決定としての判断は、一連の部分的な決定に依存している。 その判断も次の探究では覆されることがある。判断が、次の探究行為の 中で産み出す結果が、その判断の価値の基準となる。

1. 最終判断は個別判断である

このタイトルの意味は、最終判断の対象が、一つの状況であるという意味であり (状況という言葉については第4章参照)、 構成要素が単一(singular)という意味ではない。 個別の状況は、さまざまな要素や関係を含んでいるが、それらは 統一され、一つの全体を形成している。単一ということは、そもそも 他との区別を表しており、区別があるということは、他との聯関がある ことを示している。単一のものは、状況の中で指し示される。 論理学では、よく「与えられた(given)」という言葉が出てくる。 しかし、上の考えからすると、これは「取り上げられた(taken)」 ものである。「与件(data)」は、孤立したものではなく、探究の中で 役割を与えられたものである。

2. 判断の主語

判断の構造は、主語(subject)―述語(predicate) の形で捉えることができる。主語は、当該の問題に関して 観察された事実であって、問題に光を当て、その解決の証拠となる素材を 提供するという2重の役割がある。述語は、ひとつの可能な解決を予想し、 観察という操作を方向付ける。主語と述語の対応が コプラ(copula)である。

私の説と、従来の典型的な説の対照

従来の典型的な立場
現実の素材は、判断に与えられ、提示される。判断は、手渡されたものを 特徴づける。
私の立場
主語の題材と、述語の題材 (題材については第6章参照) は、探究の中で、互いに対応するように決定される。

従来の説の難点

  1. 素材は偶然与えられ、それに対する判断を行うという形になる。
  2. 素材を指示する「この(this)」という言葉の根拠がなくなる。 なぜなら、素材は外から与えられるはずなのに、「この(this)」は 能動的なはたらきを示すから。
  3. 結果として「この(this)」の意味が空虚になる。

たとえば、「これ(this)」が主語で、その指すものが「ワシントン記念碑」 (述語)であるとする。しかし、述語と全く関係無しに主語が決まると いうことはあり得ない。第一に、それを指差しても、指差す方向にある 全てのものが「これ」の候補たりうる。第二に、仮に指差す行為で、 当該の物体が指定されたとしても、それが「ワシントン記念碑」、あるいは 何かの記念碑であると言える理由はない。「これがワシントン記念碑である」 と言えるためには、主語と述語の両方に関係する包括的な状況が必要である。 述語が特徴付けを与えられるように、主語である「これ」が決定されている。 主語は選びだされるものである。選ばれ方は、述語で述べられることの 証拠としての意義があるかどうかを見積もった上で決められる。

3. 主語と実体

アリストテレス論理学では、種は実体(substance) で、そのようなものを主語とする命題のみが、学問となりうる。 しかし、科学によって、不変なものがないことがわかってきた。 星も生物種も変化するものである。

すると、主語たりうる条件は何か?

  1. 一つの可能な解決を示すように問題を限定し記述すること。
  2. 述語と結合し、結果としてでてくる観察操作から生まれるデータと合わせ、 ひとつの整合的な全体が形成されること。

そこで、実体(substance)を再定義する。 実体は、論理に関するものであって、存在に関するものではない。 たとえば、砂糖は、甘い、とか、白い、とか、つぶつぶだ、とか いったようなさまざまな限定で特徴づけられる。そういった限定が 結び付いて、まとまった全体として利用することのできる対象を 形成しているとき、それは実体である。実体とは、何かをすれば 何かの結果が出てくるという限定が、結合したものである。 諸性質は、操作とその結果の有効な記号(sign)を構成する。 そこで、実体的対象(substantial object)は、 時代とともに変化することもある。たとえば、木材は、製紙に利用できる ということがわかったとき、その意義(significance)が変化した。 (記号や意義という言葉については第3章参照)、

このような実体概念の変化は、当然のことながら、科学の進歩に 伴うものである。アリストテレスの時代には、不変なものが真理と 関係していた。現代の科学は、変化の相互関係をテーマとしている。 その相互関係自体は、論理的な強さと持久性を持っている。

4. 判断の述語

述語は、可能な解決を暗示し、実験観察という操作を方向付ける。 たとえば、「これは甘い」と言ったとき、それは実験観察を誘発し、 その結果が統一された状況をつくるとき、探究は終了する。 操作という点検を受けて初めて、言明は論理学的な資格を持つ。

論理学における「合理論的(rationalistic)」伝統は誤っている。 それは、真理の基準を、述語の構成要素間の無矛盾性に置いている ところにある。概念的(conceptual)題材は、実験の手段に過ぎない にもかかわらず、それ自体完結したもので、「実在(Reality)」であるとされた。 それに比べ、観察できる素材は、形而上学的に低いものであるとされた。 述語の概念的内容は、仮説であり、包括的なとき理論である。 それは、抽象化されているので、適用範囲が広い道具である。

一方で、「経験論的(empiristic)」論理学は、もうひとつの極端に走った。 概念や理論を単なる実際上の便宜にしてしまった。それもまた改悪である。

5. コプラ(The Copula)

主語と述語とは、元々結び付いたものである。 主語によって、問題が限定され、テストの素材が提供される。 述語によって、概念的な意味、観念、仮説が記述される。 主語と述語が区別されると同時に関係しているというのはどういうことか?
  1. コプラは操作を表す。主語は、観察されるべき素材を示し、 述語は、観念や仮説を示す。観念や仮説のない観察は無意味であり、 観察のない観念や仮説も無意味である。
  2. 一連の部分的判断、すなわち 見積もり(estimate)査定(appraisal)を経て、 初めて最終判断が得られる。 最終的な判断に達していない主語内容と述語内容は、 仮に設定されて、区別され結合される。このように、 判断は、時間的な現実再構成の過程である。
判断において現れる「である(is)」は、時間的である。 「これは赤い(This is red)」という判断は、「これは本来赤い」という 意味でも「これは常に赤い」という意味でもない。これは、今、 諸条件の結果として赤い、という意味である。

ところで、判断を表さない「である(is)」もある。たとえば、 「正義は徳である(Justice is a virtue)」の is は、 2つの抽象物の関係であり、非時間的である。これは、 「正義」という言葉が出てくる命題には、「徳」という言葉が出てくる 命題に対する含意関係があるという、形式的関係の印である。

計画は、命題の形で示される。命題は、実行ではないが実行に必要である。 たとえるなら、地図は、旅行の命題である。地図があっただけでは 旅行にならないが、地図は旅行を導く手段となりうる。命題は、 機能によって定義される。実際使わなくても、道具の準備をしておくことは 必要である。

アリストテレスにおいては、述語となりうるものは、本質、性質、類、種、 偶有性に分類された。これは現代においては意味がない。偶有性と 呼ばれたものには、現代においては、「理由」がある場合と、 まったく「偶然的」なものがある。前者は科学的探究の対象である。 今では、探究に不可欠なものが「本質的」であり、不必要なものが 「偶然的」である。

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