判断(judgement) | 言明(assertion) | 最終的、現実的 |
命題(proposition) | 肯定(affirmation) | 中間段階的、代理的 |
判断の例は、裁判の判決である。判決は、公判での探究の結果であり、 現実に影響を与える。判断は、中間段階での諸命題を確定して行くうちに 現れる。最終決定としての判断は、一連の部分的な決定に依存している。 その判断も次の探究では覆されることがある。判断が、次の探究行為の 中で産み出す結果が、その判断の価値の基準となる。
私の説と、従来の典型的な説の対照
従来の説の難点
たとえば、「これ(this)」が主語で、その指すものが「ワシントン記念碑」 (述語)であるとする。しかし、述語と全く関係無しに主語が決まると いうことはあり得ない。第一に、それを指差しても、指差す方向にある 全てのものが「これ」の候補たりうる。第二に、仮に指差す行為で、 当該の物体が指定されたとしても、それが「ワシントン記念碑」、あるいは 何かの記念碑であると言える理由はない。「これがワシントン記念碑である」 と言えるためには、主語と述語の両方に関係する包括的な状況が必要である。 述語が特徴付けを与えられるように、主語である「これ」が決定されている。 主語は選びだされるものである。選ばれ方は、述語で述べられることの 証拠としての意義があるかどうかを見積もった上で決められる。
すると、主語たりうる条件は何か?
そこで、実体(substance)を再定義する。 実体は、論理に関するものであって、存在に関するものではない。 たとえば、砂糖は、甘い、とか、白い、とか、つぶつぶだ、とか いったようなさまざまな限定で特徴づけられる。そういった限定が 結び付いて、まとまった全体として利用することのできる対象を 形成しているとき、それは実体である。実体とは、何かをすれば 何かの結果が出てくるという限定が、結合したものである。 諸性質は、操作とその結果の有効な記号(sign)を構成する。 そこで、実体的対象(substantial object)は、 時代とともに変化することもある。たとえば、木材は、製紙に利用できる ということがわかったとき、その意義(significance)が変化した。 (記号や意義という言葉については第3章参照)、
このような実体概念の変化は、当然のことながら、科学の進歩に 伴うものである。アリストテレスの時代には、不変なものが真理と 関係していた。現代の科学は、変化の相互関係をテーマとしている。 その相互関係自体は、論理的な強さと持久性を持っている。
論理学における「合理論的(rationalistic)」伝統は誤っている。 それは、真理の基準を、述語の構成要素間の無矛盾性に置いている ところにある。概念的(conceptual)題材は、実験の手段に過ぎない にもかかわらず、それ自体完結したもので、「実在(Reality)」であるとされた。 それに比べ、観察できる素材は、形而上学的に低いものであるとされた。 述語の概念的内容は、仮説であり、包括的なとき理論である。 それは、抽象化されているので、適用範囲が広い道具である。
一方で、「経験論的(empiristic)」論理学は、もうひとつの極端に走った。 概念や理論を単なる実際上の便宜にしてしまった。それもまた改悪である。
ところで、判断を表さない「である(is)」もある。たとえば、 「正義は徳である(Justice is a virtue)」の is は、 2つの抽象物の関係であり、非時間的である。これは、 「正義」という言葉が出てくる命題には、「徳」という言葉が出てくる 命題に対する含意関係があるという、形式的関係の印である。
計画は、命題の形で示される。命題は、実行ではないが実行に必要である。 たとえるなら、地図は、旅行の命題である。地図があっただけでは 旅行にならないが、地図は旅行を導く手段となりうる。命題は、 機能によって定義される。実際使わなくても、道具の準備をしておくことは 必要である。
アリストテレスにおいては、述語となりうるものは、本質、性質、類、種、 偶有性に分類された。これは現代においては意味がない。偶有性と 呼ばれたものには、現代においては、「理由」がある場合と、 まったく「偶然的」なものがある。前者は科学的探究の対象である。 今では、探究に不可欠なものが「本質的」であり、不必要なものが 「偶然的」である。