杉の柩

著者Agatha Christie
訳者恩地 三保子
シリーズクリスティー文庫 18
発行所早川書房
刊行2004/05/15、刷:2008/10/31(3刷)
原題Sad Cypress
原出版社Collins Crime Club
原著刊行1940
入手福岡市図書館除籍図書の払い下げ
読了2021/08/17

しばらく前に入手していたのだが、読まずに放ってあった。 Suchet 版(脚本は David Pirie)のテレビドラマを見たのを機に読んでみた。

原作は三部構成である。第一部では、事件編である。 エリノアとロディーとメアリイの三角関係が発生して、メインの事件(メアリイ毒殺)が発生するまでが描かれる。 第二部は、捜査編である。ポワロが関係者一人一人を尋ねて回っていろいろなことを聞き出す。 むろんそれらの証言には嘘がいろいろ含まれていて、第二部の最後の方で、証言の綻びが少しずつわかってくる。 第三部は、解決編である。法廷で驚くべき真実が明かされ、最後にその説明がポワロによってなされる。 この骨格は、最近読んだ『ナイルに死す』や 『死との約束』とも似ている。 まず、不穏な空気に満ちた長い導入の末に事件が起こる。次に、ポワロが関係者一人一人から証言を得る。 それらの証言は嘘に満ちている。その嘘の証言の綻びをポワロが少しずつ発見してゆくが、 読者にはその全貌はなかなか明らかにされない。最後に、ポワロが一気に物語を解決へと導く。

『ナイルに死す』や『死との約束』に比べると、『杉の柩』は、より円熟味が増している。 『ナイルに死す』と比べると、メインの事件の周囲にそれほど悪事をたくさんちりばめず、すっきりした形になっている。 『死との約束』と比べると、サディズムのような特殊な心理ではなく、自然な人物設定で物語が進行している。 さらに、犯人が最初の方から堂々と登場している。『死との約束』では、犯人はそれほど詳しく描かれていなかった。 『杉の柩』では、犯人は真相が明らかになる前までは自然な人物設定の一員として描かれるが、 実は極悪人だったことが最後に分かる。犯人の隠し方が実に秀逸である。

霜月蒼の評価では、 『ナイルに死す』が5点満点の4.5点、『死との約束』が5点、『杉の柩』が4.5点だが、 この円熟味を考えて、私だったら、『杉の柩』を『ナイルに死す』や『死との約束』よりも高く評価しそうである。 男女間の愛情の機微が描かれているところも読みどころである。

題名の『杉の柩』の由来は Wikipediaに書いてあった。シェイクスピア『十二夜』の第二幕第四場の歌から取られたものだそうな。 小説のエピグラフとして書かれているらしいのだが、この恩地訳では省かれている。その歌の前半部の 坪内逍遥訳 は以下の通り。

來をれ、最期《いまは》よ、來をるなら、來をれ、
杉の柩に埋めてくりゃれ。
絶えよ、此息、絶えるなら、絶えろ、
むごいあの兒に殺されまする。

引用と言えば、途中で Wordsworth の引用が出てくる(第二部第6章、p.236)。 これは Lucy 詩群の "She dwelt among the untrodden ways" の最後の部分である。 恩地訳では「きみ、今、墓所(おくつき)にねむる、わが心永久にかき暮れ、日の色もむなし」となっているが、 原文はもっと短く

But she is in her grave, and oh,
The difference to me!
である。Suchet 版の日本語版(宇津木道子訳)では「あの子は墓に、ああ、何という変わりよう!」と訳していて、 こっちのほうが素直な訳である。

一か所、誤訳(訳し落とし)のため意味が通じなくなっていた場所を見つけた。第三部第6章の中のポワロの台詞より (p.399):

[原文] You converse with the gardener and lead him to say that he saw your car in the road; and then you give a start and pretend that it was not your car. And you look hard at me to make sure that I realize that someone, a stranger, must have been there that morning.

[恩地訳] あなたは庭師と話をして、彼にあなたの車を道で見たと言わせ、そのあとで、あなたの車ではないと しきりに主張した。そして、誰か外国人が、あの朝あの家をうろついていたということを私が納得したかどうかたしかめるように、 しげしげと私の顔を見た。

[私の訳] あなたは庭師と話をして、車の話に誘導したものの、庭師は道であなたの車を見たと言ってしまいました。 あなたはびっくりして、それは自分の車ではなかったということにしようとしてましたね。そして、誰か見知らぬ人があの朝そこにいたのだと 私が納得したことを確認するように、私の顔を穴の開くほど見てましたよね。

恩地訳では you give a start(びくっとする)を訳し落としていて、自分の車を見たと言われたのがピーター・ロードにとって 予想外だったことが良くわからなくなっている。なお、ここで言及されているのは、第二部第12章2 (p.295) での ポワロ、ロード、ホーリック(庭師)の会話のこと。ホーリックは、第二部第13章の最後 (p.315) で、その車が ロードのだったとはっきりポワロに言っている。

なお、訳に文句を付けてきたものの、悪い訳だと言っているわけではない。全体的には自然にすらすら読めた。

Suchet 版の特徴と筋書き

Suchet 版では原作と犯人と犯行の筋は変えていない。が、ポワロの出番を増やしてあるのが大きな違いである。 ポワロが第一部相当のところから出てくるということと、 第三部の解決が法廷ではなくウエルマンの屋敷でポワロによって行われる、ということである。 それも含めて、テレビドラマが原作と違っているところで気付いた点を列挙してゆく。