NHK「100 分 de 名著」で取り上げられたのを
機に読んでみた。『緋色の研究』は子供の頃から(たぶん子供用に書き直したものを)何度か読んでいるのに
さっぱり覚えていないという気がしていたのだが、読み進めていくうちに、そういえば私は子どもの頃これで
モルモン教は怖いと思ったのを思い出した。今になって冷静に見ると、ここでの描かれ方から見て、
ドイルはモルモン教が一夫多妻を認めていたことを嫌悪しており、世の中の多くの人も嫌悪していたということだろう。
ちなみに、今のモルモン教主流派は一夫多妻を認めていないということである。
『緋色の研究』は、すでに第一作にしてホームズものの特徴がはっきり出ている。ホームズとワトソンを対比させて
ホームズの鋭さを際立たせるとか、ホームズが格好の良い弁舌をふるうとか、伝奇時代小説的背景ストーリーを入れておくとか、
若く美しい女性はだいたいいわゆる「淑女」になっているとか。娯楽小説として安心して楽しめる要素が満載である。
とくに後半を事件の背景を語る昔話にすることで、全体を英米にまたがる壮大な復讐劇に仕立てたところが秀逸である。
『緋色の研究』はホームズものの第1作だから、ホームズとワトソンの出会いから書いてあるのが
特徴の一つである。とくにワトソンの来歴については、これを読まないとわからない。
勧善懲悪スタイルにするために、殺人の被害者は極悪人で、犯人はそれに復讐の鉄槌を下したことにしてある。
その犯人は、裁かれず、持病のために突然死する。つまりは、天の導きによって死ぬ。
注釈的メモ
PART I:
Being a Reprint from the Reminiscences of John Watson, M.D., Late of the Army Medical Department
Chapter 1 Mr. Sherlock Holmes
Watson が Holmes を紹介されて出会うまでの経緯。
- 章タイトル
- のちの "The Hound of the Baskervilles"
の第1章も同じタイトル "Mr. Sherlock Holmes" になっている。
- 事件の起こった年はおそらく 1881 年
- Dr. Watson は第二次アフガン戦争 (1878-1881)に従軍し、負傷して本国に送還された。
Watson は 1880 年 7 月の
Maiwand の戦いで負傷し、その後、腸チフスで数か月入院し、さらに1か月かけて英国に戻ってくる。
事件が始まったのが 3 月 4 日 (Chapter 2) なので、おそらく年は 1881 年だろうと推測される。
Chapter 2 The Science of Deduction
Holmes の推理力に Watson が驚嘆する。
- 章タイトル
- 次の作品 "The Sign of Four"
の第1章も同じタイトル "The Science of Deduction" になっている。
- 推理する
- Holmes は自分の学問分野を Science of Deduction and Analysis と呼んでいる。
日暮訳は『推理分析学』だが、もうちょっと直訳に近く言えば、「演繹と分析の科学」だ。
これに関して、
Holmes は演繹と帰納の区別も知らない、と文句を付ける向きもある。
しかし、ドイルはそれほど厳密に演繹という意味で deduction という単語を選んでいるわけではないようである。
たとえば、同じ章で日暮が「推理」と訳している部分の英文を見てみると、
「推理過程」→「the processes by which he had arrived at them」、
「推理できる」→「could infer」、「観察と推理の素質」→「a turn both for observation and for deduction」、
「推理の過程」→「The train of reasoning」となっている。
つまり、「推理する」に相当する単語としては、infer, reason, deduce などをさほど区別なく
いろいろ取り換え引き換え使っているようである。言い換えると、日本語の「推理する」に
相当する単一の英単語は無さそうである。ちなみに、手元の電子辞書(新和英中辞典)
で「推理」を引くと reasoning, inference, ratiocination が出てきて、deduction は入っていないのが面白い
(もちろん
辞書によっては入っている)。「推理小説」だと a detective story, a mystery story, a crime story,
a mystery, a whodunit が出てくる。
- 諮問探偵
- Sherlock Holmes は、自分の職業を a consulting detective(諮問探偵)と呼んでいる。
自ら捜査するというより、刑事・警部や民間の探偵が捜査に行き詰った時、相談に乗ってあげる探偵というわけだ。
実際『緋色の研究』では、Gregson 警部の依頼を受けて捜査を始めている。しかし、その後の作品では、
依頼人は刑事・警部や民間の探偵ではないことのほうが多い。
- Scotland Yard
- ロンドン警視庁 (Metropolican Police Service of London) の本部のことをなぜ Scotland Yard と呼ぶのかの説明が巻末の注釈に載っていたので、
Wikipedia「スコットランドヤード」や
Wikipedia「Great Scotland Yard」も参照しながら、それをここに書き留めておく。
ロンドン警視庁本部は、現在までに3度の移転を経験している。このうち 1829 年から 1890 年までの初代の建物が
4 Whitehall Place にあった。『緋色の研究』事件は 1881 年に起こったのだから、
その当時の本部は、まさにこの初代の建物である。で、その建物の背後(といっても一般の入り口があった側)が
Great Scotland Yard という通りに面していたので、ロンドン警視庁本部は Scotland Yard と呼ばれるようになった。
さらに、その通りの場所には、かつて Scotland 王国の外交代表団が使っていた Palace of Whitehall
の中庭 (courtyards) があったので、通りの名前が Great Scotland Yard になった、とのことである。
Chapter 3 The Lauriston Garden Mystery
Holmes が Gregson 警部から依頼されて、事件現場と Drebber の死体を調べる。
- imitation white marble
- 日暮訳では「白い人造大理石」となっている。現代的には、「人造大理石、人工大理石」といえば、大理石を砕いて樹脂等で固めたもの、
もしくは樹脂を大理石風にした材料のことだが、19 世紀の模擬大理石とは、大理石風に塗装した家具や建材などのことを指すらしい。なので、
「人造大理石」は誤解を招く訳で、surmounted by a mantelpiece of imitation white marble は、
「白く大理石風に塗装されたマントルピースで囲まれた」とでも訳しておく方が良いだろう。
ネット検索してみると、実際、20 世紀初頭に作られた大理石風塗装の木材製マントルピースがあった。
- genius is an infinite capacity for taking pains
- Holmes の言葉の中にある「天才とは全く苦労を厭わない能力である」という意味の諺的な表現である。
起源ははっきりしないようだが、
Thomas Carlyle や Jane Ellice Hopkins (いずれも 19 世紀後半)だと
する説があるようである。
Chapter 4 What John Rance Had to Tell
殺人事件の遺体の第一発見者である John Rance 巡査の証言を Holmes と Watson が訊く。
- I want to go to Halle’s concert to hear Norman Neruda this afternoon
- Holmes の言葉である。ここで、Norman Neruda が何者で Halle との関係は何かが気になるわけだが、
その答えは、
Wikipedia「Wilma Neruda」 に書かれている。Wilhelmine Maria Franziska Neruda (1839-1911) は、
Moravia の女性天才ヴァイオリニストである。1864 年に Ludvig Norman と結婚したので Norman Neruda
とも呼ばれるようになった。夫の死後、1888 年にピアニストで指揮者の Charles Hallé と再婚した。
再婚する前から Hallé とはよく一緒にコンサートをしていた。ということで、ホームズは Hallé と
Neruda が共演するコンサートを見に行きたかったということだ。
- a study in scarlet, eh? Why shouldn't we use a little art jargon.
There's the scarlet thread of murder running through the colourless skein of life,
and our duty is to unravel it, and isolate it, and expose every inch of it.
- Holmes の名文句で、本のタイトルの由来である。
[日暮訳] 芸術の用語を使うなら、『緋色による習作』とでもいったところじゃないか?
人生という無色の糸の束には、殺人という緋色の糸が一本混じっている。ぼくらの仕事は、
その糸の束を解きほぐし、緋色の糸を引き抜いて、端から端までを明るみに出すことなんだ。
日暮は、"a study in scarlet" を本の題名では『緋色の研究』、ここでは『緋色による習作』と訳している。
「研究」か「習作」かの事情は、巻末の「解説」に書いてある。どちらが正しいとも言いにくいということで、
確かにそのようである。「研究」と「習作」の両方の意味が込められていると理解すべきであろう。
緋色と scarlet が同じと言っていいかどうかは微妙な問題のようである。
scarlet から連想されることがらには、
キリストの血、殉教者、犠牲、不道徳、罪などといったものがあるようである。ホーソーンの "The Scarlet Letter"
は、まさに不道徳を象徴するものであるとともに犠牲者の意味も込められているのかもしれない。
翻って、Holmes の場合は「殺人という緋色の糸」だから、第一に「血」を象徴するのであろう。
- that little thing of Chopin's
- Holmes は Neruda が弾く Chopin が良いと言っている。Chopin はヴァイオリン曲をほとんど書いていないので
これは珍しい。ショパン作品リストを見ると、考えられることは2つで、
一つは、ショパンが作曲した唯一のピアノ三重奏曲か、もう一つは、ヴァイオリン用に誰かが編曲した何かのピアノ曲かである。
Chapter 5 Our Advertisement Brings a Visitor
Holmes が指輪を拾ったという広告を出すと、老婆がやってきた。Holmes が後を追ったが逃げられた。
- 被害者 Drebber の邪悪な顔
- ドイルは、この物語を勧善懲悪話にするために、Drebber がどういう人物か明かされる前から
死に顔が凶悪だったと Watson に本章の最初の方で言わせている。その表現を拾っておくと、
distorted, baboon-like countenance(歪んだヒヒのような容貌)、so sinister was the impression
(印象があまりにも凶悪)、if ever human features bespoke vice of the most malignant type
(極悪非道を表象する人相というものがあるのだとしたら)という具合である。
正体が分かる前から被害者のことをそんなにけなして良いものかと心配になってくる。
Chapter 6 Tobias Gregson Shows What He Can Do
Gregson 警部が見当違いの容疑者 Arthur Charpentier を逮捕し、その自慢をするために Holmes を訪ねる。
そこへ Lestrade 警部がやって来て、Stangerson が殺されたと言う。
- the Baker Street division of the detective police force
- 日暮訳では「刑事警察のベイカー街分隊」となっている。ホームズが情報収集に使っている
ベイカー街の浮浪少年たちで、本作品では犯人逮捕につながる活躍をする。
次作の『4つの署名』では The Baker Street Irregulars という別称も与えられるが、
巻末の注釈によれば、本作品と次作以外で登場する作品は『背中の曲がった男』だけのようである。
登場回数は少ないながら、魅力的な存在なので、
歴史あるシャーロキアン団体がその名前を使っている。
Chapter 7 Light in the Darkness
Lestrade 警部が Stangerson 殺害現場で見つけた2つの丸薬の一つが無毒、もう一つが毒入りであることを確かめると、
Holmes は真相が分かったと言う。Holmes は真犯人の Jefferson Hope をおびき出して捕まえる。
- These strange details, far from making the case more difficult, have really had the effect of making it less so.
- 奇妙に見えることがいろいろあるので、これは解決が難しい事件だと思ったかもしれないけれど、
むしろそれらの奇妙な事柄のおかげで解決が容易になったのだ、というホームズの台詞である。
Holmes もの的な探偵小説の楽しみの一つを簡潔に言い表したものだと思う。
PART II:
The Country of the Saints
Chapter 1 On the Great Alkali Plain
アメリカ中央部の砂漠地帯で、幼い Lucy を連れた John Ferrier が息も絶え絶えになっていた。
そこにモルモン教徒の大部隊が現れ、二人は改宗を条件にして助けられる。
- the Sierra Blanco
- John Ferrier が行き倒れになりかけた場所の近くにある山(もしくは山脈)の名称である。
これにはおかしな点が2つある。まず、sierra は、スペイン語で「山脈」を表す女性名詞なので、
修飾する形容詞も女性形 blanca でないとおかしい。で、これが仮に the Sierra Blanca の誤りだったとしよう。
実際、日暮訳では「シエラブランカ山」にしてある。たしかに
the Sierra Blanca という山地は New Mexico 州に存在する。小説中に名前が出てくる
Rio Grande 川もその西側を流れているから、それで良さそうだが、もう一つ問題がある。
John Ferrier は Brigham Young が率いるモルモン教徒たちに助けられて Utah に行くのだが、
モルモン教徒たちが辿った道は、Rio Grande や the Sierra Blanca のそばを通らないのである。
そこで、the Sierra Blanco を Wyoming 州にある Oregon Buttes の別名だと考える人もいるようである。
Chapter 2 The Flower of Utah
John Ferrier は Utah で農場経営をして豊かになった。Lucy も美しく育った。そこに若き Jefferson Hope が現れ、
Lucy と恋仲になる。Jefferson は、再び帰ってくることを約束して、鉱山の仕事に出かける。
- beehive
- ミツバチの巣は
モルモン教のシンボルの一つである。共同作業と産業を象徴しているらしい。小説中でも
モルモン教徒たちの勤労の象徴として使われている。
- Nevada の銀
- Jefferson Hope は Nevada で銀の採掘をしている。
Wikipedia に
Silver mining in Nevada という項目があることでわかる通り、Nevada は銀鉱床で有名らしい。
種類の異なる鉱床がいくつかあるようだ。
Chapter 3 John Ferrier Talks with the Prophet
John Ferrier の家に預言者 Brigham Young がやって来て、娘の Lucy を Stangerson の息子か Drebber の息子の
どちらかと結婚させろと迫る。猶予は1か月だった。John は Jefferson Hope に助けを求めることにする。
- Brigham Young
- つい最近まで生きていた実在のモルモン教の指導者を小説の中に悪役として登場させるのはいかがなものかと思うが、まあともかく
Brigham Young (1801-1877) は Salt Lake City をモルモン教の本拠地として築いた
人物である。小説の書きぶりからすると、ドイルは一夫多妻を嫌悪したのではないかと想像される。
時代的背景からしても、他の小説からしても、ドイルはヴィクトリア朝的倫理観の持ち主だったと思われる。
一方、Brigham Young には妻が 55 人いたそうである。倫理的あるいは社会制度的な問題を棚に上げるとしても、
Young にはよほど金と暇があったのだろうと思う。
Chapter 4 A Flight for Life
Lucy の結婚の返答の期日が翌日に迫った夜、Jefferson Hope が来てくれた。深夜、Jefferson Hope、John Ferrier、
Lucy は、厳しい監視をかいくぐって町から決死の逃亡を敢行した。
- He grindeth slowly but exceeding small.
- 神の碾き臼
は、天罰を意味する慣用表現だそうである。したがって、この文は、「天罰は、ゆっくりと遺漏なく下る」という意味になる。
これは Enoch Drebber の言葉だが、その後の自分の運命を暗示することになっている。なお、grindeth の
-eth は
中英語くらいまでの3人称単数現在の語尾である。
Chapter 5 The Avenging Angels
Jefferson Hope が John と Lucy を置いて猟に出ている間、追っ手がやってきて John を殺害し Lucy を連れ去った。
Lucy は Enoch Drebber と結婚させられ、衰弱して死ぬ。Jefferson Hope は棺の中の遺体から指輪を抜き取るとともに、
復讐の鬼と化した。
- 復讐
- 日暮訳で「復讐(する)」と訳されている語が英語では何かをまとめておく。もちろん revenge が多いのだが、
他に avenge(復讐する)、avenger(復讐者)、vindictiveness(復讐心)、vengeance (復讐)、
retribution(報復、天罰)が使われている。これらの単語のうち retribution 以外には、
語源的にラテン語の vindicare (主張する、復讐する) から派生している。
これらの単語は、主として Jefferson Hope による復讐を指しているのだが、
章タイトルの the Avenging Angels は、Chapter 3 で最初に出てくるモルモン教の秘密組織「ダナイト団」のことで
巻末の注釈によれば、モルモン教への裏切者に対する復讐をする組織のようである。
Chapter 6 A Continuation of the Reminiscences of John Watson, M.D.
Jefferson Hope による真相告白。
- A spasm of pain contorted his features; he threw his hands out in front of him, staggered, and then,
with a hoarse cry, fell heavily upon the floor.
- Enoch Drebber が毒を飲んで死ぬところの描写。表情を「歪める」には contort という単語が使われている。
類語に distort があるが、contort は生き物の顔や身体を歪める時に用い、
distort は主に無生物や身体的ではない歪みを生じるときに用いるもののようである。語源的には
contort
は com(一緒に)+torquere(ねじる)、
distort
は dis(完全に)+torquere(ねじる)とのこと。
Chapter 7 The Conclusion
Jefferson Hope は大動脈瘤が破裂して死ぬ。Sherlock Holmes が Watson に自分の推理の説明をする。
- 結果から原因に戻ってくる推理
- 結果から原因に戻ってくる推理ができる人が少ないとホームズは語る。
There are few people, however, who, if you told them a result, would be able to evolve
from their own inner consciousness what the steps were which led up to that result.
This power is what I mean when I talk of reasoning backward, or analytically.
ここの日暮訳では、以下のように「推理」という単語が3回使われているが、対応する英語が evolve と
reason というのが面白い(つまり、deduce や infer ではなく、という意味)。
つまり、日本語だと「推理」という単語が探偵の思考法とあまりにも強く結びついてしまったので、
それ以外の単語があまりぴったりしなくなっているということだと思う。
[日暮訳] ところが逆に、ある結果を聞かされて、その結果が出るまでにどんな段階を経てきたのかを
論理的に推理できる人はほとんどいない。これがぼくの言う、あと戻りの推理、つまり分析的な推理というやつだ。